本日の聖書 マタイによる福音書9章2節
「人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れてきた。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。」
宣教題「子よ、元気を出しなさい」 牧師 新保雅雄
がリラヤ湖の対岸で悪霊につかれた人を癒し、主イエスは、カファルナウムへと帰って来られました。こちら岸では、主イエスの帰りを待ち受けていたように、人々がやって来ました。彼らは、中風の人を床に寝かせたまま、主イエスのところへ連れて来たのです。
そこで、主イエスは、この人々の信仰を見て取り、こう言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」
主イエスは、中風の人本人の信仰を、ご覧になったのでは、ありません。中風の人を連れて来た人々の信仰を、ご覧になったのです。
本人でなく、周りの人々の思いによって、主イエスは、中風の人に対し、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われたのです。
当時のユダヤでは、病気の原因は罪だと考えられていました。本人が何らかの罪を犯したことが原因で、病気になったと理解されることが多かったのです。そのため、病気になった人は、病気の苦しみと、罪人とされる苦しみの二重の苦しみをうけてきたのです。
そのため、病気が癒されるためには、まず、本人の罪が赦されることが必要とされました。その罪の赦しは、代価、代償を払って得るべきものだと考えられていました。ハトや羊といった償いの犠牲を献げたり、奉仕の約束をすることなどがが求められるのです
ところが、主イエスは、いきなり中風の人に向かって罪の赦しを宣言されました。本人が、一切、罪の代価、代償を払うこともない内に、「あなたの罪は赦される」と主イエスは言われたのです。
なぜなら主イエス御自身が罪の代価として支払うべき犠牲の身代わりとなってくださったからです。ここに神の愛があります。
本日の聖書 マタイによる福音書8章34節
「イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」
宣教題「救いと犠牲」 牧師 新保雅雄
主イエスたち一行が、ガリラヤ湖の向こう岸、ガダラ人の地方に着いた時のことです。主イエスを迎えたのは、悪霊に取りつかれた二人だけでした。舟で渡る前は、主イエスたちは、大勢の群衆に取り囲まれていました。ところが渡った岸では、歓迎されませんでした。
主イエスを出迎えたのは、墓場から出て来た、悪霊に取りつかれた二人でした。彼らは、非常に凶暴なので、墓場に隔離された状態になっていたのです。
悪霊たちは、餌をあさっていた豚の群れを指して、主イエスに、こう願い出ました。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ。」
主イエスは、この悪霊の願いを聞き入れられました。そして、悪霊に向かって、主イエスは、「行け」と言われたので、悪霊たちは、抵抗することもなく、二人から出て、豚の中に入り、豚はみな、崖を下って湖になだれ込み、死んでしまったのです。
これを見ていた豚飼いたちは、町に行って、このことを知らせました。町に人は、主イエスに、その地方から出て行ってもらいたいと言ったのです。せっかく、主イエスは、悪霊を追い出し、町に平和をもたらしたなのに、町の人たちは、主イエスを追い出そうとしているのです。
この町の人々は、悪霊に取りつかれ、苦しんでいる人がいても、犠牲を払ってでも、何とか悪霊を追い出し、その人を救おうという心を持っていません。自分たちの利益が優先するものでした。
一方、主イエスだけは、苦しむ人を、ほうっておくことは、ありませんでした。自己を犠牲にしてまでも私たちを救われる。ここに神の愛があります。
本日の聖書 マタイによる福音書8章26節
「イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」
宣教題「人生の船出」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちに向かって、ガリラヤ湖の向こう岸に行くように、お命じになられました。ここには、主イエスによって病気を癒していただいた人々で溢れています。弟子たちにとってみれば、ここは居心地の良い場所です。ちょうど教会のような所です。
ところが、主イエスは、こうした居心地の良い場所に、弟子たちが留まることを、お許しになられませんでした。そして、弟子たちを追い立てるように、向こう岸へ行くようにと言われたのです。
その時、律法学者が、主イエスに近付き言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」
対して、主イエスは、答えました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
主イエスに従うことが、決して生易しいことでなく、寝る場所さえ無いほどの厳しさを覚悟しなければならないのだと、言われたのです。確かに、自分の思いを、神に明け渡し、主イエスの導きに素直に従うことは、口で言うほどには、簡単なことではありません。
それでも、主イエスは、「わたしに従いなさい」、「向こう岸へ行きなさい」と、弟子たちに言われました。そして主イエスが舟に乗り込まれ弟子たちも従いました。その時、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうです。弟子たちは、眠っている主イエスを起こすと訴えました。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」
主イエスは、起き上がって、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」そう言われ風と湖をお叱りになると、嵐は止み、すっかり凪になったのです。主イエスの一声で風が止み、穏やかさが戻って来たのです。あなたの人生の船には、主イエスが共におられるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書8章8
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕は癒されます。」
宣教題「信じたとおりになる」 牧師 新保雅雄
ガリラヤ湖の北岸カファルナウムに、主イエスが入られると、百人隊長が主イエスに近付いて来て熱心に願いました。
「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」
主イエスは、言われました。「わたしが行って、癒してあげよう。」
ところが、百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と答えたのです。百人隊長は、自分自身が異邦人であることを意識して、主イエスに家に来ていただくことを断ったのです。
百人隊長は、自らの百人隊長としての経験を引き合いに出しました。兵士に向かって、「行け」と言えば行き、「来い」と言えば来るのです。また、部下に、「これをしろ」と言えば、そのとおりにするのです。権威が、百人隊長に託されているからです。
百人隊長は、主イエスの言葉には権威があり、その言葉が、言葉どおりに実現することを、百人隊長は知っていたのでしょう。主イエスは、この百人隊長に感心して言われました。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
これは私たちへの警笛でもあります。私たちは、救われている恵みに無頓着になり、恵みを感謝する素直な心を失っていないでしょうか。主イエスは、再び百人隊長に向かって言われました。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
ちょうどその時、百人隊長の僕の病気は癒されました。百人隊長が信じたとおりに僕は癒されたのです。
本日の聖書 マタイによる福音書8章3
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、皮膚病は清くなった。」
宣教題「愛に触れる」 牧師 新保雅雄
主イエスが、「山上の説教」を終えて山を下りると、一人の重い皮膚病の人が近寄って来ました。そして、こう言いました。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」
これは、何とも遠慮がちな奥ゆかしい、願い事です。もっとストレートに、「主よ、今すぐ、憐れんでください。助けてください。清めてください。苦しいのです。お願いです。」と言って、すがりついても良かったのにと思ってしまいます。
しかし、この言い方にこそ、この人が長年味わって来た苦しみの深さを見ることが出来るのです。この病の苦しみが深過ぎて、この人は、ちょっと遠まわしな言い方になってしまったのです。
当時、重い皮膚病は、病気の苦しみと社会的に阻害される苦しみとの、二重の苦しみを負わされる病だったのです。是が非でも、清めて欲しいと、この人は、強く願っていたことでしょう。「助けて欲しい」と叫びたくなる気持ちだったことでしょう。この病さえ癒されたならば、社会に復帰することが出来る。また、人の温かいぬくもりにも、触れることが出来るからです。
それにも拘らず、この人は、切実な思いを、真っ直ぐに伝えることが出来ませんでした。人から受け入れてもらえなかった経験というのは、積み重なると、その人から言葉さえも奪うものです。しかし、主イエスに、この人の深い苦しみが痛いほど伝わったのです。
主イエスは、この人に手を差し伸べ、この人に触れ、言いました。「よろしい。清くなれ」すると、たちまち、重い皮膚病は癒され、この人は清くなったのです。愛が形となって触れた瞬間です。
