本日の聖書 マタイによる福音書19章13〜15節
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた
宣教題 「手を引かれた子供のように」 牧師 新保雅雄
主イエスに子供を祝福していただくために、親たちが子供を連れて来ました。これを見て弟子たちは親たちを叱り帰そうとしました。
しかし主イエスは、逆に弟子たちを叱りました。そして「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。
主イエスのところに連れてこられた子供たちは、何かしたわけでもないのに、主イエスは「天の国はこのような者たちのものである」と言われる。いったいこれはどういうことなのでしょうか?
ヒントは、子供たちはどうやって主イエスのところにやってきたのでしょうか?です。「人々が子供たちを連れてきた」と書いてある。つまり親に連れられて来たのです。それだけです。努力したどころではない。連れられてきただけです。それが天の国なのです。
「私は自分で主イエスのもとにやってきました」と言うことのできる人がいるでしょうか。わたしは自分が選んで教会に行った、という思いが、いかにごう慢であったか。今朝の礼拝の初めに牧師、司会者が「教会へ来ようとしている兄姉があれば無事に」と祈ります
自分の力で主イエスのもとに来ることができる人などいません。全ては聖霊の導きです。天の国は、主イエスが一方的にお与えになるものです。子供は自分で教会へ来たのではない。親たちに手を引かれてきたのです。これが聖霊の働きです。どうか心を一つにしてまだ見ぬ兄姉、お休みされている兄姉のために祈りましょう。
本日の聖書 マタイによる福音書19章8、9節
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
宣教題 『自分の弱さを知りなさい』 牧師 新保雅雄
今朝の聖書を読んで、皆さんはどのように感じられたでしょうか。離婚をすることが、「良いのか悪いのか」、「どういう場合なら離婚はできるのか」また「どのような離婚なら律法に違反しないのか」 離婚する時はどうすればいいのか?このように思ってしまいます。
「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言うファリサイ派の人の言葉に対して、主イエスは「どんな理由があろうと、絶対に離婚をしてはいけないのだ」という離婚禁止の律法として聞こえてしまうのではないでしょうか。
そうであるなら離婚をした人はダメな人、神の御心に背いた人。離婚をしなかった人が偉い人、立派な人である、ということになってしまう。
当時は男性社会です。そのため妻と離縁して新しい女性と再婚したいと願う悪心から、妻に「なにか恥ずべき事」をはないかとさがし、口実をつくり、離縁を正当化していました。つまり自分の責任ではないから罪はない、欠けもない、自分は立派な信仰者だと見せたい。
天の神は創造の時、アダムを御心にとめ「人が独りでいるのは良くない」と言われ、助け手エバが造られました。父親の対極としての母親は人間社会の基礎です。対立のために男と女があるのではなく、助け合う関係として造られたのです。しかし人は、自分の欲望のために都合よく解釈していく。ましてや預言者へも迫るのである
自分は完全な人間ではなく、欠けた人間であることを知りなさい。主イエスは、律法を教えておられるのではないのです。人間の弱さを知りなさい。と言われているのです。
本日の聖書 ゼカリヤ書9章9〜10節
「シオンの娘よ。大いに踊れ。娘エルサレムの娘よ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられる者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子である子ろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」
宣教題 「まことの王さまはろばに乗って」 北村紀一
この聖書の預言は成就しました。救い主であるまことの王が来られたわけですが、その王は「ろば」に乗ってくると言うのです。でも、なぜ見栄えのいい馬ではなく、「ろば」なのでしょうか。
ろばは、主に乗り物・荷物運びとして用いられ、身近で親しまれている温厚な動物です。ちなみに馬には「競馬」とか「馬力」という言葉があるように、「速さ」や「力」の象徴というイメージがあります。つまり、ゼカリヤの預言は、意外なことだけど、やがて来る王(救い主)は、軍事力のような力で抑圧する、力で支配するお方ではなくて、平和の象徴である「ろば」に乗って「神さまの愛」をともなってきて下さるお方だ、ということを意味しています。
当時は、力ある王たちが、馬に乗って登場しては、いつしか別の力ある王によって滅ぼされるということが繰り返されてきました。結局その戦いの狭間にあって、弱者は踏みつけられるということに変わりありませんでした。そんな力の支配には救いはないのです。それでも、救いにならない力に頼ろうとすることを繰り返すのが私たちの姿として浮き彫りになっています。
だからイエス様が、ろばでエルサレムに入場したとき、民衆は「ホサナ、地には平和、神に栄光」と、賛美したのに、イエス様の進む道が「十字架の道」であることがわかると多くの人が幻滅し、自分の弱さを受け容れられずに、イエス様を十字架につけろと叫ぶわけです。
だからこそイエス様は、力ではなく愛によって生きる十字架の道を示されました。本当の平和をもたらすために、ろばにのって来られたのです。救いは神さまにしかありません。神さまが与えてくださった本当の救い主、ろばに乗って来られた救い主を心に迎え入れましょう。そうすることで、一人一人が大事な存在として、本当の生きる意味と価値を見出し、満ち足りたいのちを生きる状態へと戻されるのです。
そして、まことの平和は現実の只中で成就します。それは、あなた自身の弱さや不完全さに向き合うことの中にこそ、他者の弱さや不完全さを赦そうとする営みの中にこそ、イエスさまは、ろばに乗って来て下さるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書18章21、22
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
宣教題 『主はなぜ赦すのか』 牧師 新保雅雄
ペトロは、主イエスに尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
対して主イエスの答えは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」それは驚くべき答えでした。
「七の七十倍」とは、実に490回です。主イエスは、「490回」という回数のことを言われたのではありません。これは「無限に」赦すということを言われています。ここで注意したいのは、七の七十倍という回数、過ちを犯した人を何度も赦すという、回数の多さを教えている、たとえ話ではないということです。
ここで大切なことは、「何回まで赦すのか」ということではなく、「なぜ赦すのか」ということが重要なのです。そのことを教えるために、主イエスは、ある王様が、家来たちに貸していたお金の決済をしようとした。というたとえ話をされました。
「ある王が」家来たちに貸したお金の決済をしようとした。ある家来は1万タラントンの借金をしていた。しかし王は「あわれに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」のです。
この借金を帳消しにされた家来は、今度は自分が百デナリオンを貸している仲間に出会いました。その仲間は「どうか待ってくれ、返すから」とひれ伏し願いました。ところがこの家来は、この仲間を牢に入れてしまったのです。
そのことを知った王は、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなったか。」と大変怒った。そして免除した彼の負債を帳消しにして、彼が借金を返済するまで牢役人に引き渡してしまった。私たちも赦された者なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書18章18〜20節
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
宣教題 「心を一つにする」 牧師 新保雅雄
私達は「神は、どんな願いでも聞いて下さるのだろうか?」と、そちらのほうばかりに思いが向いてしまう。しかし今朝の御言葉に「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」という前提が付いていることを、忘れないようにして下さい。
この「心を一つにする」という言葉は、ギリシャ語では「シュンフォーノー」という動詞です。これは「音と音が調和して共に鳴ること共鳴」という意味です。特に楽器の演奏で、それぞれの楽器が調和して一つの音楽を作ることを言います。そしてこれが英語ではシンフォニー、「交響曲」という言葉になるのです。
交響曲は、バイオリンやチェロなどの弦楽器や、フルートやトランペット、クラリネットやホルンなど木管楽器、金管楽器、そして打楽器など、実にたくさんの様々な楽器によって成り立っています。
それぞれの楽器が、それぞれ勝手に音を出したり勝手なリズムで演奏したりすれば、それはうるさいだけの騒音です。しかし指揮者のもとで演奏されたとき、それは一つの美しい音楽となります。
主イエスが「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」と言われたとき、それは「シンフォニー」なのです。私達は、心を一つにして祈り合っているでしょうか。教会が「心を一つにして」、まさにオーケストラがシンフォニーを奏でるように調和し共鳴して、神に向かって祈っているでしょうか。まさに教会の祈りについて言われています。