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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2014-04-13 01:06:16 (1343 ヒット)

本日の聖書 マルコによる福音書15章29節〜41節
「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(39節)

宣教題 「本当に、この人は神の子だった」 北村紀一

十字架に架けられたイエス様を見ていた百人隊長が、イエス様の“何に”感動して「この人は、本当に神の子だった」と告白したのでしょうか。

彼はこの十字架のイエス様をずっと見ていた人でした。イエス様が裁判を受けて死刑の判決を受けるときに、イエス様と人々の間で、暴動が起こらないように見張りながら、十字架を担がせたのを見ていた人でした。イエス様をいよいよ十字架につけるとき、釘で指すことを指示した人です。十字架刑を執行し、きちんとイエス様を殺さなければいけない、その責任を負っていたのです。つまり、イエス様の十字架をはじめから終わりまでずっと見続けた人でした。

そして、人々に侮辱され、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って死んでいったイエス様の姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。

祭司長や律法学者たちは、十字架から降りて自分を救うことができたら、信じてやろう(32節)とののしりました。十字架から降りるという奇跡を見せたら、つまり神さまがお前を助けたという“しるし”を見たら、お前が何の苦しみも悲惨もない、神に救われた姿を見たら、「神の子」と信じてやろうというのです。

けれども、百人隊長は、苦しみも悲惨もない神様の救いを受けているから、イエス様を「神の子」と感じたのではありません。十字架という、これ以上ない苦しみと悲惨の中に置かれて、心の声を代弁され、それでもなお、神さまを信頼して、勇気と希望を失わない信仰に、救いを見いだす姿に感動して、「神の子」と告白したのです。イエス様の姿を通して神様との距離がなくなったように感じたのです。

神様は、何の苦しみも、悲惨も知らない方ではなく、痛みも悲しみも病も知っておられるのです。一緒にいて同じ思いを味わってくださる御方です。イエス様の十字架を通して、私たちは、神様との間にあった隔たりが取り除かれたのです。

イエス様が私たちのように、人生で味わう苦しみ、悲惨、その気持ちを味わわれたからこそ、私たちの苦しみと気持ちを分かってくださり、支えてくださるので、そこから救い出してくださると信じることができるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-03-30 07:29:21 (1417 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書21章25,26節
ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」

宣教題 「主イエスとの出会い」   牧師 新保雅雄

主イエスは彼らの問いに答える前に、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と
祭司長・長老たちに問われた。彼らは「神様からの権威によってヨハネはバプテスマを授けていた」と答えれば、なぜあなたがたは、信じなかったのかと非難される。
逆に、「人からのものだ」と答えれば、群衆はヨハネを神から遣わされた預言者だと思っているから、群衆が恐ろしい。彼らはどう答えるべきか考えた。実に祭司長・長老という権威は、その程度のことなのです。そこで彼らは、「分からない」と答えました。

この世の権威にしがみつき、見栄や体裁を気にして、主イエス、すなわち神との出会いに至らなかった。神のことを知識として一番知っている権威ある者が、実は神から遠かったのである。
「ヨハネの洗礼は天からの権威ではない、人からのものだ」と思っているなら、群衆がどうかではなく、そう言えばよいのです。そこから主イエスとの本音の出会いが始まるのです。

悪霊に取りつかれた息子を主イエスに助けていただくために、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」マルコ9:24と叫んだ父親のように。苦しいときは「苦しい、助けてください」と心から叫ぶのです。信じられない時は、「信じられるようにして下さい」と祈るのです。

主イエスは心からの祈りを、必ず聞かれます。時に神への知識は神から遠ざける。「知恵者は、その知恵によって滅びるのです」自分を誇るのではなく誇るべきは「神お一人ひとりである」


投稿者 : church 投稿日時: 2014-03-23 06:56:35 (1333 ヒット)

本日の聖書 マルコによる福音書10章17〜27節

「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」(23−27節)

宣教題   『天国を受継ぐには』   北村 紀一

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。(17)

この問いに、イエス様は、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(18−19)

すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。(20)イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 (21)

その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(22)

この人は、天国に入るには、どんな善いことをすればいいのか。ということを真剣に質問したのです。しかし、イエス様は、この人の的外れな視点を神さまに向けるように促しました。そして十戒を示しましたが、この人は、子供のときからすべて守ってきたと思い込んでいたのです。そこでイエスさまは、慈しみながら彼に欠けているものを示しました。

この人は自分の力で天国に入れると思っていたけど、イエス様にふれて、罪深い自分の姿、さらに自分にとって一番手放したくないものが、何であるのかまでハッキリ示されてしまったのです。しかし、そんな自分の姿を受けとめることができませんでした。このような隔たりが天国との間にあるのです。

金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言われるように、自分の力で天国に入ることは不可能です。この隔たりに橋を架けるように罪深い私たちのためにイエス様は十字架にかかってくだったのです。

この十字架の恵みによって、私たちは天国に招かれているのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-03-16 03:25:00 (1430 ヒット)

本日の聖書 マルコによる福音書10章13〜16節

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。:はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」:そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

宣教題  「子供たちを抱き上げて」   北村紀一

 もし皆さんが、ものすごく忙しくて、これ以上手に負えないな〜と思っている時に、さらに追い打ちをかけるように人が来たら、どうするでしょうか。今忙しいから、あとで来てね。と追い返すでしょうか。

弟子たちは、イエス様にふれてほしくて子供を連れてきた人を、叱って追い返そうとしました。しかも、当たり前のように正当化していました。その弟子たちに憤って、イエスさまは聖書が語る真理を伝えました。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(14節)

何もできない、わからない、親に信頼して委ねるしかないそんな子どもたちです。しかし「神の国は、このような者たちのものである。」

つまり、保護者がいなければ何もできない存在こそが、神の国入るのに相応しいと語るのです。

このことを通して、弟子たちも自分もまた幼子と変わりない者であることに気付かされたことでしょう。また、同様に人の子に共通している恵みは、「成長」することです。子供は、見たり聞いたりいろいろとやってみて、泣いたり、笑ったり、考えたりさせられて、学びながら成長するのです。

私たちは、自分が神の国に相応しいから教会に招かれているわけではありません。むしろ、相応しくないにもかかわらず、招かれているのです。そして私たちは神さまからみれば、いくつになっても子どもであるように、成長し続けていくことができるのです。

イエスさまが憤って弟子たちを叱ったのは、主のところに連れて来られた小さな人を遮ろうとしたからです。これは神の国を遮ることと同じです。私たちも、自分の都合や偏見を超えて主のみこころのままに成長させていただけますように祈り求めていきましょう。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-03-09 07:07:16 (1328 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書21章21〜22節

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

宣教題  「疑わない信仰」    牧師 新保雅雄

主イエスは言われた。「信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」

「信仰」とは、父なる神に対しての信仰です。そして神の一人子、キリスト・イエスを信頼する信仰です。「動かないように見える山、しかし主イエスなら動かしてくださる」と信じる、主イエスを信頼する、ということです。 私たちが念じて動かすのではありません。「主イエスが動かしてくださる」と、信じることなのです。

自分の思うとおりになる、ということとは全く違います。私達は癒しや、山が動くことをお願いして主に祈ります。しかしその祈りを受け取って、どうなさるのかは主イエスがなされることです。

私たちの思いを超えて、主が最善をなしてくださることを信じるのです。時には私たちが願ったのとは違う結果になるかもしれない。しかしそれは、主が最善のために、そのようにされたのです。

私たちが主イエスを通して祈る。しかしそれが叶わないなら、それは私には必要のないことなのかもしれません。

それが「疑わない信仰」です。弟子たちは、主イエスが十字架にかかるということを信じたくなかった。人の思いから見ると、それは最悪の事であり、受け入れられないことなのです。

しかしその十字架こそが、弟子たちを、そして私たちを救う最も尊い神のご計画なのです。主が最善をなしてくださることを信じ、主を信頼して祈る。それが信仰です。


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