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板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2013-05-12 06:43:50 (1460 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章19〜20節

「群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」


宣教題 「主イエスの御手から出る希望」 牧師 新保雅雄

主イエスは弟子に言いました。「彼らに食べるものを与えなさい。」弟子は答えました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」男性だけでも5千人もいるのです。とてもこの量では無理です。

主イエスは「それをここに持ってきなさい」と言われました。いったい何をしようとするのか? 群衆の注目が集まります。

主イエスは、そのわずかなパンと魚を手に取り、天の父なる神を仰いで讃美の祈りを唱えられました。主イエスは、役に立たないような、わずかなものであっても、天を仰いで父なる神様に感謝したのです。

そしてパンをちぎっては弟子たちに渡し、群衆におあたえになりました。主イエスは、パンを裂いて弟子に渡す。弟子たちは、またそれを群衆に配る。主イエスが、またパンを裂いて弟子たちに渡す。弟子たちは、そのパンをまた配る‥‥。延々と続きます。

すると不思議なことが起こったのです。パンと魚がいくら配っても、なくならないのです。配っても配っても、パンも魚もなくならない。延々と群衆に配られる。群衆の目の前で、奇跡が起きているのです!

こうして1万人以上の群衆が満腹するまで食べました。さらに驚くことに、残ったパンくずを集めると、12の籠にいっぱいになったのです。

5つのパンと2匹の魚が、もし主イエスの手に渡らなかったら、それはただの5つのパンと2匹の魚のままです。何事も起こりません。しかし、主イエスの手に渡されたとき、主イエスの手の中で豊かに増え広がるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-05-05 06:58:40 (1609 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章6〜11節

ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。


宣教題「神を恐れない者は、人を恐れる」 牧師 新保雅雄

洗礼者ヨハネは、神の言葉を語る人でした。ユダヤ人から神の預言者として認められていました。キリストの道を整える人と言われ、主イエスにも洗礼を授けました。そのヨハネが殺されたのです。

なぜヨハネは殺されたのか。それはユダヤの領主であるヘロデ王を批判したからです。「あの女と結婚することは律法でゆるされていない」14:4。「あの女」とは、ヘロデ王の兄弟であるフィリポの妻のことです。あのサロメの母です。

ヘロデ王には、妻がいましたが、自分の兄弟であるフィリポの妻ヘロディアを好きになり、妻と離婚し、兄弟を殺しヘロディアを自分の妻にしてしまうのです。これはユダヤ人の律法では、姦淫の罪にあたるもので、石打の死刑です。ヨハネは、相手がヘロデ王であろうとも、罪の悔い改めを迫ったのです。

ヘロデ王は、怒りヨハネを殺そうとして捕らえました。しかし彼を殺さないで、牢屋に入れたままにしておきました。それは、「民衆を恐れた」からです。民衆から預言者として、尊敬されていたので、ヨハネを殺したら暴動になり、自身の地位が揺らぎかねない。

神の言葉を語る預言者、洗礼者ヨハネを殺すことも恐れないヘロデ王が、「民衆を恐れた」のです。神を恐れない者が、人を恐れるのです。本当のことを言われると怒るものです。それが神を信じない人です。神を信じない人は、自分の罪を指摘されると、素直に反省しない、逆上し逆恨みをするのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-04-28 05:26:52 (1576 ヒット)

本日の聖書 マルコによる福音書5章33〜34節

「女は自分の身に起こったことを知って、恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」


宣教題 「恐れることはない、ただ信じなさい」 北村 紀一

会堂長のヤイロは、必死になって、イエス様に「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(23節)と言いました。

この町の会堂長の家の一大事ですから、多くの人々の深い「関心」が向けられました。そんな時に「さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた」(25節)。彼女は12年間、汚れた女として、冷たい視線を浴びながら、人目を避けるように生きてきた人です。

  だから人々の関心が、ヤイロの娘に向かっている今こそ、イエス様に近づく最大のチャンスでした。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの服に触れた、この方の服にでも触れればいやしていただける」(27、28節)と思っていたからです。

  そのように彼女はこの12年間どんなに騙され、軽蔑され、苦しんでも、「神への望み」だけは決して失いませんでした。そして、イエス様の服にふれると、すぐ出血が止まって、完全に癒されてしまったのです。

  すべてをご存知であるイエス様は、人目を避けてきたこの女性こそが、多くの人の「信仰の手本」となることを伝えるために、あえて、「わたしの服にふれたのはだれか」と強く迫りました。冒頭の聖句のように人目を避けてきたこの女性をど真ん中で向き合う人に変えられたのでした。

  アブラハムが信仰の父となったのは、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」たからです。そして、イエスが話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」この言葉にヤイロは惑わされそうになります。しかし、イエス様は、「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われ、ヤイロも娘も「救われた」のです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-04-21 06:58:24 (1799 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章54〜58節

「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」

宣教題 「こんな私を助けて下さい」 牧師 新保雅雄

「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」主イエスの奇跡と私達の信仰には関わりがある。私たちが主イエスを信じれるかどうかによって、違ってくるというのです。

「信じる」という私達側からの行為と、「奇跡」という主イエスの御業が関係あると言われる。私たちの信仰によって、主イエスの御業が行われ、癒しが救いがある。これはたいへん重大なことです。

私たちは、神を信じていると思っているが、ささいなことで腹が立ち、友人を憎んでしまう、収入が少なければ不安になりイライラする。そもそも私たちの信仰は、あやふやで足りないのです。どんなにがんばってみても、「信じ切る」ということは、自分の力ではできないのです。では、救いのない絶望しかないのでしょうか?

私たちは、何も満足にできない。信仰すら無い。しかしただ一つ、神様に対してできることがあります。「信仰のない私を助けて下さい」と言って、そのままの自分を主イエスに投げ出しすがりつくことです。病気の息子の救いを必死に主イエスに願う父親のように(マルコ9:14〜)そんな私たちでも受け入れてくださるのです。

何故なら主イエスはご自身の命をかけて、あなたを救いだし、愛してくださったからです。「信仰」とは、主イエスに弱い自分を正直に告白し願うことなのです。しかしナザレの人々は、先入観が邪魔をして、主イエスに願うことができなかったのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-04-14 06:15:09 (1899 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章51〜52節

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

宣教題  「天国の学者」    牧師 新保雅雄

「天の国のことを学んだ学者」とは、「天国の弟子となった人」と言う意味です。では「天国の弟子となる」とはどういうことでしょうか? 「天国」とは、「神の支配する国」という意味です。つまり主イエスのいる所が天国です。主イエスの御言葉を学んで、主イエスの弟子となる人のことを主イエスは、「学者」と言っています。

私達は、「学者」というのは、学問を修めた人のことを言います。現代で言えば、大学を出て、さらに大学院へ行き、専門分野を探求し、研究、探求して、博士論文を書き、学会で認められて、大学の教授になっていく。そういう人のことを、私たちは「学者」と呼びます。

また当時であれば「律法学者」のことを学者と呼びました。聖書とユダヤ教、律法について、有名な先生に着いて深く学んだ人のことです。

しかし、この世の学問をどんなにおさめても、人々から「学者」と呼ばれても、主イエスの十字架を理解することができなかったら、自分の中に潜む深い罪の心を知らなければ、天国が何か分からないのです。

神様のことを深く学び聖書に精通していた、あの律法学者やパリサイ人が神から遠かったのです。彼らは古い倉しか持っていないのです・

逆に神から遠いと思われていた、徴税人や漁師の方が神に近かったのです。なぜなら主イエスを子供のように、素直に信じて受け入れたからです。新しいものも古いものも受け入れたのです。

主イエスは、律法学者たちを退けました。しかし、主イエスから天国のたとえ話を聞いて、それを受け入れた弟子たちを、主イエスは「天国の学者」と呼ぶのです。

 


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