本日の聖書 マタイによる福音書21章25,26節
ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
宣教題 「主イエスとの出会い」 牧師 新保雅雄
主イエスは彼らの問いに答える前に、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と
祭司長・長老たちに問われた。彼らは「神様からの権威によってヨハネはバプテスマを授けていた」と答えれば、なぜあなたがたは、信じなかったのかと非難される。
逆に、「人からのものだ」と答えれば、群衆はヨハネを神から遣わされた預言者だと思っているから、群衆が恐ろしい。彼らはどう答えるべきか考えた。実に祭司長・長老という権威は、その程度のことなのです。そこで彼らは、「分からない」と答えました。
この世の権威にしがみつき、見栄や体裁を気にして、主イエス、すなわち神との出会いに至らなかった。神のことを知識として一番知っている権威ある者が、実は神から遠かったのである。
「ヨハネの洗礼は天からの権威ではない、人からのものだ」と思っているなら、群衆がどうかではなく、そう言えばよいのです。そこから主イエスとの本音の出会いが始まるのです。
悪霊に取りつかれた息子を主イエスに助けていただくために、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」マルコ9:24と叫んだ父親のように。苦しいときは「苦しい、助けてください」と心から叫ぶのです。信じられない時は、「信じられるようにして下さい」と祈るのです。
主イエスは心からの祈りを、必ず聞かれます。時に神への知識は神から遠ざける。「知恵者は、その知恵によって滅びるのです」自分を誇るのではなく誇るべきは「神お一人ひとりである」
本日の聖書 マルコによる福音書10章17〜27節
「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」(23−27節)
宣教題 『天国を受継ぐには』 北村 紀一
イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。(17)
この問いに、イエス様は、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(18−19)
すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。(20)イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 (21)
その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(22)
この人は、天国に入るには、どんな善いことをすればいいのか。ということを真剣に質問したのです。しかし、イエス様は、この人の的外れな視点を神さまに向けるように促しました。そして十戒を示しましたが、この人は、子供のときからすべて守ってきたと思い込んでいたのです。そこでイエスさまは、慈しみながら彼に欠けているものを示しました。
この人は自分の力で天国に入れると思っていたけど、イエス様にふれて、罪深い自分の姿、さらに自分にとって一番手放したくないものが、何であるのかまでハッキリ示されてしまったのです。しかし、そんな自分の姿を受けとめることができませんでした。このような隔たりが天国との間にあるのです。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言われるように、自分の力で天国に入ることは不可能です。この隔たりに橋を架けるように罪深い私たちのためにイエス様は十字架にかかってくだったのです。
この十字架の恵みによって、私たちは天国に招かれているのです。
本日の聖書 マルコによる福音書10章13〜16節
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。:はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」:そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
宣教題 「子供たちを抱き上げて」 北村紀一
もし皆さんが、ものすごく忙しくて、これ以上手に負えないな〜と思っている時に、さらに追い打ちをかけるように人が来たら、どうするでしょうか。今忙しいから、あとで来てね。と追い返すでしょうか。
弟子たちは、イエス様にふれてほしくて子供を連れてきた人を、叱って追い返そうとしました。しかも、当たり前のように正当化していました。その弟子たちに憤って、イエスさまは聖書が語る真理を伝えました。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(14節)
何もできない、わからない、親に信頼して委ねるしかないそんな子どもたちです。しかし「神の国は、このような者たちのものである。」
つまり、保護者がいなければ何もできない存在こそが、神の国入るのに相応しいと語るのです。
このことを通して、弟子たちも自分もまた幼子と変わりない者であることに気付かされたことでしょう。また、同様に人の子に共通している恵みは、「成長」することです。子供は、見たり聞いたりいろいろとやってみて、泣いたり、笑ったり、考えたりさせられて、学びながら成長するのです。
私たちは、自分が神の国に相応しいから教会に招かれているわけではありません。むしろ、相応しくないにもかかわらず、招かれているのです。そして私たちは神さまからみれば、いくつになっても子どもであるように、成長し続けていくことができるのです。
イエスさまが憤って弟子たちを叱ったのは、主のところに連れて来られた小さな人を遮ろうとしたからです。これは神の国を遮ることと同じです。私たちも、自分の都合や偏見を超えて主のみこころのままに成長させていただけますように祈り求めていきましょう。
本日の聖書 マタイによる福音書21章21〜22節
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
宣教題 「疑わない信仰」 牧師 新保雅雄
主イエスは言われた。「信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」
「信仰」とは、父なる神に対しての信仰です。そして神の一人子、キリスト・イエスを信頼する信仰です。「動かないように見える山、しかし主イエスなら動かしてくださる」と信じる、主イエスを信頼する、ということです。 私たちが念じて動かすのではありません。「主イエスが動かしてくださる」と、信じることなのです。
自分の思うとおりになる、ということとは全く違います。私達は癒しや、山が動くことをお願いして主に祈ります。しかしその祈りを受け取って、どうなさるのかは主イエスがなされることです。
私たちの思いを超えて、主が最善をなしてくださることを信じるのです。時には私たちが願ったのとは違う結果になるかもしれない。しかしそれは、主が最善のために、そのようにされたのです。
私たちが主イエスを通して祈る。しかしそれが叶わないなら、それは私には必要のないことなのかもしれません。
それが「疑わない信仰」です。弟子たちは、主イエスが十字架にかかるということを信じたくなかった。人の思いから見ると、それは最悪の事であり、受け入れられないことなのです。
しかしその十字架こそが、弟子たちを、そして私たちを救う最も尊い神のご計画なのです。主が最善をなしてくださることを信じ、主を信頼して祈る。それが信仰です。
本日の聖書 マルコによる福音書6章14〜29節
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。(マルコ6:14〜18)
宣教題 「イエスという名を聞くたびに」 北村 紀一
ヘロデ王は、自分の兄弟フィリポの妻であるヘロディヤと結婚したのですが、その罪を面と向かって指摘されたので、ヨハネを捕えたのです。一方でそのヨハネの話に「当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」のも事実です。
葛藤するヘロデでありましたが、自分の誕生日に踊りを披露して、みんなを喜ばせたヘロディヤの娘に対して、何でも好きなものを上げようと大言壮語した結果、驚いたことに「バプテスマのヨハネの首」を要求されました。ヘロデは「非常に心を痛めた」のですが、人々の前で誓ってしまったので、この要求を退けることはできなかったのです。こうしてヘロデは自分の立場を守るために、自分の名誉や評判を守るために、ヨハネを殺してしまったのです。そしてイエス様のことを聞くたびに、ヨハネが生き返ったと思うのでした。
しかし、このヘロデの姿を見る時、まさか自分の姿だとは思わないかもしれませんが、実にこれは私たちの姿でもあります。私たちは神様の言葉を喜んで聞く。聖書を喜んで読む。聖なる言葉であると認めている。しかし神様の御言葉を聞きながらも、一番指摘されたくない人に指摘されたり、難しい判断の選択が迫られる時、私たちはヘロデのように自分の立場や、しがらみに縛られて間違った選択をしてしまうことがあるのではないでしょうか。
そのように私たちの心の中では、神様の御言葉に聴く耳を故意に閉じてしまうことがあるのです。だから私たちは決してヘロデを責めることはできません。このように罪深い私たちを救うために、イエス様は来られて、身代わりに十字架に架かられたのです。イエス様だけが、この暗闇の世界を照らす光であり、私たちの行くべき道を示される御方です。御言葉と向き合う時には、痛みを伴うことがあります。しかし御言葉は私たちの罪を示すと同時に、私たちに福音を語るのです。この神様の恵みこそ、私たちを成長させてくださるのです。