本日の聖書 マタイによる福音書10章40節
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」
宣教題「主よ、御言葉をください」 牧師 新保雅雄
バプテスマのヨハネは、今、牢に囚われています。牢の中で主イエスの噂を聞きました。そこで自分の弟子を主イエスに尋ねさせました「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」「来るべき方」とは、キリストのことです
これに対して主イエスは、ヨハネの弟子たちの質問には、直接的には、お答えにならずに、こう言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」でした。
それではヨハネの弟子たちは、何を見聞きしたのでしょうか。主イエスは貧しい者たち、人に見下されている者たち、無価値な者たち、迫害されているもの、に語っておられた福音の言葉なのです。
ヨハネは、その主イエスの福音の言葉、救いの奇跡を一度も見聞きできなかったのです。自分が捕らえられるまで、主イエスは福音伝道を行われなかったからです。だから今、牢の中で苦しみ、叫んでいるのです。救い主イエスが語る、神の言葉を求めているのです。
そして主イエスは、ご自身が行った奇跡、癒し、語られた福音の数々を語られました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」この祝福の福音を、今、死に直面しているヨハネに送られたのです。
私たちの人生にも、苦難が押し寄せるときがあります。そんな時に心から主を信頼できているでしょうか。信仰が揺らぐ時がないでしょうか。時として自身の信仰の弱さを思いやられる時があります。そのようなときこそ、キリスト・イエスの御言葉が必要なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書10章40節
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」
宣教題「喜びも痛みも主と共に」 牧師 新保雅雄
12弟子は、福音伝道へと遣わされようとしています。そんな弟子たちに、主イエスは、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言われました。
果たして世の人々が、12弟子を受け入れるのか、それとも拒むのか。12弟子を受け入れることは、12弟子を遣わした主イエスを受け入れることであり、神を受け入れることになるのです。
つまり12弟子たちが、世の人に受け入れられた時の喜びは、主イエスの喜びであり、神の喜びなのです。その逆に12弟子たちが拒否された時の痛みは、主イエスの痛みであり、神の痛みであるのです。この派遣においては、主イエスと神が、喜びも、痛みも、弟子たちと共に味わってくださるのです。
続けて主イエスは、こう言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
ここで「この小さな者の一人」というのは、主イエスから遣わされる弟子たちのことです。その弟子たちに対して、主イエスの弟子だという理由だけで、冷たい水を一杯でも飲ませてくれるならば、その人は、必ずその報いを受けるというのです。
荒野の多いパレスチナでの水は貴重なものです。しかし水一杯とは、それほど大袈裟なもてなし親切ではありません。誰にでも行えることです。しかし、その小さな親切、それをするかしないかで、その人の人生は、神の祝福の人生になるのです。今日の小さなちょっとした優しさで、人生が大きく違ってくるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書10章32節
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」
宣教題「信仰を言い現す」 牧師 新保雅雄
主イエスは、12弟子を福音伝道に遣わすに当たり、改めて弟子たちに覚悟して行くように語りました。
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」
これは、主イエスの弟子だということで、歓迎されるのではなく、むしろ社会では、嫌がられることの方が多いとうことなのです。
たとえ厳しい状況が待っていたとしても、自分は主イエスの仲間だと言い表すならば、主イエスもまた、天の父の前で、その人のことを、ご自分の仲間である、と言い表してくださるというのです。
どうでしょうか? 私たちは、どんな状況にあっても、「わたしはクリスチャンです」と、はっきりと信仰を表すこと事が、出来ているでしょうか。自分の都合のいい時、悪い時で使い分けしていないでしょうか。
続いて主イエスは、こう言われます。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
この現世ですべてが終わる、その後は何も無い、と考える人にとっては、主イエスの言われることは、理解出来ないでしょう。その人にとっては、終わりの日のことよりも、今この現世で、いかに要領良く生きるか、正義よりも利益を優先することに何の疑いも持たない。利益のためなら、ばれなければ許される。
しかし、天の国があり、終わりの日の裁きがあるならば、主イエスのこの言葉は、私たちのこの世でのクリスチャン人生に、大きな勇気を与えてくれるでしょう。
本日の聖書 マタイによる福音書10章28節
「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」
宣教題「恐れの秩序」 牧師 新保雅雄
主イエスは、12弟子を福音伝道へ送り出すに当たり、「人々を恐れてはならない」(26節)、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)、「だから、恐れるな」(31節)と何回も「恐れるな」と繰り返し言われました。
親しい人や教会に来会する人に、神様のお話をすることは、そう難しいことではありません。しかし、こちらから出かけて行って、理解のない人や、初めての人に、神様のお話をすることって、大変勇気のいることです。主イエスに派遣される弟子たちも、おそらく心の中は、大変不安であり「恐れ」があったろうと思います。
それでは一体、私たちは、何を「恐れて」不安になるのでしょうか。世間体でしょうか、自分の評判でしょうか、人から文句を言われることでしょうか。あるいは批判を浴びること、恥ずかしさでしょうか。確かに宗教というだけで、嫌な目で見られることがあります。
心では愛する父なる神のお話をしたい。本当の心の安らぎ癒しを、多くの人にも味わってほしい。一緒に祈ろう。心ではそう願うのです。しかし肉体的な思い、社会的な思いが、不安や恐れを覚える。
そんな不安でいっぱいな弟子たちに、主イエスは「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」と言われるのです。
神との関係においては、愛することと、恐れることの両面が大切です。神への恐れの無い愛は、かえって神との関係を歪めてしまいます。神を恐れる者は、他の何者をも恐れる必要がありません。ですから、体しか殺すことの出来ない者に、魂までも売り渡しては、ならないと言われているのです。これが「恐れの秩序」です。
本日の聖書 マタイによる福音書10章16節
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように、賢く、鳩のように素直になりなさい。」
宣教題「鳩のように、蛇のように」 牧師 新保雅雄
主イエスは、ご自分が選ばれた12弟子を、福音伝道に遣わすに当たり、様々な注意を与えられました。福音伝道は、決して簡単ではありません。弟子達を待ち受けているのは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」なのです。では何故そのような中に、弟子たちを遣わすのでしょうか。
弟子たちを派遣するきっかけとなったのは、「群衆が飼う者のいない羊のようであった」からなのです。飼う者がいない羊は、狼や猛獣の餌食になっているのです。そこから一人でも多くの羊を救うためなのです。
だからそこへ遣わされる弟子達も、狼や猛獣の群れの中に入っていくことになるのです。しかも彼ら自身も弱い羊なのです。だからこそ主イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われている。
では蛇のように賢くとは何か。このあと主イエスは「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と言われます。ここに蛇の賢さがあります。蛇が危険を察知して逃げていくように、逃げることも賢さなのです。相手が嫌がり敵対しているのに、何とかねじ伏せようとする。自分の行っていることは正義、真理なのだ。それではダメなのです。
主イエスの教えは、本当に素晴らしい。だから誰もが喜んでそれを受け入れてくれるはずだ。それはとても素晴らしい考えかたです。しかし、実際に福音伝道を行うとき、そう簡単ではないことに気づくでしょう。
当時、主イエスに対する熱狂的な信仰が群衆の中にありました。しかし、それ以上に、主イエスに対する反感も多々ありました。信仰が熱すぎるあまり、福音伝道が行き過ぎてしまう、そして余計に反感を高めてしまう。だからこそ弟子たちには、「蛇のように賢く、鳩のように素直になる」ことが求められているのです。
