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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2015-06-07 00:55:12 (1091 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書13章10〜12節

「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。

イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」

宣教題「解放」     牧師 新保雅雄

ユダヤ教の安息日の教会です。この教会には、18年間腰が曲がった病気に苦しんでいる婦人がいました。主イエスは、この婦人を呼び寄せ「婦人よ、病気は治った」と言われ、その腰に手を置かれると、曲がった腰がまっすぐに伸びたのです。婦人は大喜びし神を讃美しました。18年間という長い苦しみから解放された瞬間です。

しかし、それを見ていた会堂長は、安息日に婦人を癒したことに腹を立て「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言ったのです。

会堂長にとっては、人が癒され、苦しみから解放されることよりも、安息日が守られることの方が、重要だったのです。礼拝(安息日)を守る事や律法を守る義務感の方が、癒しより優先したからです。

18年間病に苦しんだ婦人。教会に来れば、この苦しみから解放されるかもしれない。そう信じて礼拝に来ているのです。私たちも、この会堂長のようになってはいないでしょうか。

義務感で礼拝を守っても、奉仕をしても、良い行いをしても、そこに本当の喜びの讃美は生まれません。18年間苦しんだ女性が、思わず神を讃美した思いや喜びを知る事は出来ないでしょう。

今日の教会で覚えることは、主イエスが十字架で死んで三日目に復活された、このことによって、私たちは、罪の鎖から解放され、赦され、救われているのです。罪の束縛から解放するために、十字架の死と復活があるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-05-31 07:52:49 (1010 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書13章33節

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」

宣教題「主の道」 牧師 新保雅雄

主イエスと弟子達の前に、ファリサイ派の人々が近寄って来ました。ファリサイ派の人々とは、主イエスを心よく思っていないユダヤ教の一派で、主イエスを十字架刑へ送ったのはこの一派です。

しかしここでは、ファリサイ派の人々は、一転して主イエスに危険が迫っていることを教えに来たのです。当時、ガリラヤを治めていた王ヘロデが、主イエスを殺そうと狙っているということでした。危険なので早くここを立ち去り逃げるようにと教えに来たのです。

自分を殺そうと付け狙っている人が、あなたの元へ来るということを聞いたら、普通なら逃げようとするのではないでしょうか。しかし主イエスは、逃げるどころか全く動じませんでした。そして、ヘロデを狐とよんで、ご自分の進む道を、はっきりと示されました。

そしてファリサイ派の人々に向かって「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」と言われるのです。

悪霊に取り付かれた人から悪霊を追い出し、また病気に苦しむ人をいやし解放しました。そして全ての人の罪を赦す為、十字架の待つエルサレムへ向かう。これが主イエスの進む道なのです。

世のどんな権力者の脅しにも屈せず、今日も明日も、次の日もいつも通りに、人を救う道を歩き続けるのだと、主イエスは言われる。

主イエスは、どんなに強い権力を持つ、自分を付け狙う者にたいしても、全く動じないで、今やるべき事を優先されました。それが主の道です。 

自分の命よりも今最も愛を必要としている人、救いを待って苦しんでいる人、そこが主の道なのです。どうか私たちも世の目を恐れずに、主の歩かれた道を従いたいものです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-05-24 06:16:13 (1113 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書13章23〜24節

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」と言う人がいた。

イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。」

宣教題「人生の荷物を減らしなさい」 牧師 新保雅雄

ある人が主イエスに「救われる者は少ないのでしょうか」と訪ねました。それに対して「狭い戸口から入るように努めなさい」と主イエスはお答えになりました。人々の関心事は「私は救われるのか」でした。

この後主イエスは、金持ちの議員に言われています「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(ルカ18:24、25)

さらに主イエスは、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と語られています。誰もが神の御国へ入りたいと思っています。しかし、実際には、入れない人が多いのです。なぜでしょうか?

御国へ入るには、信仰という切符一枚あればいいのです。しかし、私たちは、あまりにも有り余るものを持ちすぎていないでしょうか。財物や、それを求める欲望という心が、大きすぎるから、狭い入り口からは入れないのです。なぜなら御国へつながる入り口は、狭いからなのです

パウロは、人生は旅のようなものだと言われています。神から生まれ、また神の元に帰る。裸で生まれ裸で帰る。その間の人生は旅。しかし旅の途中で沢山の荷物を持ちすぎるあまり、重たくて自分の家に帰ることが出来なくなる。世は、正に沢山持つ者を成功者と呼ぶからである。

ではどうしたら荷物を減らすことができるのでしょうか。

いままで蓄えてきた世への執着、神から離れ世にとらわれた心を悔い改め、主イエスの十字架によって軽くしていただくのです。その時に狭い入口を通ることが出来るのです。そのことを「自分の十字架を背負って着いて来なさい」と言われています。十字架の先に、そこにこそ神の国の入口があります。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-05-17 07:14:08 (1105 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書12章36節

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」

宣教題 「人を裁かない」  牧師 新保雅雄

  主イエスのもとにやってきた人が「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言うのです。これはエルサレム神殿へ礼拝に来たガリラヤ人を、ポンテオ・ピラトが殺してしまったという意味です。

  こうした悲しい事件を聞かされた時の人の反応は、二とおりあります。

  一つは、悲しい話を聞いて自分のことのように悲しみ、神の慰めを心から祈り、家族を励ます人がいます。

  もう一つは、「これは何かのバチが当たったのだ」と考える人、つまり裁く人がいます。因果応報、悪いことが起きるのは、そこに悪い行いや原因があるに違いないと考える人です。

  私が若い時に入信していた新興宗教も、悪いことが起きると、その原因を探るんです。信心が足りないから事故に合った、あなたの先祖が犯した罪があなたにたたっている。印鑑が悪い、家の方角が悪い、名前が画数が悪い。そうして高額なお金を払わせる。よく聞く話です。

  主イエスは、2節「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語られました。

  人が善いか悪いかを詮索する人に対して、まず「自分自身を悔い改めなさい」と言われます。誰が罪深いのかを決めるのは神です。 

  周りの人と比較して、自分は、あの人よりは真面目だから事故にあわず安全だ、などと考えるべきではないということなんです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-05-10 07:00:38 (1053 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書12章36節

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」

宣教題 「主を待つ人」  牧師 新保雅雄

  主人が出掛けている時、僕達がどうしているかというお話です。この主人と僕との関係は、主イエスと私達の関係を現しています。

  僕たちは家に主人がいる時は、当然、誰もが皆、言われた通りに真面目に働いていました。しかし主人が留守の時、違いが出てきます。主人の目がない留守の時に、その人の本当の姿が分かります。

  例えば、会社で社長がいないとき、私達は、どういう態度で仕事をしているでしょうか。社長がいてもいなくても同じでしょうか。

  主イエスは、信仰生活を裏表なく、どんな時も主イエスを待ち望みながら過ごすべきであることを、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」と教えています。

  「腰に帯を締める」とは、いつ主人が帰って来ても、すぐ出迎えられるようにするためです。主人が帰って来てから、あわてて帯を締め準備をするようでは、ダメだというのです。

  「ともし火」とは、玄関先を照らす光です。主人が夜帰った時に、玄関が真っ暗であったら寂しさを感じるのではないでしょうか。腰の帯とともし火とは、主人を出迎える為の準備を現しています。

  主人、つまり主イエスが来られる日は、思いがけない時に突然来られるからです。いつも信仰の生活を送れるようにしたい。

  人が見ている時、教会の時間だけのクリスチャンにならないようにしたいものです。信仰はするもの、見せるものではありません。信仰は神様から頂く恵みです。信仰生活とは恵みに感謝する人生。いつも感謝する人生を送るなら、人に親切に優しくできるのでは。


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