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板橋区仲町23−17
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03-6555-5440
(主宰 赤谷拓治)
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投稿者 : church 投稿日時: 2016-02-07 07:14:14 (1159 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書6章16節

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」

宣教題「断食」   牧師 新保雅雄

 主イエスの時代、断食は、施し、祈りと共に、信仰生活において欠かすことのできない、大切なものでした。断食は、食事を断つことによって、神に思いを集中することです。

このように本来、断食とは、「何を食べようか」、と思い煩うことなく、神に心を向けるために行なわれてきました。ところが、いかにも、「自分は断食しています」、「苦しいけれども頑張っています」と、自分の信仰を誇らしげに見せるような、わざとらしい断食がされました。

実際は、それほど苦しくも無いのに、人の注目を集めようと、わざと、大げさに見せかける断食です。 主イエスは、こうした見せかけの、「断食」に、「彼らは既に報いを受けている」と言われます。

既に、主イエスは、人に見せびらかす施しや、人に見せびらかす祈りを戒められました。そして、ここでは、人に見せびらかす断食を戒められたのです。神に対してされる信仰が、人に対してされてしまうのです。

主イエスは、断食する時には、頭に油をつけ、顔を洗いなさいと言われました。つまり、たとえ断食する時にも、普段どおりの、さり気ない格好で行いなさいと言われるのです。

そして本当に苦しい時、本当に辛い時には、顔つきや格好を気にする必要はありません。沈んだ顔つきのままで、見苦しい顔のままで、髪振り乱したままでも、着の身着のままで神に助けを求めて良いのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」9:12と主イエスは言われています。救急車で病院に運ばれる時に、着替えたり、化粧する必要はありません。神に助けを求める時にも同じです。信仰は人に見せ人が評価するのではなく、信仰とは、神の恵みなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-01-31 07:28:45 (954 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書6章9節

「天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように」

宣教題「私たちの父よ」   牧師 新保雅雄

主の祈りは、主イエスが弟子たちに教えられた祈りです。主イエスご自身が祈り、また、弟子たちにもこように祈りなさいと教えてくださった祈りです。以来、約2千年に渡りキリスト教会は、繰り返しこの主の祈りを祈り続けてきました。時代を超え、場所を超え、宗派を超え、同じ祈りを祈り続けて来ました。

この主の祈りは、神への呼び掛けと、それに続く6つの祈りから成っています。まず、神に対して「天におられる、わたしたちの父よ」と呼び掛けています。神に向かって、親しく「父よ」と呼び掛けることから始まるのです。祈りは父と子の対話なのです。

そして「私たちの父よ」と呼び掛けるのです。つまり神は、自分一人の神でなく、「わたしたちの神」として呼び掛け祈るのです。つまり自分だけではなく、人のことを人と共に祈ることの大切さを言われています。 教会は常に兄弟姉妹の群れであるということです。

この呼び掛けに続いて、始めの3つの祈りは、神ご自身に対しての祈りです。そして、後の3つの祈りは、「わたしたち」に対しての祈りです。この順番が大切です。

ともすると私たちは、自分の祈り願いにばかり、思いが向きがちになります。自分のことばかり、神に言い立てたくなるのです。まず祈りにおいて大切なことは、祈られるべきは神であり、神に思いを向けることで、祈りが神との会話となるのです。

後半の3つの祈りは、「わたしたち」についての祈りです。「わたしたち」と祈る時に、どの範囲の「わたしたち」を思い浮かべることが出来るかが問われます。主の祈りが、私たちの親しい者だけなのか、あるいは世界のすべての人たちについてなのか?


投稿者 : church 投稿日時: 2016-01-24 07:29:00 (955 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書6章1節

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」

宣教題「神の目、人の目」   牧師 新保雅雄

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」主イエスは「善い行い」をすることについて、このように言われました。

「善い行い」と言うと、人に親切にするとか、世の中のためになることを行う、ということが思い浮かぶかも知れません。あるいはボランティア活動をすること、人助けだと考えます。

確かに、こうしたことも、「善い行い」だと言えるでしょう。ただ、主イエスの時代のユダヤでは、善行と言えば、「施しと祈りと断食」のことを意味しました。 つまり、善行とは、神を信じる人が、その信仰に基づいて実行すべきこと、信仰の実践を意味したのです。信仰を目で見える形で現すこと、これが善い行い「善行」なのです。

こうした善行は、自分の信仰を人の前で証明する機会なのです。ですから、自分はこんな立派な信仰を持っていると、人に主張し見せること、人目を気にしながら、善い行いを行うということが起こったのです。せっかくの善い行いが自分を誇る為に使われてしまうのです。

そこで、主イエスは、見てもらおうとして、人の前で善行をしないようにと言われたのでした。善い行いは、人に向けてではなく、神に向けて、行われるべきものである。つまり見える人ではなく、見えない神にと言われています。人は誰でも善い人に見られたい願望があります。

本日は、三つの善行の中の「施し」についてです。偽善者たちは、人からほめられることを望んで、会堂や街角で施しをするのです。 偽善者は、本来、目を向けるべき、施しを必要としている、貧しい人から離れ、回りの人の目に向けられます。そこには、「隣人を愛する」姿は、ありません。施しという行為は、本来、隣人愛から生じる優しい愛の行為である筈です。残念ながら、人は、外面で人を判断します。しかし神は、その人の見えない心の中の思いで判断します。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-01-17 07:49:36 (1216 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書3章15節

イエスはお答えになった。『今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。

宣教題「告白と赦し」   牧師 新保雅雄

キリスト教会には、聖餐式と洗礼(バプテスマ)という二つの聖礼典があります。今朝は、新しい信仰の人生の出発となる洗礼について学びます。その洗礼の起源(キリスト教)ですが、主イエスが最初に弟子に洗礼を授けたのが始まりと思いがちになりますが、そうではなく、その逆で、主イエスご自身が洗礼を受けたという出来事が、伝道の開始に先立ってあったと、マタイ福音書は記しています。

つまり主イエスが、キリスト教の洗礼を制定する前に、主イエス自身が受洗したことが、キリスト教の洗礼の起源にあるのです。

ヨルダン川で洗礼を施していた洗礼者ヨハネも、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」と私たちと同じ疑問を持って聞きなおしています。

では、主イエスは、悔い改めのバプテスマを必要としたのでしょうか? 決してそうではありません。パウロが「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」と言っています。主イエスは罪と無縁なのです。主イエス自身に罪がないからこそ、私たちの罪を身代わりとして罪を贖うことができたのです。 

ではなぜ主イエスは、洗礼を受けることを望んだのでしょうか?

悔い改めを必要としている、罪に苦しむ私たち罪人、その列の中に入って下さり、先頭に立って、みずから洗礼を受けられたのです。  

天の高いところから悔い改めを迫ったのではありません。あなたの中におられるのです。ここに「神の愛」があります。

ヨハネの洗礼には、罪の告白はありましたが、罪の赦しを得させる力まではありませんでした。主イエスの洗礼は、あなたの罪を赦し、そして新しい命へと続く為の、救いの力があるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-12-27 07:46:58 (1025 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書2章1節〜

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者達が東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

宣教題「あなたの宝の箱を開けなさい」  牧師 新保雅雄

メリークリスマス!

聖書には、クリスマスの物語が二つ記されています。一つは、羊飼いです。羊飼いは、野宿をしながら徹夜で羊の群れの番をしていました。すると天使が現れ、主の栄光が光り輝き、暗がりを照らし出した。そう人里離れた暗闇の中、孤独の中に羊飼いはいたのです。

もう一つは、東方の占星術の学者達です。彼らは、遠くの国から星に導かれてエルサレムにやってきました。星に導かれるままベツレヘムの幼子を見つけ出しました。そこには、幼子が母マリアと共にいました。学者たちは、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げたのです。

わたし達も今日クリスマスに、この場所に導かれました。それぞれがいろいろな思いを抱えてこの場所にいます。私たちは今日何を携えて、この場に導かれたのでしょうか。

あなたの宝の箱には、何が入っていますか? 宝物とは金銀宝石だけではありません。あなたがつかんで決して離せないものが、あなたの宝物です。怒りや恨み、憎しみ、悲しみ、寂しさ、不安、弱さもまた宝物なのです。御子イエスは、あなたの献げ物を喜んで受け取ってくださいます。よいものばかりが、心の中に入っているとは限りません。でもそれでいいんです。大切なことは、心の箱を開けて全ての思いを御子イエスの前に差し出すことなんです

 


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