「暗闇に住む民は 大きな光を見、
死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ」
宣教題「光が射し込んだ」 牧師 新保雅雄
主イエスは、私たちを罪から救うために、十字架で犠牲になってくださいました。何の罪も犯さなかったにも拘らず、暗闇と無縁であったにも拘らず、敢えて暗闇の中に飛び込んで来てくださいました。私たちの罪を身代わりとして、十字架で死んでくださったのです。ここに、神の愛があります。
この世には、様々な光があります。ギラギラ脂ぎった光、金と欲にまみれた光もあります。また人を貫く心を閉ざさせる冷たい光、人を監視する批判する光もあります。
しかし主イエスのもたらす光は、神の愛に溢れた、柔らかな光です。この光の方に、向き直り、体と心に、主イエスの光を浴びるときことこそ救いの始まりの時です。主イエスのもたらす光に向き直ることこそが、文字通り「悔い改める」ことなのです。
せっかく主イエスによって、救いの光が射し込んでいるのに、この光に背を向けてしまえば、その人は、光を受け取ることが出来ません。相変わらず、闇の中であえぐ生活を続けることになるのです
確かに、この世には、暗闇を思わせる事件や出来事が、あちこちで起こります。でも、そんな中にも主イエスの光は射し込んでいます。
この光の方に向き直り、心を開いて、主イエスを受け入れることで、私たちは、心を温められ、励まされ支えられるのです。
悔い改めて主イエスの光を浴びるとき、今まで隠されていた自分の罪を明らかにされることで、痛みや葛藤を伴うことになるかも知れません。しかし、この悔い改めの痛みこそが、あなたを新しく変えていく産みの痛みであり救いの始まりです。全てを委ねて下さい。
皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが船に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
宣教題「恐れるな私がいる」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸ベトサイダへ向かわせました。弟子たちを乗せた舟は、湖の中ほどまで進んでいきました。穏やかで順調な進みでした。ところが急に逆風が吹いて来ました。舟は風と波を受け、立ち往生してしまったのです。舟に乗り込んでいた弟子たちは、ペトロを初めとして、以前は漁師をしていた者が何人もいましたが、そんな彼らでも激しい逆風と荒波に打ち勝つことが出来なかったのです。
弟子たちは、一晩中、逆風に悩まされ、一向に進むことが出来ずにいたのです。そしてとうとう夜が明ける頃になりました。その時、主イエスは、湖の上を歩いて、弟子たちの所へと向かわれたのです
ところが弟子たちは、湖の上を歩いて来るのが、主イエスだとは分かりませんでした。それより幽霊だと思い、おびえていたのです。
その時、主イエスは、弟子たちに向かって、こう言われました。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
私たちの人生も、弟子たちの舟旅のように、度々、逆風が吹くことがあります。途中まで順調に見えた人生が、まるで逆風が吹き付けてきたように、急に進まなくなり、いくら漕いでも、前に進まなくなることがあります。そんな時、私たちは、進むべき方向や、方法が間違っているのではないかと思い戸惑います。そして、「こんな筈では無かった」と焦り、疲れ、取り乱します。そしてどうしょうもなく人生半ばで、なげだし諦めてしまう。
そんな時、祈って下さい。主イエスは言われます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」世の中の声に振り回され神の声が聞こえ無かったのです。そんなあなたに主イエスは声をかけておられます。すべてを主イエスに委ねてみてはどうでしょうか。
本日の聖書 マルコによる福音書4章40節
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
宣教題「人生の荒波」 牧師 新保雅雄
弟子たちは、舟でガリラヤ湖を対岸に漕ぎ出す。その途中で大きな嵐に遭遇する。たとえ、主イエスが共に乗っておられる舟であっても、激しい突風に吹き付けられ、高波が押し寄せてくることがあるのです。
洗礼を受けたから嵐は来ないのでしょうか。残念ながら信仰人生でも順風満帆に過ぎて行くとは限りません。人生の航海において、その半ばまで晴れ渡って、風も無く穏やかに進んでいた。しかし突然、空が曇り嵐になる。自分では、どうにも出来ない力に翻弄され、何も整えることが出来ず、ただ漂っているしか無い状態に置かれることもあるのです。
そんな時「私はクリスチャンだ。洗礼も受けている。なぜこんなにも苦難が襲うのか、神よ」と叫びたくなる。確かに同じ舟に乗っていてくださるイエスが、何もしてくださらないことに苛立つことがあるのです。
まるでこの弟子達の様に、いくら祈っても、主イエスに向かって「わたしがどうなっても良いのですか」と問い詰めたくなることもあるのです
ガリラヤ湖では、確かに、弟子たちは、起き上がった主イエスの一言によって、風が止み、すっかり凪になりました。しかし、時に私たちは、切実なる祈りにも拘わらず、さらに嵐の中に迷い込む経験をするのです。なぜなのでしょうか?
その時、主イエスは、弟子たちに向かって「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。弟子たちは、主イエスに従っているように見えて、実際には、心から信頼しきっていなかったのです。
舟に乗り漕ぎ出すとは、自分の命を神に献さげ任せることです。自分の手から離し切れなければ、嵐は静まらないのです。信頼することです。主イエスを口先だけで語っても、御言葉をお札のように貼っていても、何の効果もありません。自分の命を主に預けることです。
本日の聖書 マルコによる福音書4章26〜27節
イエスは言われた「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」
宣教題「種まきと収穫」 牧師 新保雅雄
主イエスは、神の国について喩えで語られた。
最初の喩えは、人が種を蒔いた時のことです。蒔いた人が、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する。どうして種が成長するのか、種を蒔いた人には分からないが、種は確実に成長し実を結ぶ。まるで土が、ひとりでに実を結ばせたように思える。
この種をまくとは、御言葉の種を蒔くことを言われています。御言葉の種を蒔くことと、御言葉の種が実を結んだ時に、これを収穫すること、人が出来る事もこの二つがあります。
種を蒔かなければ、実は成らないのです。でも、成長させ実を結ばせてくださるのは、神です。人は、最初の蒔くという手伝いをするだけです。育てることよりも、蒔くことが、私たちにとって大切な事なのです。
種蒔きは大切ですが、収穫する準備も大切です。いくら、種蒔きが楽しいからと言って、蒔くだけ蒔いて、あとで収穫しないでいると、実は腐り落ちてしまいます。結果として、神を信じる気になった人が、自分の信仰を受け入れてもらえないことで苦しむことになるのです。
もう一つの喩えは、からし種てす。からし種は、直径が1ミリ程度、種の中では最も小さな種です。しかし成長すると2メートル以上にもなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を付けます。
同じく御言葉の種も、最初は、小さな種として心の中に蒔かれます。たとえ最初は、気が付かないほどに小さな種であっても、いつしか成長して大きな枝をつけるように成長していくのです。
すぐに、伝道の成果が与えられなくとも、コツコツと、信仰の種を蒔いて行くことが大切です。後は神が成長させて下さる。
本日の聖書 ルカによる福音書10章30〜37節
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。ところが旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。さてあなたはこの三人のなかで、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った、「その人を助けた人です。」そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
宣教題「関わりを持つ」 牧師 新保雅雄
マザー・テレサは訪問者に「すぐにお国に帰って、あなたの最も近いところから愛を行い、人を大切にすることから始めてください。愛は最も近いところから始まるのです」と答えたそうです。
私たちに最も近いところとは、どこでしょうか? 情報化時代です。地球の裏側のニュースでもリアルタイムで私達に届きます。遠い国の人たちの悲惨なニュースが届くたびに胸を痛めます。しかし、すぐ近くで苦しんでいる人の助けを求めている声に気づかず、放置してはいないでしょうか?
主が語られたエルサレムからエリコへの旅というのは、人生という旅を意味しています。人生の中で起きることを言われています。強盗に襲われて、半殺しにされ、道端に放り出された旅人とは、人生の旅の途中で疲れ倒れる人の姿です。わたし達は、たびたび人生の旅で、いろいろな苦難や困難、危険に襲われます。
この倒れた人を見て見ない振りをして通り過ぎていく同胞。そこに一人のサマリヤ人が通りかかりました。彼は異邦人でしたが、倒れた旅人に近寄って傷を洗い介抱し、宿屋に運び込んだのです。
主イエスの言う隣人を愛しなさいと言う『愛』とは、何なのでしょうか? 『愛』、それは関わりです。誰かと関わりを持つということなのです。まず、あなたの廻りを見渡してください。