本日の聖書 マタイによる福音書5章17節
「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
宣教題「愛の完成」 牧師 新保雅雄
主イエスは、「山上の説教」の中で、律法の掟を6個所取り上げられました。(5章21〜48節)。こうした一連の具体的かつ個別の教えに入る前に、主イエスは、弟子たちに対して、律法をどう受け止めるべきか語られました。
これは私たち教会に対しても、律法の役割、そしてどう受け止めるかということを教えられています。
主イエスはこう言われています。
「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
ここで言われている律法とは、旧約聖書の創世記から申命記までの五つの書(モーセ五書)を指しています。そして「律法と預言者」と言う場合の預言者とは、エリヤやイザヤという預言者たちだけではなく、イザヤ書やエゼキエル書といった預言書のことも指すのです。
主イエスは、これらの「律法と預言者(預言書)を廃止するためでなく、完成するために来られました。」とは、すなわち主イエスは、律法や預言者の語る本来の意味、そこに示された本来の神の御心を回復し、完成するために来られたのです。
律法や預言者の語る本来の意味とは、「山上の説教」の7章12節に記されている、主イエスの言葉から解かります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言われている主イエスの言葉です。
この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という言葉は、単純でありながらも非常に深みのある大切な言葉です。すなわち律法の完成とは、愛の完成なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章14節
「あなたがたは世の光である。
山の上にある町は、隠れることが出来ない。」
宣教題「地の塩、世の光」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われました。
主イエスは、何か条件を付けて、「もし、○○ができるならば、地の塩、世の光になれる」だからなれるように頑張りなさい、と言われたのではないのです。
また、特に選ばれた人、才能をもった人にだけ言われた訳でもないのです。今のままの「あなたが、地の塩であり、世の光なのだ」と言われているのです。
ここに、神の恵みによる幸いがあります。「神が、一方的に、恵みによって、私たちを選んでくださり、地の塩、世の光としてくださった。だから、相応しく生きよう」これが、選ばれた者に期待された生き方なのです。
救いも同じです。「何かが出来たから救われたのでは、ありません。」「救われたから神の言われるような人生を生きよう。」なのです。(出エジプト)
光は自分を照らすのではないのです。
世の光としての私たちは、自分自身に光が当たることを望んではいけません。世の光としての私たちは、あくまでも、人々を照らすことや社会を照らすことが大切です。 ですから、世の光としての私たちは、この世に仕えることが求められています。その時、光が光らしく輝くのです。また塩も自分自身のためにあるのではなく、腐敗を防ぐために清めに使われるのです。
地の塩も世の光も、自分のためにではなく、人のためにこそ存在します。だからこそ、私たちは、礼拝の場から、地の塩として、また、世の光として、それぞれの働きの場へと派遣されるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章7節
「憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受ける。」
宣教題「憐れみ深い人」 牧師 新保雅雄
主イエスは、全部で9回「幸い」を語られました。その5番目の「幸い」では、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と言われています。ここで言われている「憐れみ深い」とは、聖書においては、神や主イエスについて用いられることの多い言葉です。
私たちを救うために、御子イエスを十字架で犠牲にされた神の愛、これが「憐れみ深い」ということです。すなわち艱難辛苦に遭っている人々を、ご自分の全身全霊が痛むほどに受け止めてくださる主イエスの愛、これこそが「憐れみ深い」という表現に相応しい姿なのです。
私たちを、憐れんでくださる神は、私たちを罪から救い出すために、具体的な行動として、御子イエスを救い主として、この世にお送り下さり、私たちの罪のために、御子イエスを十字架で犠牲にすることで、私たちの罪の代償とされたのです。ここに「憐れみ深い神の愛」があります。
艱難辛苦の中にある人について見聞きした時に、「ああ、可哀想に」と思って涙を流しても、それで終わるなら、それは「憐れみ深い」とは言えないのです。
心に思ったことが行動に出るとき、それが憐れみ深いというのです。具体的な形で、何かせずにはいられないほど、思いが高まる姿こそ、憐れみ深いという言葉に相応しいのです。
「可愛そうに」言葉でいうのは簡単です。しかし、その時何が出来るか、そこに本当の「憐れみ深い」があるのです。
「憐れみ深い人々は、憐れみを受ける」のです。隣人にいつも自分のことのように関心を持って接するとき、あなたも同じ関心を持たれます。憐れみを持つ人は、自分が苦しいとき、憐れみを受けます。
本日の聖書 マタイによる福音書5章5、6節
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え乾く人たちは、幸いである、その人たちは満たされる。」
宣教題「柔和な人」 牧師 新保雅雄
主イエスは、「山上の説教」で「幸い」について宣教されました。本日の聖書箇所には、全部で9回「幸い」を語られた。その中で、3番目と4番目の「幸い」を通して、主イエスの御心を学びたいと思います。
主イエスは、「柔和な人々は、幸いである」と語られています。一般的には、「柔和である」ということは、温和で、穏やかであることを意味します。つまり相手を、にこやかに受け止め、微笑みながら話を聞いてくれる人の姿が思い浮かびます。あるいは、その人と話をしているだけで、心が穏やかに安らいでくる人を思います。
確かに、主イエスが、ここで言われている「柔和である」ということは
この温和で、穏やかな笑顔を持つ人の姿を意味しているのでしょう。しかし、それに加えて、もう少し深い意味があります。
主イエスの言われる「柔和である」ということを知る上で参考になるのは、マタイ11章29、28節にあります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われています。その中に「私は柔和なもの」がでてきます。
つまり「柔和である」ということが、ただ単に温和で穏やかで優しいということだけではなく、神、主イエスとの関係にあることが分かります。
柔和であることは、一般的な意味での、人としての優しさや、笑顔の姿にとどまらず、神との関係において言えることなのです。神への信仰という関係なくして、柔和な幸せはないということです。
柔和とは、腹の中は黒いのに、ただ外面をニコニコ作ることではなく、心の中から出ることであり、神に従う厳しさも持ち得るときに、柔和が幸せになるのです。
「暗闇に住む民は 大きな光を見、
死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ」
宣教題「光が射し込んだ」 牧師 新保雅雄
主イエスは、私たちを罪から救うために、十字架で犠牲になってくださいました。何の罪も犯さなかったにも拘らず、暗闇と無縁であったにも拘らず、敢えて暗闇の中に飛び込んで来てくださいました。私たちの罪を身代わりとして、十字架で死んでくださったのです。ここに、神の愛があります。
この世には、様々な光があります。ギラギラ脂ぎった光、金と欲にまみれた光もあります。また人を貫く心を閉ざさせる冷たい光、人を監視する批判する光もあります。
しかし主イエスのもたらす光は、神の愛に溢れた、柔らかな光です。この光の方に、向き直り、体と心に、主イエスの光を浴びるときことこそ救いの始まりの時です。主イエスのもたらす光に向き直ることこそが、文字通り「悔い改める」ことなのです。
せっかく主イエスによって、救いの光が射し込んでいるのに、この光に背を向けてしまえば、その人は、光を受け取ることが出来ません。相変わらず、闇の中であえぐ生活を続けることになるのです
確かに、この世には、暗闇を思わせる事件や出来事が、あちこちで起こります。でも、そんな中にも主イエスの光は射し込んでいます。
この光の方に向き直り、心を開いて、主イエスを受け入れることで、私たちは、心を温められ、励まされ支えられるのです。
悔い改めて主イエスの光を浴びるとき、今まで隠されていた自分の罪を明らかにされることで、痛みや葛藤を伴うことになるかも知れません。しかし、この悔い改めの痛みこそが、あなたを新しく変えていく産みの痛みであり救いの始まりです。全てを委ねて下さい。
