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投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-08 08:02:09 (920 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書24章36.42節

  その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

宣教題「それでもあなたを愛する」 牧師 新保雅雄

  いつ終わりが来るのか、いつ主イエスが再臨されるか分からない。「だから目を覚ましていなさい」42節と言われるのです。いつお迎えが来てもいいように、目を覚ましていなさいと言われる。

  では「目を覚ましている」とは、どういうことでしょうか?

  43節、家の主人は泥棒がいつ来るのか知っていたら、みすみす家に入らせないだろう。45節、悪いしもべは、主人はまだ帰ってこないと思って、仲間を殴り、飲み食いして大騒ぎをしていた。ところが主人は思いがけないときに帰ってきて、その悪い僕を罰する。だから目を覚ましていなさいと言われる。

  そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも立派な行いをしている」ということになるのでしょうか?

  主イエスは、ゲツセマネの園で、弟子たちに言われました。「わたしが向こうへいっている間、ここに座っていなさい」(マタイ26:36)。そうして少し離れた場所に行って、主イエスは神さまに祈りました。そして弟子たちのところに戻ってみると、弟子たちはみな眠っていました。そして3度同じことがあり、主イエスは言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。」まさに時が来たのです。そして弟子たちは神の裁きを受けたのでしょうか?

  決してそうではない。弟子たちは裁きを受けませんでした。では誰が裁きを受けたのでしょうか? それは主イエス御自身でした。主イエスは、私たちの肉の弱さをご存知です。

  主イエスは十字架で死んで三日目に復活されたとき、見捨てて逃げた弟子たちを赦し、再び招かれたのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-25 07:24:57 (928 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書2章9〜11節

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

宣教題「あなたを導く星」     牧師 新保雅雄

メリークリスマス!

クリスマス、おめでとうございます。全世界でキリストのお祝いがされています。私たちもその中にいること感謝です。

イエス様がお生まれになぅた所は、家畜小屋でした。そこは門も鍵もありません。誰でも、入ることのできる場所でした。そんなところにイエス様は、キリストとしてお生まれになったのです。

救い主、イエス・キリストが、誰でも会うことのできる家畜小屋でお生まれになったのに、実際に会いに来たのは、東の国からやって来た博士たちと、野宿をしていた羊飼いたちだけでした。キリストに会うことができた人と、会えなかった人がいたのです。

聖霊によって、主イエスが今も生きておられるならば、その主イエスにお会いするには、どうしたらいいのでしょうか。つまり救われるにはどうしたらよいのでしょうか。

その一つは「求める」ということです。この学者たちを見てください。彼らは、ユダヤ人から見たら異邦人です。ですから、聖書のこともよく知らないし、本当の神さまが、どんな方なのかもよく知りませんでした。少なくともユダヤ人よりは知らなかったのです。

しかし、彼らには、神さまへの救いを求める熱い心がありました。本当の神さま、そして自分たちが救われることを真剣に求めていました。その証は荒野を何百キロも旅することがてきたことです。

この時の博士たちのように、キリストに会うことを心から願うならば、キリストは私たちを導き共にいてくださるのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-18 07:31:53 (944 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書1章18〜21節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

宣教題「恐れず受け入れる」    牧師 新保雅雄

「神様が共にいて下さる」ということは、天使がヨセフに告げたように、恐れなくて良いということなのです。目の前に大きな困難があっても、恐れず一歩を踏み出しなさいということです。

この時ヨセフは恐れていました。マリアとヨセフは、婚約の身であり、子供を身ごもるということが、当時の社会では大きな罪を背負っていくことになります。ヨセフは迷いました。自分はマリアと関係していないことを表ざたにして、マリアを石打ちの刑にするのか。それとも表ざたにしないで密かに離縁してしまうか。

身ごもるマリアを受け入れて、本当にマリアとそのお腹の子を愛していけるのだろうか。それは無理なことです。ヨセフは世間の目を恐れていたのです。やはり、このまま静かに離縁しょう。

そう思いめぐらしているとき「ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」その恐れの中でヨセフは、天使からお告げを聞いたのです。そしてこれからの困難であろう人生を選んでいくのです。

私たちは、明日に対して、あまり明るい見通しを持っていないかもしれません。しかし天使は告げるのです。「神は我らと共におられる」私共の明日は、神様の御手の中にあり、今日も明日も、私たちと共にいて下さる。だから「恐れることはない」のです。

 あなたは一人ではないのだから、クリスマス感謝、感謝・・・


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-11 08:03:55 (964 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章6〜11節

ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。

宣教題「神を恐れない者は、人を恐れる」 牧師 新保雅雄

洗礼者ヨハネは、神の言葉を語る人でした。ユダヤ人から神の預言者として認められていました。キリストの道を整える人と言われ、主イエスにも洗礼を授けました。そのヨハネが殺されたのです。

なぜヨハネは殺されたのか。それはユダヤの領主であるヘロデ王を批判したからです。「あの女と結婚することは律法でゆるされていない」14:4。「あの女」とは、ヘロデ王の兄弟であるフィリポの妻のことです。あのサロメの母です。

ヘロデ王には、妻がいましたが、自分の兄弟であるフィリポの妻ヘロディアを好きになり、妻と離婚し、自身の兄弟を殺し、その妻ヘロディアを自分の妻にしてしまったのです。これはユダヤ人の律法では、姦淫の罪にあたるもので、石打の死刑に値するのです。ヨハネは、相手がヘロデ王であろうとも、罪の悔い改めを迫りました。

ヘロデ王は、怒りヨハネを殺そうとして捕らえました。しかし彼を殺さないで、牢屋に入れたままにしておきました。それは、「民衆を恐れた」からです。民衆から預言者として、尊敬されていたので、ヨハネを殺したら暴動になり、自身の地位が揺らぎかねない。

神の言葉を語る預言者、洗礼者ヨハネを殺すことも恐れないヘロデ王、しかい彼は「民衆を恐れた」のです。神を恐れない者が、人を恐れるのです。本当のこと真実を問われると怒るものです。それが神を信じない人の姿です。神を信じない人は、自分の罪を指摘されると、素直に反省出来ない、そして逆上し逆恨みをするのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-04 08:02:47 (974 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章54〜58節

「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」

宣教題「こんな私を助けて下さい」   牧師 新保雅雄

「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」主イエスの奇跡と私達の信仰には関わりがある。私たちが主イエスを信じるかどうかによって、違ってくるというのです。

「信じる」という私達側からの行為と、「奇跡」という主イエスの御業が関係あると言われる。私たちの信仰によって、主イエスの御業が行われ、癒しや救いがある。これはたいへん重大なことです。

私たちは、神を信じていると思っているが、ささいなことで腹が立ち、友人を憎んでしまう。収入が少なければ不安になりイライラする。そもそも私たちの信仰は、あやふやで足りないのです。どんなにがんばってみても、「信じ切る」ということは、自分の力ではできないのです。では、救いはない絶望しかないのでしょうか?

私たちは、何も満足にできない。信仰すら無い。しかしただ一つ、神様に対してできることがあります。「信仰のない私を助けて下さい」と言って、そのままの自分を主イエスに投げ出し、すがりつくことです。あの病気の息子の救いを必死に主イエスに願う父親のように(マルコ9:14〜)そんな私たちでも受け入れてくださるのです。

何故なら主イエスはご自身の命をかけて、あなたを救いだし、愛してくださったからです。「信仰」とは、主イエスに弱い自分を正直に告白し願うことなのです。しかしナザレの人々は、先入観が邪魔をして、主イエスに願うことができなかったのです。


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