7 月31日(日)の会堂での対面礼拝はありません。
次週8月7日(日)以降、感染状況からの対応に合わせて対応します。ご理解賜りますようお願い致します。今週も皆さんの上に主の祝福が豊かにありますように。健康が守られますように。栄光在主
7月24日(日)の会堂での礼拝はありません。
次週31日(日)以降、行政からの対応に合わせて対応しますが、今のところは安全対策しながら対面礼拝を予定しております。皆さまの健康が守られますように。
本日の聖書 マタイによる福音書5章14節
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることが出来ない。」
宣教題「地の塩、世の光」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われています。
主イエスは、何か条件を付けて、「もし、○○ができるならば、地の塩、世の光になれる」だからなれるように、しっかり頑張りなさい、と言われたのではないのです。
また、特に選ばれた人、才能をもった人にだけ言われた訳でもないのです。今のままの、ありのままに「あなたが、地の塩であり、世の光なのだ」と言われています。
ここに、神の恵みによる「幸い」があります。「神が、一方的に、恵みによって、私たちを選んでくださり、地の塩、世の光としてくださった。だから、相応しく生きよう」これが、生き方なのです。
救いも同じです。「何かが出来たから救われたのでは、ありません。」「救われたから神の言われるような人生を生きよう。」なのです。(出エジプト)先に神の救い恵みがあり、感謝の人生があるのです。
光は自分を照らすのではありません。 世の光としての私たちは、自分自身に光が当たることを望むのではなく。世の光として、人々を照らすことや社会を照らすことが光の役目なのです。
ですから、世の光としてのクリスチャンは、この世に仕えることが役目です。その時、光が光らしく輝くのです。また塩も自分自身のためにあるのではなく、周りの腐敗を防ぐための清めに使われる。
地の塩も世の光も、自分のためにではなく、世や人の為にこそ存在します。だからこそ、私たちは、礼拝の場から、地の塩として、また、世の光として、それぞれの働きの場へと遣わされるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章3節
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
宣教題「天の国は心の貧しい人のもの」 牧師 新保雅雄
主イエスは、山上で、「幸い」についてお教えになられました。
ここで、「もし○○出来るならば、幸いになれます」などと言っておられるのではありません。既に今ある状態に対して、「あなたは幸いだ」と、主イエスは断言しておられるのです。
3節、4節にある最初の二つの「幸い」は、貧しい人、悲しむ人、この世的な判断からすれば、決して「幸い」とは言えない状態にある人々を指して言われています。この世の常識や価値観に、対抗するかのように主イエスは、「幸いだ」と繰り返していきます。
まず3節、最初に「心の貧しい人々」が挙げられています。主イエスが言われている「心の貧しい人々」というのは、直訳すれば、「霊において貧しい人々」のことです。つまり、信仰的に飢え渇いている人のことです。言い換えれば、それは、神の助けを求めている人、神の助け無しには、もう生きて行くことが出来ないほどに、深い苦しみの中に疲れを覚えている人のことです。
こうした人に向かって主イエスは、「天の国はあなたがたのものだ」と言われています。つまり「心の貧しい人々」こそが、天の国では、最も中心的な存在であり、あなたたちのためにこそ、天の国はあるのだと、主イエスは、言っておられるのです。
病院が、病気に苦しむ人のためにあるように、天の国は、神の助けを求めている人のためにこそあるのです。病気の人は自力で努力で修行で、何かが出来ることで、癒されるのではありません。
自分ではどうにも出来ずに、神の助けを祈り願う。私たちは、神の助けを切実に求め、思わず「ああ、神様」と祈らずにはおられない状態に置かれることがある、それこそが、「心の貧しい」状態です。
本日の聖書 マタイによる福音書4章18〜20節
イエスは、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
宣教題 「主イエスの呼び掛け」 牧師 新保雅雄
主イエスの弟子となった最初の4人は、皆ガリラヤ湖の漁師でした。彼らは、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時に、声を掛けられ、弟子となりました。自分の方から、主イエスに向かって、「私を弟子にしてください」と弟子入りを申し出たのではありません。皆主イエスの方から声を掛けられて、弟子になったのです。全ては、この主イエスの導きの呼びかけから始まったのです。
こうして主イエスの招きに応えて、最初の4人の弟子が誕生しました。この4人に共通することは、漁師という仕事中に主イエスから声を掛けられたこと、祈って求めたのではないにも拘らず、誰一人として、躊躇することなく、すぐに主イエスに従ったことです
網も舟も父親も残して、彼らは主イエスに従いました。これは、神の働き無しには起こりえない出来事です。何故なら主イエスは、まだ何一つ、実績を上げておられないからです。病気の人を癒すこと、神のみ国を教えることも、まだ行ってない、無名の時なのです。
ですから主イエスが何者であるのか、まだ誰にも分からない段階で、シモンたちは主イエスに従って行くのです。神が彼らの心を動かしてくださったからこそ、主イエスに従うことが出来たのです。
神は、主イエスを通して、私たち一人一人に呼び掛けられます。たとえ私たちに、主イエスの声が聞こえなくても、ここに集められているということが、既に主イエスの呼び掛けを受けている証です。
私たちは、すぐに主イエスに従うことが、出来ないでいるかも知れません。でもそれはそれでいいんです。今日も主イエスは、繰り返し私たちに呼び掛けてくださる。ここに恵みがあります。