本日の聖書 マタイによる福音書22章31〜32節
死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
宣教題 「生きている者の神」 牧師 新保雅雄
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
主イエスは、死後の世界は遠い世界に思えるが、信仰者には死後も神の力が働き、神の中に神と共に生きていると言われています。
神を信じた者は、死の世界から復活して、神の世界の中に生きるのです。土の中、神棚、祭壇の奥にではなく、今この地上の神の世界のうちに生きているというのです。これが主イエスの言われた死者の「復活」であり、「永遠の命」ということです。
しかし神を信じない者は、死んだら終わりであり、そこには神の力は及ばず、永遠に神不在の暗黒の中にある。つまり神の力が届かない遠い所、それが死後の世界・虚無の世界ということなのです。
日本では「人は死んで仏になる」と思われています。仏は死者の世界では、神のような存在です。あの世でお世話になるのが仏様
「死んだらどうなるか」。サドカイ派の人々は、「復活はない」と考えていました。人は土くれから造られたから、土くれに帰っていく。死んだら終わりだ、それが人間だ。非常に絶望的な考え方です。
「神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神なのだ」という主イエスの御言葉は、かえって現実的であり現世的であるが、将来に向かって生きることに勇気が出てくる。神と共にある人生は、未来永劫へと向かっていく。しかし神なき世界は、生きるのではなく、死へのカウントダウンである。
本日の聖書 マタイによる福音書22章19〜21節
税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
宣教題 「わたしは神様のもの」 牧師 新保雅雄
ヘロデ派とファリサイ派の人々は、主イエスに問いかけた。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
ヘロデ派の人々は「もちろん納めましょう」という人々です。しかしファリサイ派の人々は、渋々納めている人々です。ファリサイ派とヘロデ派は、考え方が違う水と油の関係。仲が悪いのです。
ところが今日の聖書では、仲が悪い者同士が、主イエスを死刑にしたいということでは、利害関係が一致しているのです。そこで、「イエスの言葉尻をとらえて、罠にかけようと相談した」のです。
彼らは主イエスに質問します。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。適っていないといえばローマへの反逆罪、適っているといえばユダヤ人が騒ぐ。
主イエスは、人々が見守る中、渡された1デナリ銀貨を手にとって言われた。「これは誰の肖像と銘か?」デナリ銀貨には、ローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていたので彼らは、「皇帝のものです」と答えました。すると主イエスは、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。彼らは急いで立ち去った。
一体何が『皇帝のもの』で、なにが『神のもの』なのだろうか?
聖書は、私たち一人一人は主のもの、神様のものだと言われます。私たちが、失敗をして、ざ折したり、人間関係がうまくいかない時、また負いきれない重荷を背負うとき。しかし感謝すべきことに、主イエスは、私たちは主のものである、と言われるのです。私たちが一人も滅びないようにするためなのです。
本日の聖書 マタイによる福音書22章8〜10節
そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
宣教題 「あなたは招かれている」 牧師 新保雅雄
王様の催す結婚式が開かれた。招待される人達は、政治家、学者、宗教指導者、政府要人といった地位や名声のある人達ばかりです。「選ばれた」人達であり、招待されることは大変名誉なことです。
結婚式当日、家来たちが招待客のところに行くと、ある人は畑に行き、またある人は商売に出かけたというのです。王様の王子の結婚式です。しかし招待されながら、仕事に出かけてしまったのです。
そこで王様は、家来たちに町の大通りに行って、誰でもいいから連れてこいと命じます。この王様の選びによって、何の地位もない私たちも、王子の結婚式の宴席に入れていただけたのです。
しかしこの宴席に招かれた人のなかで、礼服を着ていない人が一人いたというのです。そしてその人は外に放り出されたのです。
王様とは父なる神様であり、王子とは御子イエスです。そして結婚式の宴席とは神様の御国のことです。そして礼服とは主イエスの十字架によって罪を赦され白くなった信仰のことを意味しています。
神の御国で礼服を着ていない人とは、せっかく教会へ神様によって招かれているのに、主イエスを信じられない人のことです。
神様は特別な地位や能力を持たない人を選ばれました。そして十字架の恵みによって神の国の礼服を着せてくださいます。どうか素直にイエス・キリストによる祝福を受け入れてください。そして父なる神様に招かれていることを大切にしてください。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28〜29節)
宣教題 『聖霊のわざを見よ!』 北村 紀一
「聖霊を冒涜する」とは、どういうことでしょうか。この箇所の言葉の意味はなかなか難しいと感じる人が多いのではないかと思います。
「聖霊を冒涜する」とは、聖霊を拒み、聖霊の働きに反対すること。つまり神様を信じると言いながら、神様の働きを軽視すること。人には教えながら、自分には教えないように、言ってることと行いが違う生き方をすることです。
イエス様の働きは、いつも聖霊とともにありました。したがって、悪霊を追い出した力も聖霊によるし、イエス様の宣教の中心は、サタンの支配から神様の支配へかえることが目的なのです。つまり、聖霊とは、神さまの御心のままに働く力で、神様の愛によって従う(援助者)そのものであります。
そのように、イエス様の罪の赦しには例外はありません。イエス様の十字架を信じるならば、だれでも救われるのです。しかし、それを拒むとしたら、どうでしょうか。それは、おいしくて栄養のある食事を用意されても、食べないと拒否するのと同じです。食べなければ栄養をとることができません。
まして、イエス様の働きを悪霊の働きとして、拒否するとしたら、いくら天国に招かれていても、一生懸命抵抗して入らないようにしていることになるのです。それでは、神の国には入れないということになります。つまり、聖霊を冒涜する者は赦されないということになるわけです。
だから、自分の罪を認めることが必要です。本当に大事なことが何かを求める必要があります。気付きが必要です。正しく判断する知恵が必要です。求めれば与えられるのです。
私たちは、聖霊の力によらなければ、イエス様を主と告白することはできません。イエス様に従うことは、聖霊に従うことです。
イエス様のお名前を使って祈ることは聖霊(援助者)の力によって祈ることです。聖霊によって、イエス様の十字架は、私たちが神さまから離れることがないように示された愛のしるしと理解できるようになります。「主の名によって祈る」ことが赦されていることを知ります。そうですから、いつも、祈りが必要です。私たちのために、十字架に架かってでも救い出そうとしておられる神様の愛にこそ、私たちは心を注ぐものでありたいと思います。
本日の聖書 マタイによる福音書21章36〜39節
また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
宣教題 『神の忍耐』 牧師 新保雅雄
神は、イスラエルを愛するがゆえに、僕である預言者たちを送ってきた。しかし人々は、なかなか受け入れないどころか預言者たちをひどい目に遭わせ、殺してしまった。にもかかわらず、「今度こそは」と信じて、大切なひとり子イエスを送った。「我が子なら敬ってくれるだろう」と思ったからです。
そこまで忍耐し、信じて、人が悔い改めるのを忍耐強く待っていてくださるのが、私たちの神様なのです。僕である預言者が迫害され、殺されても、なおねばり強く「今度こそは」とあきらめないで、悔い改めるのを待ってくださる。それが私たちの天の父なる神様であるというのです。
私たちから見ると、ばかばかしいほどの忍耐です。しかし、そうだから私たちは救われるのです。
農夫たちは、跡取り息子を殺してしまったのですから、主人に復讐されるのが当然だと、思います。しかし、神様はそうなさらない。神の国の跡取りである御子イエスさまを十字架にかけた人々を罰しないで、反対に救おうとなさるのです。
神様に対して罪を犯し、もう本当は救われる値打ちのない人々、そしてそれは私たちも同じなのですが、その罪人の頭を、神様は十字架によって救おうとなさるのです。