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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2015-02-15 01:15:39 (1053 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書12章13〜21節

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

宣教題  「分けてもらえなかったきみに」   北村紀一

数えきれないほどの群衆の前でイエス様が「偽善」「恐るべき者」「仲間である」ことについてお話しされています。どのお話しも、「いつも、神様に心を向けることが大事ですよ」と言う内容です。

その時、群衆の中から一人の人が遺産相続のことでイエス様に仲裁をお願いしました。何かあると、すぐに一つのことだけしか見えなくなる弱さを私たちはもっていますから、イエス様は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と、私たち一人ひとりに気付きを促すようにおっしゃいました。

私たちは、この世の中で生きているので、やはりいろいろと悩みます。人間関係もそうだし、経済的なこともそうだし、病気のことや、仕事のことや、遺産相続のこと、いろいろと困ることも起こってきます。だからどんなことでも、自分で思いわずらうのではなく、なんでも神様に祈り願ってよいのです。

イエス様は続けて「ある金持ち」のたとえ話をなさいました。私たちは与えられている恵みが当たり前になりすぎて、いつのまにか「わたしのもの」、「わたしの財産」、「わたしの命」と、すべて「わたしのもの」と思って生きているのではないですか。と、問いかけられます。そして、そんな私たちが気付くのは、失ってはじめてわかるように、命は神様のものであること、すべては神様から与えられたものであったことが分かると言うのです。

だから、私たちは自分の貪欲に注意し用心することが必要です。サタンはここを突いてくるからです。用心しないとすぐに神様から目が離れて、自分の中の貪欲に心が支配されて、神様が見えなくされてしまいます。

私たちの救いはイエス様だけです。いつも十字架の主に心を向ければ「この命」、「この人生」が、独り子すらも与えて下さる神様の愛によって支えられていて、その支えは死が訪れても失われることがない(永遠)と言われていることが確信となっていきます。神様の愛を信じて、主と共に生きることこそが、「神様の前に豊かになる」ことで、本当の「遺産」を相続することなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-02-08 08:04:35 (1231 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書2章41〜49節

「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れに中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者達の真ん中に座り、話を聞いたり質問をしたりしておられるのを見つけた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』するとイエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」

宣教題  「神のもとへ」   宣教 新保 雅雄牧師

主イエスが12歳になった時のことです。両親であるヨセフとマリアは、主イエスと共に、過越祭にエルサレム神殿詣でをしました。今で言えば初詣のようなものかもしれません。

過越祭には、イスラエルや外国にいるユダヤ人までもがエルサレムにやって来ます。エルサレムは、人でごった返していました。そして過越祭が終わり、ヨセフ家族は故郷ナザレへ帰って行きました。

両親は、途中で息子イエスがいないことに気づき必死で探しました。しかしどこにも見つかりません。そして来た道を戻りエルサレム神殿の中で主イエスを見つけたのです。主イエスは一人エルサレム神殿に残っていました。

これは主イエスが神と人とを結びなおすことを意味しています。神を求めるとは、主イエスを求めていくことであり、主イエスは神と人との関係を、元に結びなおすために来られたのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-02-01 06:42:00 (1217 ヒット)

本日の聖書  エフェソの信徒への手紙 1:13

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」

宣教題  「神の子の刻印」   宣教 新保 雅雄牧師

クリスチャンとは、どんな人なのでしょうか? クリスチャンらしいクリスチャン、そうではないでしょう。クリスチャンらしくない人の方が、かえってクリスチャンと言えるかもしれません。あの人から尊敬された律法学者、パリサイ人が神から遠く、漁師、取税人、娼婦の方が神に近かった。あなたはクリスチャンですか?

神は、御子イエスを、この世に救い主として送りました。しかし人々は、御子イエスを十字架に付けて殺してしまいました。ユダヤの宗教指導者の煽動に乗っかって主イエスを十字架に付けることを要求したのです。

そのため当時のユダヤの総督ポンテオ・ピラトは、暴動が起こるのを恐れ、主イエスが十字架で処刑されることを認めてしまったのです。ここに、神の秘密の計画があるのです。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」「秘められた計画」

神は、私たちを神の子にしようと計画しておられたのですが、私たちは、神の子に相応しく無かったのです。しかし、神は、私たちを裁いて、滅ぼしてしまうのでなく、私たちの罪を、御子イエスに全て負わせ、罪の償いのために、主イエスを十字架に付けられるのです。こうして、私たちは、主イエスの命によって神の子となる道が開かれました。

しかし、私たちは、自分で罪の償いをして、晴れて自由の身になった訳ではありません。自分では、何も罪の償いをしないままに、一方的に、神によって、罪を赦されたのです。ここに、神の愛があります。

それは、御子イエスを十字架で犠牲にしてまでも、私たちを救い、神の子としてくださる愛です。どんな人間でも、どんな性格でも、どんな癖があっても、ただ、信仰を告白し、洗礼を受けるならば、誰にでも、神は愛の刻印を押して「私の子だ」と保証し守ってくださるのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2015-01-25 00:07:08 (1330 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書6章17〜26節(中心20〜23)

「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。』」

宣教題  「弟子たちの目を見つめながら」  北村 紀一 

イエス様は山の上で父なる神様に祈って、弟子たちの中から12人の使徒をお選びになりました。使徒とは、イエス様に遣(つか)わされて、神の国の教えを宣(の)べ伝える人たちです。

しかし、ここでイエス様が選ばれた12弟子は、特別何かすぐれていたわけではなく、むしろ無学で社会的にも地位の低い人たちであったということです。そのように弱くて小さいものを通して、「神の国はあなたがたのものである」ことを伝えようとされたのです。

それでイエス様が、弟子たちの目を見つめながらお語りになった最初の教えは『幸いと不幸』のお話しです。まず、本当の「幸い」とは何か、「不幸」とはどんなことかをお教えになったのです。

それは、これからの歩みの中でイエス様を伝えること、神の国のことを伝えることは、誰でも喜ばしいこととして受け取らないことを知っていたからです。それで、どこに土台を据えることが幸せなのかを教えてくださったのです。

なぜなら、この世の幸福観は、富んで、満腹できて、笑っていられる人生は幸せで、貧しく、飢え、泣いている人生は不幸だと考えます。しかし、イエス様の語られる神の国の幸福感は違っています。

この時の弟子たちは、理解できなかったのですが、後にイエス様が十字架に架かられ、弟子たちに聖霊が降ると、イエスさまを伝える時にどのような迫害があっても幸せにで満たされています。(使徒現行録5:41)

また、神の国に自分の土台に置いたパウロも、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4:12)

「神の国」にこそ土台を据えるならば、どんな時もあなたは幸せだと言うのです。しかし、そうでないならば、不確かな幸せを求めて不幸になるのです。

私たちの人生に与えられるどんな条件も祝福の基と変えてくださる御方がイエス様です。このイエス様にこそ信頼を置くものは「幸せな人」だと言えます。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-12-21 07:43:27 (1328 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書2章1〜12節

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:9〜11)

宣教題  「喜びのクリスマス」   北村 紀一

メリークリスマス!世界中でクリスマス礼拝がささげられています。民族も言語も文化も違うけど、すべての人々の目指すところはこの飼い葉桶に寝ておられるイエス様なのです。

ユダヤの民にとっては待ちわびていた救い主です。ところがユダヤ人ではない東方の学者がお祝いにかけつけると、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。(マタイ2:3)なぜ、よき知らせなのに不安を抱いたのでしょうか。

ヘロデ王は、権力欲が強い王でした。王さまの役割は、国と国民が幸せになるために働くことですが、ヘロデ王は自分の権力維持のためであれば子どもだろうが関係なく殺害してきた王です。ですから、「ユダヤ人の王として新しく生まれた者がいる」という知らせは大変脅威であり不安の要因だったのです。

また誰でも古くからの繋がりは安心できます。ところが、安心できる繋がりというのは新しく入ってくる者を異質な者と見て排他的になることもあるのです。エルサレムの人も同様に不安を抱いたというのはそういった傾向が強かったからです。

心を神様に向けないで、妬みや、自分の安住の場所だけを求めて、いつもと違うことを排除しようとしているときは見えないのです。そのため、イエス様は居場所がなく、寂しいところでお生まれになりました。こうして誰もが不思議に思う気付きにくいところに光が差し込まれたのです。

ところが異邦人である東方の学者たちは神様の示す星に導かれて、そしてついに、その星が指し示す場所にたどり着いたのです。そして喜びにあふれました。

真の王である方を捜し出し、そのお方の前に出て、ひれ伏して礼拝すること、これがクリスマスであり、私たちの人生の目的です。

神さまが私たちに、このまことの救い主イエス様をプレゼントしてくださいました。この御方こそ私たちを本当に正しく導く王の中の王です。いつも神さまが一緒におられる人生(インマヌエル)のプレゼントです。メリークリスマス!あなたの上に祝福が豊かにありますように。


 


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