本日の聖書 エレミヤ書31章34節
「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」
宣教題 「新しい契約」 北村 紀一
聖書が私たちに伝えていることは、「主により頼む」ことだけです。そのように主を一番にして生かされてきた先輩たちの「信仰」にならうことです。
それにも拘わらず、イスラエル、ユダ王国の王たちの中には、偶像礼拝の罪を犯すものがあとをたちませんでした。権力をもつ立場がそうさせてしてしまうのか、国のリーダーが神様を忘れ、神様を侮り、本来の役割を忘れてご利益を求めてどんな神でも節操なく拝むようになれば、そのような風潮がやがて人々の間に蔓延して、その国は堕落してしまうわけです。
私たちは国の王様ではないから関係ないと思うかもしれませんが、実にわたしたちは王なのです。自分という国を与った王なのです。だから、主を一番にしない生き方をするとき、自分が堕落してしまうわけです。
こうして、信仰の継承をしていたはずのユダ王国は、主から離れてしまって、自滅へと向かっていきました。アッシリアの後に興ったバビロン帝国によって滅ぼされ、人々はバビロンの領地へと強制移住(バビロン捕囚)させられました。
本当に人間は弱いものであることを痛感します。ところが、神さまから離れて、人々が絶望のどん底に陥ったとき、エレミヤは一転して、主による救いの預言を語り始めました。私たちの心に主が語りかけても、私たちは聞く耳がなかったのに、どん底に落ちた時に、耳が開かれることがあります。そのように本当に頼りになるもの、本当の救いは、どん底に落ちた時にこそ見えるのかもしれません。
人は自分の罪の報いを受ける、しかし、罪を裁くべき神様ご自身が、もはやその罪を責めはしないというのです。私たちは神様を忘れていたかもしれないが、神様はあなたのことを、一日たりとも忘れたことはない、変わらず、あなたを愛して待ち続けていて下さる、この約束こそ、新しい契約だ、とエレミヤはいいます。神様は、この約束を、一人ひとりの心に直接書き記して下さる、胸の中に与えて下さる。主は私たちをどん底に落とすことを望んでおられるのではなく、私たちがいつも、本当の幸せに向かうこと、そのために成長することを望んでおられるのです。主の十字架、憐れみ深い主の愛に感謝します。
本日の聖書 マタイによる福音書15章10〜11節
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
宣教題 「汚れは自分の心から出る」
ユダヤ人の政治・宗教の指導者であるファリサイ派は、「罪人」と呼ばれる人と食事をしなかった。また徴税人と食事をしなかった。娼婦とも食事をしなかった。そんな罪人達と食事をすると、自分も汚れると思ったのです。そして汚れた時、自身を洗い清めた。
私がまだ中学生の時、同級生の女の子がイジメにあっていました。彼女は「きたない」と言われていたのです。彼女の持ち物が「きたない」と言う。わざと触れて「あー汚い」と言って、その触れた手を他の子に触れて移す。彼女は友達がいなくひとりぼっちでした。誰と話をすることもなく、暗く寂しそうな顔をして、いつもぽつんとひとりでいました。
今そのことを思い出すと、非常に心が痛みます。その子はどんなにつらかっただろうか、どんなに寂しかったことだろうか‥‥。どんなに苦しかったことだろうか。どんなに泣いたことだろうか。そして自分はなぜ、味方になってやれなかったのだろうか‥‥。
汚れていたのは、彼女なのでしょうか? 汚れていたのは、「汚れが移るから」と言って、触れるのをいやがっていた人なのではないでしょうか。彼女をいじめ、からかい、「汚い」と呼んでいた人の心。その心こそが、汚れているのです。
主イエスが言われるように、「汚れ」というものは、外から入ってくるものではない。異邦人に触れたからといってうつるものではありません。まさに「汚れ」とは、わたしたちの心の中から出てくるものです。
主イエスは、当時汚れていると言われていた人たちに声をかけられ、共に食事をし、その家に宿泊したのです。
本日の聖書 マタイによる福音書15章1〜4節
そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
宣教題 「私達の神は、生かす神」
ファリサイ派と律法学者は、「エルサレムから」来たとあります。エルサレムはユダヤの都です。つまりこの人たちはユダヤ教当局から主イエスを調査をするために派遣されたのです。律法に違反している証拠を挙げ、主イエスを裁判にかけるためでした。
彼らが指摘したのは、弟子たちが食事の前に手を洗っていないことでした。これは、手が汚れているから食前に手を洗うということではなく、宗教上の行為です。出先で宗教的な汚れを受けたかもしれない。その汚れを清めるための行為が水による手洗いなのです。
主イエスは、ファリサイ派に対して「あなたたちこそ、神の掟を破っている」「偽善者たち」と反論しています。主イエスは、ファリサイ派の人々の、根本的な間違いについて指摘します。つまり、神の戒め律法は、何の為にあるのかということです。
ファリサイ派の教えは、人の罪を見つけ出し指摘する。罪に定め裁くための教えです。○○をしてはいけない。○○をしなければいけない。○○をすれば救われる。私たちの周りにも沢山ある怪しげな宗教。主イエスはそのような、愛のない宗教に反論されたのです。
神は、ファリサイ派の言うような人を裁き死刑台へ送る、お方ではない。私達の神は、生かすお方です。命を与えるお方です。希望を与えるお方です。救われる価値の無い者を救って下さるお方です。あわれみ深いお方です。人生の目的は良い点を取ることではない、イエス・キリストを信じることが第一でありたい。
本日の聖書 マタイによる福音書14章29〜31節
「イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」
宣教題 「わたしだ。恐れることはない。」
弟子たちは、主イエスの指示によって、日が沈んだガリラヤ湖を向こう岸に、渡ることになりました。主イエスは、一人山へ登られました。船に主イエスはいません。その夜、ガリラヤ湖では、嵐のような逆風が吹き、舟は木の葉のように揺れ、進まず、転覆しそうになりました。
舟は、「教会」「キリスト者」のことを指しています。嵐のような逆風が吹き荒れるこの世という湖、そしてそこに浮かぶキリスト者が乗る舟。弟子たちの乗った舟はまさに、教会の姿を現しています。
舟をこぎ出すように命じたのは主イエスです。しかしその船には、目に見える主イエスはいません。嵐の海、彼らは、命の危険を感じました。
この時弟子たちの乗った舟が逆風に悩まされたように、キリスト者も、試練という逆風に悩まされることがあります。波が高まり、沈没してしまいそうな試練に出会うのです。苦しみの中に置かれるのです。そういうとき、もはやダメかと思われる。そこは湖の真ん中で、助けてくれる人は誰もいない。その時ペテロは叫びます「主よ、助けてください」
まさにその時そこに、主イエスが近づいて来られるのです。それも湖の上を歩いて弟子たちの乗る舟に、近づいてこられたのです。それを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言って叫び恐れました。それほどに弟子たちは、恐怖の中にいたのです。
海の真ん中や、誰も近づくことができない場所でも、「主よ、助けてください」その叫びに、主イエは、救いに来られたのです。そこがどんなに困難な中であっても、主イエスは、来られる。そして言われる「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
本日の聖書
「ヒゼキヤは二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」
宣教題 「信仰再建」 北村 紀一
ヒゼキヤにとって父祖であるダビデに与えられたビジョンは何だったでしょうか。それは、神様を礼拝する神殿の建築でした。なぜ、ダビデは、神殿建築を目標として与えられたのでしょうか。それは、神さまへの信仰に立った国創りのためです。これが教会の原点です。ダビデは信仰によって神さまから「ビジョン」が与えられ、そのための計画も目的もはっきりしていました。常に聖書は、神さまへの信仰に立った国創りを目指すときに、祝福で満たされています。
ところがヒゼキヤの父であるアハズ王は、(歴代誌下28:1)偶像を持ち込んで、神さまから遠く離れてしまいました。結果、南ユダ王国は、いつアッシリアに滅ぼされてもおかしくないボロボロの状態となったのです。そんな状態の時に、ヒゼキヤは王となりました。信仰の人であるヒゼキヤは主の目にかなう王であったと言われるように、信仰によって、すぐにユダ王国再建にとりかかりました。
1つ目は、ヒゼキヤはダビデの信仰に倣い、神さまへの信仰に立った国創り、そのために礼拝をささげる神殿を清めました。つまり宮清めをしました。それは偶像をすべて取り除くことでした。偶像は神さまを一番にしないもの、自分を正当化するためのものなので、持ち込みたくなるものですが、それを取り除きました。
2つ目は、清めた神殿でいけにえをささげました。いけにえとは、罪を赦していただくために献げるものです。今の私たちに当てはめるとイエス様がわたしたちの罪を赦してくださるために、いけにえとなってくださった。イエス様の命に代えて、私たちを生きるものとしてくださったことをしっかり、心にとどめることです。いけにえをささげることは、どんな時も、主よ〜と主を一番にした生き方を目指すことです。
宮清めをする、いけにえをささげる、これがヒゼキヤが行ったことです。このように主の信仰に立った教会づくり、信仰生活を心掛けていきたいものです。
私たち一人一人の必要をすべてご存知の主が言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)