本日の聖書 エゼキエル書37章1〜3a節
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それが甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」
宣教題 「枯れた骨が生き返る」 北村 紀一
神様がエゼキエルをこの枯れた骨の谷に導いたのは、1つの問いを投げかけるためでした。『これらの骨は生き返ることができるか』と言う問いです。
命の気配さえ全く感じない、枯れた骨の山が、もう一度生き返り、生き生きした命を再び得ることができるのか、絶望に覆われているこの谷で、人々が笑ったり、喜んだり、愛し合ったり、語り合ったり、命溢れる声が、もう一度響くことはあるのか、エゼキエルは神様からそういう問いかけを受けたのです。
私たちは、この問いにどう答えるのでしょうか。「そんなことはあるはずがない、無理でしょ、まして枯れた骨が再び命を得て生き返るなんてあり得ない」、私たちの知識や、常識や、経験から導き出される答えは、そんな感じです。
しかし、神様からの問いかけに対するエゼキエルの答えは違っていました。彼は、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えたのです。
「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えたエゼキエルに、神様は「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい」とおっしゃいました。エゼキエルは、神さまに言われた通り、枯れた骨の群れに向って、「おまえたちは生き返る」と伝えました。彼の言葉を聞いている者など一人もいない、枯れた骨だけがころがっているこの谷は、まったく聴く耳がないし、反応もない。それは、壁に向って語りかけるような、まことに虚しいことのように思います。
けれども、その虚しさに耐えてみ言葉を語っていると、命のかけらもまったくない死と絶望に支配されていたはずのこの谷に、不思議なことが起ったのです。
私たちも、「枯れた骨」の時があります。それでも主が見捨てずにいてくださるのです。主は私たちに愛を注ぎ、いつも語りかけてくださいます。だから主にこそ心を向け、主に信頼しましょう。人間の知識や常識では、とうてい考えることも期待することもできない枯れた骨の復活は、主によって体験できるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書16章1〜4節
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
宣教題 「天からのしるし」 牧師 新保雅雄
ファリサイ派とサドカイ派は、ユダヤ教を代表する宗教指導者たちです。お互いに聖書の解釈に違いがあり、普段は仲が悪く対立していました。しかし、ここではお互い協力しあって、主イエスを試そうとして「天からのしるしを見せてほしい」と問いかけています。天からのしるしとは、主イエスが神から遣わされた証拠のことです
ここに来るまで主イエスは、5千人の人の空腹を満たし、また体の不自由な人や病気で苦しむ人、悪靈に憑かれた人を癒してきました。この奇跡が主イエスが天から遣わされた、しるしなのです。
しかし彼らからすれば、どんな奇跡を見せられても、それは天からのしるしとは認めたくないでしょう。それどころか益々、主イエスを落とし込める口実を探すでしょう。そして彼らは言うでしょう。何々をしたら、しるし、証拠を見せたら神の子と認めてやろう。
私たちも彼らと同じようなことを、主イエスに対して思っていないでしょうか。私の願い事を叶えて欲しい。叶えられたら神と心から信じられる。すなわち神かどうかは、私が判断する。どこかで私たちも「天からのしるし」を求める人になっていないでしょうか。
そんな人たちに主イエスは言われました。あなた達は、明日の天気が見分けられるのに、どうして私が神から遣わされたしるしであることが見分けられないのか。私自身が神から遣わされた。わたしが行う奇跡、私の語る言葉の中にこそ、神のしるしがあるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書15章32〜33節
宣教題「恵みを忘れる弟子達」 牧師 新保雅雄
今朝の聖書個所、少し前に宣教を聞いたように思います。14章13節「5千人に食べ物を与える」という同じような出来事がありました。そしてまた同じような出来事が起きる。何故でしょうか。
主イエスは言われました「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」相談を受けた弟子は、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と答えました。
その時、気がつくのです。少し前に五千人の人々の空腹を満たしたことを弟子は忘れてしまったんでしょうか? 五つのパンと二匹の魚しかなかった時(14章)、主イエスの御手を通る時に奇跡がおこり、大勢の群衆の空腹を満たしたのです。
私たちも、この時の弟子たちのように、主イエスによって祝福をいただき、恵と救いを経験したのに、大きな奇跡も経験したのに、御言葉に感動し涙を流したこともあるのに。しかし、また同じような困難に出会ったとき、その恵の経験を忘れてしまう。そして悩みの中に落ち込んでいく。
私たちは、主イエスに頼り、信頼することを、何度も何度も忘れてしまうのです。しかし主イエスは、弟子たちを非難しませんでした。神様の恵みを忘れてしまう、不信仰な弟子たちであるが、主イエスは決して見捨てませんでした。そして、前回と同じように、感謝の祈りをして、人々を再び満たしたのです。ここに神様の大きな愛があります。
本日の聖書 マタイによる福音書15章29〜30節
イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
宣教題 「一緒に行こう」
主イエスは山に登って、「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人」 が登って来るのを待っておられた。病気の人にとって山を登るというのは大変な作業です。何で山に主イエスは登られたのか。
30節「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て」すなわち人々は、自分のことだけを考えて、我先にと主イエスのところに来たのではなく、体の弱い人、ハンデを持った人を一緒に連れてきたのです。そして、「イエスの足もとに横たえた」のです。
人々は、そのように、自分の力では山を登ることが困難な人を助け、あるいは背中におぶり、あるいは手を取って道案内をし、あるいは板に載せて「一緒に」連れてきたのです。わざわざ山に登ったのは、病気を癒すだけではなく、愛を学ばせるためだったのです。
ここに、この世の常識と神の御国との考え方の違いがあります。この世では、自分が幸福になるためには、人を押しのけ、踏み台にしてでも前に出なければならない。それが社会です。そこから脱落したものは、落ちこぼれと呼ばれ負け組みとされるのです。
しかし主イエスの考え方は違います。幸福なのは、主イエスのもとに来る者であり、しかしそれは押しのけるのではなく、助け合い、弱い所をかばい合って、神様のもとに共に行くということです。そこに主イエスは大きな祝福を与えられるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書15章26〜27節
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」