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投稿者 : church 投稿日時: 2014-07-27 06:29:59 (1203 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書23章25、26節 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。


宣教題 「偽善者であると気づく」   牧師 新保雅雄

 「あなたの隣人を自身のように愛しなさい」と主イエスは言われる。自分を愛してくれる人を愛することはできそうです。しかし自分を憎む者、あるいはその人を愛したからといって、一文の得にもならない人を、「自分自身のように愛する」などということができるでしょうか? できないのです。そうすると「クリスチャンは偽善者だ」などと言われたりする。弱い自分に悩み葛藤する。


それなら「どっちみち人を愛することができないのなら、最初から神なんか信じなければいいじゃあないか。教会なんか行ったって意味がないじゃないか」と居直るのでしょうか。


どうせ出来ないなら、肉の思いのままに生きる、そのほうが自分に正直で、裏表がなくて、「偽善者」と言われることもない。俺は正直もんだ。 決してそうではありません。主イエスは言われます「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)。


自分の力では何も善いことが出来ない、何をやっても偽善にしかならない。自分も神の御子を十字架につけてしまった一人だと気がついた弟子たちに、復活の主イエスが近づいてきてくださったのです。そしてそこから再び、新しい人生が始まったのです。それが復活の主と共に歩む人生です。


私たちも、「自分の力では、まともに歩めない偽善者である」と気がつくことです。出来ないからと居直るのではなく、出来ないがそうありたい。あきらめず希望を持つことです。主イエスは、そんなあなたを決して見捨てることはありません。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-07-20 05:23:24 (1156 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書14:1〜4  

「心を騒がせるな、神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして私のいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

宣教題  「私たちの故郷」     牧師 新保雅雄

本日の聖書、ヨハネの福音書14章は、主イエスが十字架にかかる前夜、最後の晩餐の席で弟子たちに語った言葉です。その冒頭と最後に「心騒がせるな」と言われています。


主イエスは、弟子たちを残して遠くに行くようなこと、12弟子の中の一人が自分を裏切り、弟子のリーダーであったペテロが、自分のことを3回知らないと否定する。それを聞いて弟子たちの心は不安でいっぱいでした。そんな弟子たちの様子を見て、主イエスは、弟子たちに、心騒がせるなと言われ、天国のことを語りました。


主イエスを信じる者は天国に行くという約束です。2節「私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。」


親しい人がなくなった場合、「その人は天国に行った」とよく聞く言葉です。しかし、その人が天国に行ったという保証は、どこにあるのでしょうか。それは、希望的観測に過ぎません。しかし、主イエスを信じる者は、死んだ後、天国に行くことを確信することができます。それは、「私が道であり、真理であり、いのちである」と宣言された主イエスが、はっきりと約束しておられるからです。

しかし、天国はただ美しいから素晴らしいのではありません。ヨハネは証しています。天国は「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら以前のものがもはや過ぎ去ったからである。」天国には、 悲しみも涙も苦しみもない。そこは故郷だからです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-07-13 06:46:59 (1174 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書23章16〜17節

ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。

宣教題 「宗教はどこへ行くのか」   牧師 新保雅雄

律法学者やファリサイ派の人々は、ユダヤ人の宗教指導者であり教育する先生であった。人々を神の御国へ導く立場にあった人たちです。しかし主イエスは、その人々を、「あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉を何回も繰り返しながら、厳しく批判しておられます。


この「不幸だ」という言葉は、「わざわいなるかな」と訳せる言葉です。その「わざわいなるかな」というのは「幸いなるかな」という祝福の言葉、主イエスが宣教活動を始められたときの「山上の説教」の、ちょうど反対側になる言葉なのです。


宗教というのは何でしょうか?‥宗教とは、神の世界とこちらの世界をつなぐものだと言われます。見ることのできない神さまのところに人を導くのが宗教です。ですから、宗教指導者というのは、神の世界への案内人になるのです。


宗教とは、英語でreligion(リリージョン)。「結びなおす」という意味です。離れていた神と人を結びなおして神の御国へ導くということです。


日本は、宗教に対する不信感があります。宗教は恐ろしいと思われています。その原因は、宗教が人々を神のところへ案内するのではなくて、この世のもののところへ導いてしまうからなのです。


宗教が神さまのところへ導くのが目的なのではなく、教祖という人間をあがめたり、高額なお金を集めたりすること、またこの世での出世、金儲けが目的であるということが、見えてしまうからではないでしょうか。先日の韓国での船の事故の会社では、公然と宗教をすることが世の成功者になる手段になっている。主は言われる「あなたたち偽善者は不幸だ」

 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-07-06 06:07:23 (1172 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書23章2〜4節

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。

宣教題 「欠けた自分を知りなさい」   牧師 新保雅雄


律法を守ることに熱心であったのがユダヤ教のファリサイ派。しかし主イエスから見ると、「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しない」からだという。なぜなのか。


ファリサイ派の律法の専門家は主イエスに質問しました22:36。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」。主イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


律法とは何ですか? 「神さまを愛すること、そして隣人を愛すること」そうすると、律法を守るのは、神さまを愛するから、そして隣人を愛するために、守るということになります。愛するから、神さまの掟を守るのです。しかしファリサイ派の人々は、愛が忘れ去られ守ることだけになってしまった。そして弱者を裁いていく。


彼らは、5節「そのすることは、すべて人に見せるためである」自分が立派で偉い人であるかということを、人に見せるために、律法を守り、敬虔な信仰者を装う。そして「先生」「善人」といわれることを好む。上座に座ることを好む。自分が高められることを好む。


律法を守っているから信仰者である。何々ができるから立派な善い人である。そこに神様の愛、隣人への愛はありません。私達は、守れない欠けたものである。弱い隣人を愛すること、そこに神はおられるのです。水は高いところから低いところに流れるのです。神さまのめぐみも同じです。神を見たいと思うなら低くなることです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-29 00:35:07 (1092 ヒット)

本日の聖書  創世記4章 1〜18節(中心13〜15節)

「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』:主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」


宣教題 「さすらう者」                                北村 紀一


兄のカインは「土を耕す者」になり、弟のアベルは「羊を飼う者」になりました。二人は神さまに「献げ物」をささげて礼拝しました。カインは畑で取れた最初の作物を、アベルは最初に生まれた子羊の中でいちばん太った物を献げて礼拝しました。けれども、神さまはアベルの献げ物は喜んで受け取ってくださったのですけども、カインの献げ物は受け取ってくれませんでした。


もし皆さんがカインの立場だったら、どう思うでしょうか?


私たちは、“自分を認めてほしい”という気持を持っています。カインはこの時、「激しく怒って顔を伏せた」(5節)。顔を伏せたということは、神さまの方を見ない。神さまの顔なんて見たくないということです。それくいらい激しく怒っているのです。


どうして神さまは、アベルの献げ物を受け取り、カインの献げ物は喜んで受け取ってくれなかったのでしょうか?


神さまはカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないのなら罪は戸口で待ち伏せており」(7節)と語りかけました。それはカインに自分の心に気づいて、悔い改めてほしかったからでしょう。神さまは罰したいのではなく、よくないことであると気付いたならば、カインにも、そして私たちにも悔い改めてほしいと、いつも願っておられるのです。


しかしカインはアベルの方が自分よりも神さまに大事にされている。そういう「ねたみ」の心でいっぱいになって、弟アベルを野原で殺してしまったのです。このように「ねたみ」の気持ちは「恐ろしい力」になります。しかも、私は「知りません」(9節)と罪を隠そうとしました。


このように私たちは罪を犯した時、神様に顔を向けることができなくなります。しかし、ここで学ぶことは、そういった時こそ神さまに向かって、悔い改めることが大事だと言うことです。怖くても向き合う。それは、間違いは間違いだと認める勇気を得ることになりますし、ゆがんだ心も正されていくようになります。心のゆがみが正されると人の喜びを一緒に喜べる心を取り戻すことができるようになるのです。


そういうわけで、常に神様に向き合っていく。神さまに心を向けていく。それが本当に大事なことになります。私たちは信仰によって真実に向き合う生き方を目指し続けるのです。


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