本日の聖書 ルカによる福音書4章18節
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
宣教題「憐れみの主」 牧師 新保雅雄
主イエスは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。その後荒野での40日間に渡る悪魔の誘惑を終えられ、ガリラヤ地方で神の御国について宣教されていました。そしてご自身の故郷ナザレにおいても、神の御国について教えられました。
故郷ナザレでの第一声は、旧約聖書のイザヤ書を朗読され、このイザヤ書の預言にある通りに実現する。と言われたのです。
その預言の内容とは、「旧約聖書で約束されている救い主は私である。世からの解放、神への回復、欲望からの自由をもたらすために今日私は、ここに来たのだ。この預言の言葉は、私によって成就(実現)するのだ。」というものでした。
主イエスが、神から使わされた人々は「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」であり、社会的な成功者や地位を持った人、経済的に恵まれた人ではありませんでした。世の中の見方で「満足」している人たちには、主イエスの教えは、信じたくないものであり、必要性を感じにくいものでした。
彼らの生活に主イエスの教えは、不自由を感じるものであり、耳に痛く腹立たしくさえ思うのでした。
皆さんは、主イエスの「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」の問いかけに、「私を憐れんでください。」と、うなずく事ができるでしょうか?
「イエス様、こんなどうしょうもない私ですが、私を憐れんでください。」と言えた時、主イエスの救いは、あなたのすぐ近くにあります。主イエスは、そんなあなたを解放してくださるために、来てくださいました。主の祝福が豊かにありますように。アーメン。
本日の聖書 ルカによる福音書18章15〜17節
「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。弟子達は、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」
宣教題「子供の様に」 牧師 新保雅雄
神の国とはなんでしょうか? 死んだ後に行く世界だけではありません。神の国とは「神が治める国、神と共にいる国」ということです。つまり神を信じる信仰の人生が、すでに神の国です。
あそこにあるここにあるというものではなく、神を信じたときが神の国なのです。じゃどうすれば信じられるのか?「子供のようでなければ、神様を信じることはできない」と主は言われています。
では「子供のように」とは、どういうことなのでしょうか? 純真、素直、無垢、このように思われがちですが、ホントにそうでしょうか? 主イエスは「子供のように純真で素直でなければ」などと言っていません。ただ「子供のように神の国を受け入れる者でなければ」と言っているだけなのです。
子供とは、好きなものがあれば、理由抜きにとにかくほしい。行きたいところがあれば、とにかくいきたい。これだと思ったときに、他のものをすべて放り出してでも、それを求めて手を伸ばす。
ほしいと思ったら理由ナシに欲しいんです。「人の目や世間体」も何もなしに、ひっくりかえって大きな声で泣き出す。これが子供
大人になると世間体や社会的な常識、人の目、現実的な思い、つまり肉的なことから神を見ようとします。「お父さん、お母さんが好きだから、着いて行く。」たとえダメな親であっても子供から見れば、絶対的な信頼、安心、愛でつながっているのです。どんな時も父なる神でありたい。
本日の聖書 ルカによる福音書15章4節
「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない
九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
宣教題「主はあなたを捜し出す」 牧師 新保雅雄
100匹の羊を持つ羊飼いが山から帰る途中、1匹の羊が迷子になってしまいました。さて、その時あなたなら、どうしますか?
残りの99匹を野原に残しておいてでも、その1匹を見つけ出すまで、捜し回らないだろうか、と主イエスは言われています。
この羊飼いにとって、今、心にあるのは、この見失った1匹の羊のことだけです。1匹の羊を見失ったことが、全てに勝るのです。
もう日が暮れたし1匹ぐらいしょうがないか。99匹もを置いておけない。明日にしょう。などとは考えられないのです。ただ、ひたすら、この1匹の羊のことが気がかりで捜し求めて行くのです。
そして、あちこち捜し回って、ようやく見つけだした。羊飼いは喜びのあまり、友達や近所の人々に「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と大声で呼び掛けるのです。
私たちならどうでしょうか? 子どもを迷子にした親は、自分が買い物に夢中になって、子どもがいなくなったのに気付かなかったくせに、迷子が見つかった時に「駄目じゃないか。離れるから迷子になるんだ。いつも言ってるだろう。ちゃんといなさい」と子供を叱りつける。良く見る光景です。でも駄目なのは親の方なのです。
しかし、この羊飼いは、見失った1匹の羊を必死に捜し回る。そして見つけた時に、叱るのではなく、心から喜び、友達や近所の人とまでも喜びを分かち合おうとする。ここに神の愛があります。
この見失った1匹の羊を捜し求める人とは、そう神なのです。
そして、見失った羊こそ、神から離れ罪の中に迷い込んだ、まさに私たちの姿なのです。神は何をさておいても、あなたを捜し出す。そして教会に導かれるとき、心から喜ばれる。
本日の聖書 ルカによる福音書15章20節
彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
宣教題「父のもとへ帰ろう」 牧師 新保雅雄
二人の息子を持つ裕福な父親がいました。弟の方が、父親に財産の分け前をくれるように願いました。どうせ父の跡継ぎは兄だろうからと思ったのでしょうか。財産の生前贈与ということです。
父親は財産の半分を弟に分けました。弟は、財産を持って遠い国に旅立って行きました。そして外国を渡り歩き、放蕩の限りを尽くし財産を全て使い果たしてしまったのです。
悪いことに、そのころ飢饉が起こり、食べ物もなく、さまよい歩きました。あまりの空腹に豚の餌のいなご豆を食べてでも、空腹を満たしたいと思ったほどでした。豚は、ユダヤ人が不潔と嫌う動物。その豚の餌でもいい。ユダヤ人としてのプライドを捨てたのです。
こうした悲惨な状況の中で、弟は、ようやく目が開き、幸せとは何かに気が付いたのです。父親のもとにいたときの生活を思い出し、家に帰ることを決断しました。
放蕩の限りをし尽くし全財産を使いはたし、天に対しても、父親に対しても罪を犯しました、息子と呼ばれる資格は無い、雇い人の一人として働かせてくれるように言おう。覚悟を決め、父親のもとへ向かいました。すると、自宅からまだ遠く離れているのに、父親は、弟を見つけ、憐れに思い、走り寄って迎え入れ、何も聞かず只思いっきり抱き締めたのです。
ここに、神の愛が示されています。天の父は、悔い改め立ち帰る者に何も言わず、無条件で迎え入れてくださるのです。「何をしていたのか、このばか者めが!」と非難することもなく、説教する事もなく、とがめもしない。ただ心からの祝福をくださるのです。
本日の聖書 ルカによる福音書16章15〜17節
イエスは言われた。
「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」
宣教題「主イエスの十字架を誇る」 牧師 新保雅雄
ファリサイ派の人々に対して、主イエスは語られました。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」(15節)
これは、人目に付く所でだけ、自分の信仰、行い、正しさを、見せびらかして誇ろうとするファリサイ派の人々に、悔い改めを迫っている御言葉です。私達も教会の内と外での顔は違っていませんか。
続けて「律法と預言者は、ヨハネの時までである」と主イエスは語られました。ここで言われる「律法と預言者」とは、旧約聖書のことです。バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを授けて以来、「神の国は近付いた。」という福音が語られました。そして、新しい時代、人々に求められるのは「悔い改め」です。
悔い改めとは、人生の方向転換です。今までの生きかたを改め、神の方へと生き方を転換することです。ところが、実際には、正反対のことが起きました。それは、「だれもが力ずくでそこに(神の国)入ろうとしている」ということです。自分の信仰、自分の善行、自分の力によって、神の国の扉を開けようとしているというのです。
しかし自分の力では誰一人、神の国へ入ることは出来ません。自己を低くして、主イエスの十字架に悔い改めることが、唯一神の国へ通じる道であると認め、謙虚に生きるとき神の国は開かれるのです
この後行われる聖餐式で、主イエスの十字架で流された血を思うとき、私たちが神から愛されていることが確心できます。感謝・・
