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新住所
板橋区仲町23−17
東武東上線 
中板橋駅徒歩12分
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2014-01-26 07:17:18 (1137 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書8章1〜11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


 宣教題 「わたしもあなたを罪に定めない」      北村 紀一

 イエス様は、あなたの罪を赦すために十字架に架かられました。私たちの過去も現在もこれからも起こすであろう罪をすべて負ってくださったのです。そのことによって、わたしたちは、神様に赦されているのです。感謝しても、しきれないほどの恵みです。


 罪を犯して幸せな人は一人もいません。罪を犯すとき、一番傷ついているのは自分自身であり、さらに周りの人をも巻き込んで苦しみが増すわけです。姦通とは、夫婦の関係を裏切り、信頼関係を裏切ることです。これは幸せでしょうか。そのように罪は自分自身の心も、相手の心も深く傷つけてしまいます。ところが罪のない人は一人もいません。それで、イエス様に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われたとき、自分はその女性となんら変わらない罪人であることに気付かされます。


「幸せ」とは、神様に信頼して生きること。神様の愛を知り、神様を愛し、自分を愛し、人を愛して、共に生きることです。「幸せ」という目的に向かうことが一番幸せな生き方です。それを忘れると、「ゆるすか、ゆるさないか」だけに焦点があたり、「幸せ」という目的が見えなくなります。神様と人との関係を壊すこと、それが罪なのです。だから私たちは、「幸せ」という目的に向かうための「ゆるし」が必要です。イエス様は、神様と人との関係を修復するために十字架を背負い、あなたの罪は赦されている、と教えてくださったのです。


「ゆるす」ということは、あなたと一緒にいるということ。神様はわたしたちと一緒にいるために、わたしたちを「ゆるす」のです。インマヌエルとは、神様が一緒にいてくださるということです。人を裁くとは、切り捨てること。石を投げることは、あなたにいなくなってほしいと切り捨てることです。「裁き」は関係を切り捨てるけど、「赦し」は関係を繋ぎます。神様はわたしたちと共にいてくださる。イエス様の十字架によって、あなたの罪は赦されている。ゆえに「わたしもあなたを罪に定めない」とイエス様は言われるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-01-12 07:09:51 (1212 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書20章26〜28節

しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。


宣教題 「いつも仕える心でいなさい」   牧師 新保雅雄

「ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスさまのところに来て、ひれ伏して、何かを願おうとした」20節。

ヤコブとヨハネ兄弟の母、そしてヤコブとヨハネ本人、さらには他の弟子たちも、主イエスが高い地位につかれる。キリストとして、ローマ帝国からの解放と独立、そして世界を治めるような支配者になられると信じていることが、この聖句からうかがえます。


そして、自分たちはそういう偉大な主イエスの側近であるのだと思っているのです。つまり、「主イエスが偉い地位、王座に着いたときには、自分たちもそれと並ぶ地位につくことができる。偉い人になれる。あやかれる。」そう思っていたということです。


人は、偉くなりたい、認められたい、人々の上に立ち自分の思い通りに動せる地位につきたい。そういう思いが弟子たちにありました。そして、ヤコブとヨハネの母が、主イエスに息子達のことを頼みました。そのことを知った他の弟子たちは、腹を立てたのです。


そんな弟子たちに主イエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」 と言われました。


「偉くなりたいのなら、しばらく辛抱して、人々に仕えなさい。修行しなさい。そうすれば偉くなれる。」そういうことではありません。「偉くなりたいと思うなら、偉くなりたいという思いを捨て、一心に仕えなさい。そうすれば神が祝福される」ということです。


つまり偉くなりたいなら「偉くなりたい」という思いを捨てること。それは主イエス自身が歩まれた十字架の死で現されます。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-01-05 06:46:23 (1164 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書20章7〜11節

彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。


宣教題 『あなたも、ぶどう園に行きなさい』  牧師 新保雅雄      

このたとえ話を読んで、あなたは、この中の誰でしょうか?

朝一番に雇われた人、午前9時に雇われた人、あるいは昼の12時、午後の3時、それとも、夕方5時になって雇われて、1時間しか働かなかった人、誰でしょうか? 

 

「わたしは朝一番から働いた者だ」と思うのなら、神様を不公平だと非難したくなるでしょう。あるいは、9時や12時に雇われた者も、夕方5時になって雇われて1時間しか働かなかった者が、自分と同じ賃金をもらったということについて不満を持つでしょう。


しかし自分が、だれも雇ってくれる人がおらず、夕方5時になってやっと主人に雇われて、1時間しか働かなかった者だとしたらどうでしょうか?賃金以上の喜びです。早くから1日の賃金を約束された人を、横目に見ながら不安の中1日待ち続けたのですから。


だれも雇ってくれる者がおらず、夕方まで広場に立ち続けた。こんな時間まで待っても無駄だと思いながらも、腹をすかした家族が待つ家へ、手ぶらで帰ることもできない。途方に暮れて立ち続けていた、この最後の者が自分自身だと知った時、この「ぶどう園の労働者」のたとえ話が理解できるのです。


罪を悔い改め神を受け入れるのに、遅すぎると言うことはありません。信仰の世界とはこういう世界なのです。神を信じられない自分を責めなくてもいいのです。人生の日没までには、必ず神があなたを導かれます。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-12-29 07:01:51 (1151 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書19章20〜22節

「金持ちの青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」


宣教題 「欠けた私を憐れんで下さい」  牧師 新保雅雄

      

彼は律法を熱心に守り、善い行いを心がけた。世においても一生懸命働いて沢山の財を残した。自分で出来うることは全て行った。成功者である。信仰者としての自信もあったのだろう。彼は胸を張って主イエスに尋ねる。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」彼は、確信がほしかったのです。


主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われた。


その言葉を聞いた青年は、悲しみながら立ち去った。なぜなら彼は「たくさんの財産を持っていたからである」そのとき彼は、初めて自分が不完全で欠けている人間であることを知ったのです。


完全になるということは、何と難しいことだろうか。まさに「ラクダが針の穴をとおる方がまだやさしい」と思われてくる。つまり自分の善い行い修行では、永遠の命の国、天国へは入れないのです。


彼は、律法を守り貧しい人々への施しもしてきたでしょう。しかしその施しはあくまでも、自分が救われるためであり、財産を売り払ってまで、貧しい人々に施しをするということではない、沢山の財産の中から余ったものであった。弱い者への愛する心がない。


「わたしは、こんなに善いことをしてきました。だから天国に入れてください」何と傲慢な者なのだろうか。私たちが出来ることは、「主よ、罪人の私を憐れんで下さい」と心から祈ることだけである。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-12-22 06:45:24 (1214 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書1章1〜5節

初めに言があった。言は神とともにあった。 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


宣教題  「闇に輝く光を知る」   北村 紀一 

       

メリークリスマス! クリスマスおめでとうございます。


今日の箇所は、言葉と神が一体であること、神さまの言葉の内に「命」があって、この「命」が人間を照らす「光」であったと言われています。人間を照らす「まことの光」。「光」は私たちを生かすために来たのです。

 

クリスマスになると歌われる真っ赤なお鼻のトナカイさんの唄にもありますように、トナカイさんの赤いお鼻は普段、何の役にも立たないからと馬鹿にされて排斥されるわけです。でも、サンタのおじさんに、そのピカピカの赤いお鼻こそ暗い夜道には必要だと言われ、いつも泣いていたトナカイさんは、はじめて「光」に照らされて自分の存在を喜んで、サンタさんのお手伝いをするようになったわけです。トナカイさんは復活しました。そのようにイエス様は暗闇を打ち破る復活の光です。


でも、「暗闇は光を理解しなかった」とあるように、私たちはふだん「光」について特別に意識しているわけではありません。しかし、光がいかにすごい働きをしてるのか、大切なものかは、どこかで分かっています。


光は、明るいところでは目立ちませんが、暗闇に光が照らされるとたちまち暗闇はなくなってしまいます。そのようにまことの光が、私たちを救うために、私たちと同じ姿となって来てくださったのです。(1:14)


「この光こそが、イエス様です」私たちに本当の愛の光を照らして、命の輝きを与えてくださるのです。その愛によって、このような私も「生きていいんだぁ」と希望の光が宿るのです。神さまの愛(主)が共にある人生となるのです。そして、私たちにとっての赤いお鼻(痛み)こそが、ろうそくのように周りを照らす光とされるのです。


このまことの光であるイエス様が、あなたと一緒にいてくださるのです。「メリークリスマス!おめでとう。恵まれた方、主があなたと共におられます。」これが、神さまからのクリスマスプレゼントです。


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