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板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-13 07:17:17 (1218 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書7章18節

「良い木が悪い実を結びことはなく、

また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」

宣教題「良い実は良い木から」  牧師 新保雅雄

主イエスは言われます。「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」確かに、茨からぶどうは採れず、あざみからいちじくも採れません。ぶどうは、ぶどうの木から、いちじくは、いちじくの木からしか採れないのです。

このことから明らかなように、例外なく、「良い木が悪い実を結びことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」のです。

植物だけでなく、私たち人も腐り、悪い木になると、そこにできる実は、はっきりと、その木の状態を映し出すのです。木の実は、ぶどうであっても、いちじくであっても、梨やりんごであっても、究極的には、おいしいか、まずいかです。たとえ、形がどんなに素晴らしく美しくても、食べて、渋かったり、苦ったり、腐りかけていては、とても、食べられるものでは、ありません。すぐに、吐き出されてしまうのです。

私たち人という木も、実の姿かたち見栄えではなく、その実が持っている味が問われます。果たして、私たちという木が結ぶ実は、どんな味がするのでしょうか。優しさと配慮、正しさに満ちているでしょうか。悪意と敵意、自己中心に満ちているのでしょうか。

聖書の言葉を慕い求めるならば、尽きない恵みが、そこから溢れ出し、私たちの霊と肉とを養うのです。

確かに、信仰は、心の中で決断するものです。しかし、心の問題で終わる訳ではありません。その実が問われるのです。どう歩んでいるのか、日々の生活が問われるのです。あなたの人生があなたの実の味を現しています。あなたの人生は、いかがでしょうかか。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-06 17:18:46 (1186 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章13節

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」

宣教題「狭い門から入れ」   牧師 新保雅雄

「狭い門から入りなさい」と主イエスは言われます。何故なら、この狭い門こそが、命に通じる門だからです。つまり、主イエスが、ここから入るようにと言われている狭い門は、救いに通じており、この門から入って行くならば、永遠の命、天国、救いに至ることが出来るのです。

「さあ、ここが天の入り口だ。ここから入りなさい」と、主イエスは、私たち、一人一人を、入口から招いておられるのです。

私たちは、広く立派な門の方が、信用出来るように思います。門構えが、堂々としていて、広く高くそびえ立っている方が、その先に幸福があるように思うのです。また、門に通じる道も広々としていた方が、安心なように考えるのです。  さらに、こうした広々とした道を通って、多くの人々が、広い門の中に入って行く様子を見たならば、この門の先にあるものは、幸福に間違いないと判断しがちです。

もし、私たちの目の前の道が二手に分かれており、一方には狭い門、もう一方には広い門がある。しかも、広い門の方には、次々と人が競い合って入って行く様子が見えたなら、ついつい、私たちは、広い門のある道の方に、引き寄せられてしまいそうになるのです。

たとえ、門の先に何があるのか分からなくとも、皆と一緒ならば安心だと考えて、広い門の方へと流れて行こうとするのです。自分で道を選ぶよりも、大勢の人に付いて行く方が、間違いが無いと思うからです。自分で判断し、決断するよりも、人に判断を任せた方が、楽だと思うのです。「皆がこうしているのだから、自分もそうしよう」

しかし、主イエスは、言われます。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」広い門はたくさんの荷物を持っても入れそうです。しかし狭い門は、荷物や自身についた贅肉さえも捨て去らなければ、突っかかって入れないでしょう。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-02-28 07:17:51 (1124 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章7節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

宣教題「あきらめないで!」   牧師 新保雅雄

主イエスは、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」と言われています。

 これは、神からの約束の言葉です。神の約束を、主イエスが教えてくださっているのです。それは、「だれでも、求める人は、受け取ることが出来るし、探す人は、見つけられる。門をたたく人には扉が開かれる」という約束です。

ここで「だれでも」という言葉に注意して下さい!

時々、私たちは、「どうせ自分なんか駄目だ、神さまも、こんな私になんか、何もくださらないに決まっている。祈っても祈っても何にも変わらない。何もいいことがない。」と思ったり、「もうどうでもいいや、やってられない。」と思い投げやりになる事が、あるかも知れません。

あともう少し門をたたき続ければ、扉が開かれるのかも知れません。でも、この「あともう少し」が、なかなか続かないのです。

子どもが、お腹が空いてパンを欲しがっているのに、わざと石を与える親は、いません。また、子どもが、魚を欲しがっているのに、わざと蛇を与える親もいないでしょう。

同じように、天の父である神さまは、自分に向かって祈り求める私たちに対して、良い物をくださるに違い無いと、主イエスは、言われるのです。何故なら、私たちは、みんな神の大切な子どもだからです。

ここに集まっている、皆さんみんな、神の子どもなのです。それで、私たちは、神の家族なのです。 神が私たちを子どもとして、愛してくださっているので、神は、祈り求める私たちに、良い物をくださらないはずはないのです。どうかあきらめないで、たたき続けて下さい!


投稿者 : church 投稿日時: 2016-02-21 07:19:27 (1084 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書7章3節

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

宣教題「自分の目の中の丸太」   牧師 新保雅雄

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」 7:1  私たちは、ともすると、自分のことは棚に上げて、人に対して、あれこれ注文を付けたり、批判したりしがちです。我が身を省みないで、人への攻撃を強め裁いてしまうことがあります。

あるいは、相手が立ち直れないほどに、キツイ言葉を浴びせ掛け、傷付けてしまうことさえあります。また今にも噛み付きそうな態度を取ることもあるのです。忙しいとき、嫌なことがあったときには、特に、相手のちょっとした言葉や態度に、イライラしたり、ムカムカして、相手との関係を崩してしまうほど、相手に攻撃的になることもあるのです。

ところが、そんな私たちに向かって、主イエスは、こう言われました「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」7:3 主イエスは、このように、自らを省みることなく、人を裁くことばかりに熱心な者に対して、「偽善者よ」と呼び掛けています。

この丸太は、自らの過ち、欠け、罪の象徴です。しかし、悲しいことに、私たちは、目に突き刺さっている丸太が象徴する、自らの過ち、欠け、罪に、なかなか自分では気が付かないのです。

そのくせ人の目の中の小さなおが屑には、遠くからでも気が付くのです。正に人に厳しく自分に甘い姿が、ここにあるのです。理想的には、自分に厳しく、人には寛容で大らかな態度を取ることでしょう。そうは行かなくとも、少なくとも、相手に対する厳しさと同じ程度には、自分にも厳しくなければ、バランスを欠くでしょう。

本日の聖句は、いつも心に留めておきたいものです。裁くのは、あなたではなく、神のものです。人を裁く時、自身が神になっている証です。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-02-14 06:49:58 (1025 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書6章19節

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」

宣教題「富のあるところに心もある」   牧師 新保雅雄

本日のメッセージ テーマは、富についてです。富に対する思いを見るとき、その人の人間性が、露骨に現れます。お金や財産など、興味が無いように見える人でも、お金や財産が舞い込むと、清廉潔白であり続けることが出来ないのではないでしょうか。

それまで経済的に苦しい生活をしていた人でも、大切なお金や財産が「飲む、打つ、買う」に散財されてしまう。そんな人を何人も見て来ました。それがクリスチャンならば、なおさら残念なことです。

富について、主イエスは、二つのことをお教えになりました。一つ目は、富を地上ではなく、天に積むようにということです。

 なぜなら地上に積んだ富は、虫が食ったり、さび付いたりして、価値が失われる、また泥棒に盗まれる危険もあるというのです。

現代社会においては、富、財産を守ろうとしても、思わぬ出来事、想定外の事件に巻き込まれて、あっけ無く、富、財産を失うことも有り得るのです。また欲望に襲われ食べられてしまうこともあります。

これに対して、天に積んだ富は、虫が食うことも、さび付くことも、盗まれることも無いと言うのです。天に積んだ富とは、既に、神の御手の中にあるからです。この天にこそ、富を積むようにと主イエスは言われます。天にこそ、心を向け、ここに富を積むようにと言われるのです。

今日の糧は、天よりの恵みである。生かされていることに感謝。これこそ天に富を積むことになるではないでしょうか。富が感謝になる。

大切なことは、心を天に、神に向けて生きることです。富とは、何も金銀財宝だけではありません。あなたが大切に汗水たらして手に入れたものです。主イエスは「私たちの富のあるところに、私たちの心もある」と言われました。あなたの富は、何ですか、そしてどこにありますか?


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