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板橋区仲町23−17
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投稿者 : church 投稿日時: 2014-02-23 07:00:26 (1333 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書21章12,13節

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」

宣教題  「自らを十字架という祭壇に」   牧師 新保雅雄

「そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」主イエスは、なぜこのようなことをされたのでしょうか?

それは、神殿が、利益を追求するための商売の場所になっていたからです。神殿で使用するための貨幣に高額な手数料を乗せて両替する、藩祭に捧げられた鳩を藩祭にせず業者に買い取らせる。

神殿は神さまを礼拝する場所です。人々が神さまを礼拝しに来る。その人々を待ちかまえて商売をする。礼拝が、その目的から離れていく。このことを主イエスは、お許しにならなかったのです。

それでは礼拝とは、何でしょうか。「礼拝とは神を拝むこと」です

私達はともすると、教会に行くということが、なにか礼拝をしに行くということよりも、そのほかのことが目的で通うようになっていたりすることがあります。

日曜日を主の日として守り、私達が生きるために、欠かすことができないものとして礼拝を考えているだろうか。そこに行けば「神に必ずお会いできる」、として真剣に礼拝をとらえていただろうか。

主イエスは、神にお会いし、神を拝む場であるところで、まさにその神を拝むということを邪魔していた、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。そうして、人々が神を拝み、神にお会いできるようにされるのです。

この後、主イエスは、自らの体を十字架という祭壇におささげになり、いけにえの小羊となられるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-02-16 07:37:27 (1357 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書21章1〜4節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

宣教題  「あなたのキリストとは」   牧師 新保雅雄

なぜ神は、預言者を通して子ろばを指定したのか? 

もし、ローマ帝国の皇帝や将軍のように馬に乗って入城したとしたらどうだろうか、馬は大きいので上の方から人々を見下ろす目線、姿になる。世の権力者、皇帝、王は、皆胸を張り更に高いところから人々を見下ろす。しかし、子ろばに乗ると、人々と同じような高さにしかならない。同じ目線でゆっくりよろよろ歩くのです。

万物の造り主である神、その一人子であり、真の王の王であるお方。そのお方が、完全に人の子としてこの世に来られた。ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中に生まれ、そして今、王座につくために王の都エルサレムへと入られる。

その時の乗り物は、はなばなしい馬ではなく、生活の中で雑用に使われるロバであった。このことが、このあとの十字架の意味を現している。

この時人々は、「ダビデの子にホサナ」「万歳」と叫んで、大歓迎しました。人々はなぜ、このように主イエスを歓迎したのでしょうか。

そして、数日のうちに人々はなぜ、主イエスを「十字架につけろ」と言って軽蔑する群衆へと、変わっていったのでしょうか。

それは、人々が期待したダビデに象徴されるような、強いイスラエル王としてのキリストの姿と、実際のキリスト・イエスの姿が、あまりにも違っていたからです。人々は、救い主キリストのイメージを勝手に思い描いていたのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-02-09 04:22:58 (1071 ヒット)

本日の聖書 ヨハネの黙示録1章9〜20節

「あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」20節

宣教題  「与えられた使命」  北村 紀一

ヨハネは、イエス様こそ救い主であると証したことでパトモス島に流刑の身となりました。誰が見ても絶望的な状況です。しかし、神様の恵みは、どこであっても豊かに注がれています。神様がいるところは天国なのです。


イエス様を信じる人は、暗闇の只中に光を見ます。神さまの光はどこにでも注がれます。つらい状態にあるヨハネに、起こったこと、見たことを巻物に書き記して7つの教会に送るように言われました。ヨハネが見たことは、栄光の主が、七つの星である私たちクリスチャンと七つの金の燭台に象徴された教会を、右の手に握っておられることです。


「神様の右手」は「神様の支配と権威」を表すことばとして旧約聖書の詩編などで用いられています。イエス様の右の手に私たちが握りしめられていると言うのは、神様の支配と権威の中で私たちは守られ、そして導かれていることを表しています。私たちは、イエス様の右の手にしっかり握られているのです。


続いて、「七つの星と七つの金の燭台」から、「私たちの役割」について学ぶことができます。星も燭台(ロウソク立て)も昼間は役に立ちません。昼は星を見ることが出来ませんし、明るいところでロウソクに火を灯す人もいません。しかし、暗くなると星は輝きを増していきます。ロウソクも昼ではなく暗いところに必要な物です。暗ければ暗いほど、明るい光が必要です。


私たち一人ひとりと教会の役割も同じです。暗闇を照らす光として用いられます。平和で明るい世界では、光の存在は目立たないかも知れません。しかし、闇が来るとイエス様によって、教会が暗闇の中で輝き出すのです。絶望で覆われていたとしても、イエス様を信じる人は、ヨハネのように命と希望の光は消えません。なぜなら、主の右の手は、私たちを離さないからです。


「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネによる福音書16章33節


投稿者 : church 投稿日時: 2014-02-02 07:06:53 (1199 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書20章31〜34節

群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

宣教題 「何をしてほしいのか」   牧師 新保雅雄

道ばたに座っていた二人の盲人が、突然叫び声を挙げました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください!」二人の盲人は、今、目の前を主イエスが通りかかろうとしているのを知った。


この時を逃してはならない、絶対に主イエスに会いたい、弟子たちが制止しようが、「なんとしてでも主イエスにお会いしたい」必死に神を求める思いがわき上がり、それが叫び声となったのです。


主イエスは立ち止まり、彼らに言われた。「何をしてほしいのか」彼らは叫んだ「主よ、目を開けていただきたいのです!」二人は金品を欲したのではない。神でなければ出来ないことを求めました。


彼らは、目が見えないことによって、どんなに苦労を重ねてきたことでしょうか。目が見えない為に、毎日道ばたに座って、通りすがりの人に物乞いをして、生きて行かなければならなかった。人からの憐れみは今日を生きる生活費です。しかし神の憐れみは、御国へ続く生きる命、明日への希望です。


主イエスは、彼らを深く憐れみました。そして二人の目に触れられた。すると二人は、目が見えるようになりました。主イエスが、二人の病、重荷を代わりに負ってくださったのです。


主イエスは、いつも私たちの心の扉をたたいておられます。しかし気がつかないのです。私たちはあまりにも、この世のことに、とらわれてしまっているからです。教会で心落ち着かせて、神の御声を聞いて見て下さい。兄姉に平安がありますように、お祈り致します。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-01-26 07:17:18 (1109 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書8章1〜11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


 宣教題 「わたしもあなたを罪に定めない」      北村 紀一

 イエス様は、あなたの罪を赦すために十字架に架かられました。私たちの過去も現在もこれからも起こすであろう罪をすべて負ってくださったのです。そのことによって、わたしたちは、神様に赦されているのです。感謝しても、しきれないほどの恵みです。


 罪を犯して幸せな人は一人もいません。罪を犯すとき、一番傷ついているのは自分自身であり、さらに周りの人をも巻き込んで苦しみが増すわけです。姦通とは、夫婦の関係を裏切り、信頼関係を裏切ることです。これは幸せでしょうか。そのように罪は自分自身の心も、相手の心も深く傷つけてしまいます。ところが罪のない人は一人もいません。それで、イエス様に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われたとき、自分はその女性となんら変わらない罪人であることに気付かされます。


「幸せ」とは、神様に信頼して生きること。神様の愛を知り、神様を愛し、自分を愛し、人を愛して、共に生きることです。「幸せ」という目的に向かうことが一番幸せな生き方です。それを忘れると、「ゆるすか、ゆるさないか」だけに焦点があたり、「幸せ」という目的が見えなくなります。神様と人との関係を壊すこと、それが罪なのです。だから私たちは、「幸せ」という目的に向かうための「ゆるし」が必要です。イエス様は、神様と人との関係を修復するために十字架を背負い、あなたの罪は赦されている、と教えてくださったのです。


「ゆるす」ということは、あなたと一緒にいるということ。神様はわたしたちと一緒にいるために、わたしたちを「ゆるす」のです。インマヌエルとは、神様が一緒にいてくださるということです。人を裁くとは、切り捨てること。石を投げることは、あなたにいなくなってほしいと切り捨てることです。「裁き」は関係を切り捨てるけど、「赦し」は関係を繋ぎます。神様はわたしたちと共にいてくださる。イエス様の十字架によって、あなたの罪は赦されている。ゆえに「わたしもあなたを罪に定めない」とイエス様は言われるのです。


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