本日の聖書 マタイによる福音書7章25節
「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」
宣教題「あなたの人生の土台は?」 牧師 新保雅雄
主イエスの教えを熱心に聞くことは、たいへん重要なことです。「耳のある者は聞きなさい」(13:9)しかし、聞くだけで終わることなく、それを実践することがあって初めて硬い信仰になるのです。
主イエスは、このことを教える為に、家を建てた二人の人のたとえを語られました。家を何処に建てるかということは、その人の生活の基盤を、何処に何の上に定めるかということなのです。
ここに登場する二人の人は、対照的な場所に家を建てました。一人は、岩の上に自分の家を建てました。がっしりした、堅固な土台の上に家を建てたのです。ところが、もう一人の人は、砂の上に家を建てました。
しばらくして二つの家を、嵐が襲いました。雨が降り、川があふれ、風が、家を目掛けて吹き付けて来たのです。岩の上に建てられた家の方は、岩を土台としておりましたので、激しい雨風に襲われても、倒れることは、ありませんでした。一方、砂の上に建てられた家は、当然のように倒れて、その倒れ方はひどかったのです。
人生の荒波や嵐に襲われた試練の時にこそ、何を人生の土台として歩んでいるのかが問われます。それは、普段、意識していないことであるかも知れません。しかし試練の時、何に人生の基礎を置き、何を支えに生きているのかが露わになるのです。
私たちは、何に基礎を置き、何を支えに生きているのでしょうか。イザという時に、私たちは、何に頼るのでしょうか。聖書の言葉でしょうか。それとも、この世の知恵や知識や経験、自分の能力でしょうか。艱難にあうとき、土台があらわにされます。
本日の聖書 マタイによる福音書7章21節
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
宣教題「御心に生きる」 牧師 新保雅雄
主イエスを救い主として信じ教えを守ったとしても、必ずしも全員が天の国に入ることが出来るのでは無い、「神の御心を行う者だけが天の国に入るのだ。」と主イエスは言われています。
「かの日」(22節)すなわち終わりの日、裁きの時です。主イエスによって一人一人が、天の国に入ることが出来るかどうか、最終的に選別されるのです。
この時、大勢の者が、主イエスに向かって「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」こうして、彼らは、自分たちの信仰生活における実績を持ち出して、天の国へ入る権利を訴えます。
しかし主イエスは、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われるのです。
何故、彼らは、これほどまでに厳しく言われなければ、ならないのでしょうか? それは、彼らが天の父の「御心を行わなかった」からです。いくら実績を積み上げても、神の御心とは、異なることをしていたのです。自分の思いに従って行動していたのです。
残念ながら、クリスチャンとはこうあるべきだ。という、愛よりも出来るか出来ないかを問うクリスチャンが多い。
では天の父の御心とは何でしょうか?それは、「隣人への愛」です。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(7:12)これは、「自分自身のように隣人を愛しなさい」ということです。
本日の聖書 マタイによる福音書28章5,6節
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」
宣教題「おはよう!マリア」 牧師 新保雅雄
週の初めの日(日曜日)の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアは、悲しみの中、主イエスが葬られた墓を見に行きました。
主イエスの墓は、この二人にとって十字架で死んでしまった、主イエスとの思い出に、悲しみ、寂しさ、無念さを誘うものでした。
ところが、墓にいた天使は、この場所が悲しみと絶望に満ちた、命の行き止まりの最終地点では無いことを告げたのです。
「あの方は、ここにはおられない」という天使の言葉と共に、主イエスの納められていた墓は、マリアたちにとって、そこから新たな命へ続く、折り返し地点へと変えられたのです。
このマリアたちの経験は、この世に生きる私たちにとって、実に大きな希望を与えてくれます。主イエスが、十字架の死から復活されたことは、この世の命に行き止まりがあり、命が終わる。行き止まりがあるものではなく、天の御国への通過点に過ぎないことを、明らかにしているからです。
もはや、死は、私たちの人生の最終地点ではありません。通過する地点なのです。勿論、私たちは、まずは、そこへ向けて、この世の人生を進めます。でも、そこがゴールではなく、天の御国への通過点であり、それは、主イエスの十字架によって開かれたのです。
新たな歩みへと向かい始めた時に、二人の歩みの先に、立っておられる方が見えました。何と主イエスが、二人のマリアの行く手に、彼女を導くように立っておられたのです。
そして主イエスは、マリアたちに「おはよう」と声を掛けられました。 この朝の挨拶は、復活の命の始まりを告げておられるのです。
本日の聖書 ルカによる福音書23章
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」 すると、イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われた。
宣教題「今日あなたとパラダイスにいる」 牧師 新保雅雄
主イエスが処刑場へと引かれていきます。他に二人の犯罪人も同じく処刑場へ引かれて行きます。「ゴルゴダ」と呼ばれている丘に着くと、主イエスの左右に、この二人も十字架に付けられました。
その時、主イエスは言われました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 驚くことに主イエスは、ご自分を十字架に付けた人達を赦して欲しいと神に祈るのです
ここに主イエスの深い愛があります。しかし、このことを理解できない人がいます。主イエスと共に十字架に付けられた犯罪人の一人が言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」そして議員や兵士たちも同じこと言います。
同じく十字架に付けられた、もう一人の犯罪人は、同じく十字架にかけられている犯罪人に言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
自分自身の罪を告白し悔い改め、主イエスが世の罪の身代わりになったと祈るとき、十字架による救いが与えられるのです。
罪を悔い改めた犯罪人は、さらに続けて言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」すると主イエスは、言われた。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」
自分の罪を認めて主イエスに告白するなら、誰にでも主イエスの十字架の救いは与えられます。「今日あなたとパラダイスにいる」
本日の聖書 マタイによる福音書7章18節
「良い木が悪い実を結びことはなく、
また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」
宣教題「良い実は良い木から」 牧師 新保雅雄
主イエスは言われます。「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」確かに、茨からぶどうは採れず、あざみからいちじくも採れません。ぶどうは、ぶどうの木から、いちじくは、いちじくの木からしか採れないのです。
このことから明らかなように、例外なく、「良い木が悪い実を結びことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」のです。
植物だけでなく、私たち人も腐り、悪い木になると、そこにできる実は、はっきりと、その木の状態を映し出すのです。木の実は、ぶどうであっても、いちじくであっても、梨やりんごであっても、究極的には、おいしいか、まずいかです。たとえ、形がどんなに素晴らしく美しくても、食べて、渋かったり、苦ったり、腐りかけていては、とても、食べられるものでは、ありません。すぐに、吐き出されてしまうのです。
私たち人という木も、実の姿かたち見栄えではなく、その実が持っている味が問われます。果たして、私たちという木が結ぶ実は、どんな味がするのでしょうか。優しさと配慮、正しさに満ちているでしょうか。悪意と敵意、自己中心に満ちているのでしょうか。
聖書の言葉を慕い求めるならば、尽きない恵みが、そこから溢れ出し、私たちの霊と肉とを養うのです。
確かに、信仰は、心の中で決断するものです。しかし、心の問題で終わる訳ではありません。その実が問われるのです。どう歩んでいるのか、日々の生活が問われるのです。あなたの人生があなたの実の味を現しています。あなたの人生は、いかがでしょうかか。
