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(主宰 赤谷拓治)
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投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-29 15:40:25 (987 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書15章1〜4節

そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。

宣教題「生かす神」    牧師 新保雅雄

  ファリサイ派と律法学者は、「エルサレムから」来たとあります。エルサレムはユダヤ人の都です。つまりこの人たちはユダヤ教当局から主イエスを調査をするために派遣されて来たのです。律法に違反している証拠を見つけて、主イエスを裁判にかけるためでした。

  彼らが指摘したのは、弟子たちが食事の前に手を洗っていないことでした。これは、手が汚れているから食前に手を洗うということではなく、宗教上の行為です。出先で宗教的な汚れを受けたかもしれない。その汚れを清めるための行為が水による手洗いなのです。

  主イエスは、ファリサイ派に対して「あなたたちこそ、神の掟を破っている」「偽善者たち」と反論しています。主イエスは、ファリサイ派の人々の、根本的な間違いについて指摘します。つまり、神の戒め律法は、何の為にあるのかということです。

  ファリサイ派の教えは、人の罪を見つけ出し指摘する。罪に定め裁くための教えです。○○をしてはいけない。○○をしなければいけない。○○をすれば救われる。私たちの周りにも沢山ある怪しげな宗教。主イエスはそのような、愛のない宗教に反論されたのです。

  神は、ファリサイ派の言うような人を裁き死刑台へ送る、お方ではない。私達の神は、生かすお方です。命を与えるお方です。希望を与えるお方です。救われる価値の無い者を救って下さるお方です。あわれみ深いお方です。人生の目的は良い点数を取ることではない、イエス・キリストを信じることが第一でありたい。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-22 17:29:04 (911 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章29〜31節

「イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」

  宣教題「わたしだ。恐れることはない。」  牧師 新保雅雄

  弟子たちは、主イエスの指示によって。日が沈んだガリラヤ湖を向こう岸に、渡ることになりました。主イエスは、一人山へ登られたので、船に主イエスはいません。その夜、ガリラヤ湖では、嵐のような逆風が吹き、舟は木の葉のように揺れ、進まず、転覆しそうになりました。

  ここでは「舟」は、「教会」「キリスト者」のことを指しています。嵐のような逆風が吹き荒れるこの世という湖、そしてそこに浮かぶキリスト者が乗る舟。弟子たちの乗った舟はまさに、教会の姿を現しています。

  舟をこぎ出すように命じたのは主イエスです。しかしその船には、目に見える主イエスはいません。嵐の海、彼らは、命の危険を感じました。

  この時弟子たちの乗った舟が逆風に悩まされたように、キリスト者も、世の中で試練という逆風に悩まされることがあります。波が高まり、沈没してしまいそうな試練に出会うのです。苦しみの中に置かれるのです。そういうとき、もはやダメかと思われる。そこは湖の真ん中です。助けてくれる人は誰もいない。その時ペテロは叫びます「主よ、助けてください」。

  まさにその時そこに、主イエスが近づいて来られるのです。それも湖の上を歩いて弟子たちの乗る舟に、近づいてこられたのです。それを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言って叫び恐れました。それほどに弟子たちは、嵐の中、恐怖の中にいたのです。

  海の真ん中や、誰も近づくことができない場所でも、「主よ、助けてください」その叫びに、主イエスは、救いに来られます。そこがどんなに困難な中であっても、主イエスは、来られる。そして言われる「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」


投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-15 04:44:16 (945 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章19〜20節

「群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」

宣教題「主の御手から希望」    牧師 新保雅雄

  主イエスは弟子に言いました。「彼らに食べるものを与えなさい。」弟子は答えました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」男性だけでも5千人もいるのです。とてもこの量では無理です。

  主イエスは「それをここに持ってきなさい」と言われました。いったい何をしようとするのか? 群衆の注目が集まります。

  主イエスは、そのわずかなパンと魚を手に取り、天の父なる神を仰いで讃美の祈りを唱えられました。主イエスは、役に立たないような、わずかなものであっても、天を仰いで父なる神様に感謝し祈るのです。

  そしてパンをちぎっては弟子たちに渡し、群衆におあたえになりました。主イエスは、パンを裂いて弟子に渡す。弟子たちは、またそれを群衆に配る。主イエスが、またパンを裂いて弟子たちに渡す。弟子たちは、そのパンをまた配る‥‥。そして魚も同じように、延々と続きます。

  すると不思議なことが起こったのです。パンと魚がいくら配っても、なくならないのです。配っても配っても、パンも魚もなくならない。延々と群衆に配られる。なんと群衆の目の前で、奇跡が起きているのです!

  こうして1万人以上の群衆が満腹するまで食べました。さらに驚くことに、残ったパンくずを集めると、12の籠にいっぱいになったのです。

  5つのパンと2匹の魚が、もし主イエスの手に渡らなかったら、それはただの5つのパンと2匹の魚のまま何も変わらない。しかし、主イエスの手に渡されたとき、主イエスの手の中で豊かに増え広がるのです。そしてついてきた群衆全員の人々を満たしていくのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-08 08:02:09 (931 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書24章36.42節

  その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

宣教題「それでもあなたを愛する」 牧師 新保雅雄

  いつ終わりが来るのか、いつ主イエスが再臨されるか分からない。「だから目を覚ましていなさい」42節と言われるのです。いつお迎えが来てもいいように、目を覚ましていなさいと言われる。

  では「目を覚ましている」とは、どういうことでしょうか?

  43節、家の主人は泥棒がいつ来るのか知っていたら、みすみす家に入らせないだろう。45節、悪いしもべは、主人はまだ帰ってこないと思って、仲間を殴り、飲み食いして大騒ぎをしていた。ところが主人は思いがけないときに帰ってきて、その悪い僕を罰する。だから目を覚ましていなさいと言われる。

  そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも立派な行いをしている」ということになるのでしょうか?

  主イエスは、ゲツセマネの園で、弟子たちに言われました。「わたしが向こうへいっている間、ここに座っていなさい」(マタイ26:36)。そうして少し離れた場所に行って、主イエスは神さまに祈りました。そして弟子たちのところに戻ってみると、弟子たちはみな眠っていました。そして3度同じことがあり、主イエスは言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。」まさに時が来たのです。そして弟子たちは神の裁きを受けたのでしょうか?

  決してそうではない。弟子たちは裁きを受けませんでした。では誰が裁きを受けたのでしょうか? それは主イエス御自身でした。主イエスは、私たちの肉の弱さをご存知です。

  主イエスは十字架で死んで三日目に復活されたとき、見捨てて逃げた弟子たちを赦し、再び招かれたのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-25 07:24:57 (939 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書2章9〜11節

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

宣教題「あなたを導く星」     牧師 新保雅雄

メリークリスマス!

クリスマス、おめでとうございます。全世界でキリストのお祝いがされています。私たちもその中にいること感謝です。

イエス様がお生まれになぅた所は、家畜小屋でした。そこは門も鍵もありません。誰でも、入ることのできる場所でした。そんなところにイエス様は、キリストとしてお生まれになったのです。

救い主、イエス・キリストが、誰でも会うことのできる家畜小屋でお生まれになったのに、実際に会いに来たのは、東の国からやって来た博士たちと、野宿をしていた羊飼いたちだけでした。キリストに会うことができた人と、会えなかった人がいたのです。

聖霊によって、主イエスが今も生きておられるならば、その主イエスにお会いするには、どうしたらいいのでしょうか。つまり救われるにはどうしたらよいのでしょうか。

その一つは「求める」ということです。この学者たちを見てください。彼らは、ユダヤ人から見たら異邦人です。ですから、聖書のこともよく知らないし、本当の神さまが、どんな方なのかもよく知りませんでした。少なくともユダヤ人よりは知らなかったのです。

しかし、彼らには、神さまへの救いを求める熱い心がありました。本当の神さま、そして自分たちが救われることを真剣に求めていました。その証は荒野を何百キロも旅することがてきたことです。

この時の博士たちのように、キリストに会うことを心から願うならば、キリストは私たちを導き共にいてくださるのです。


 


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