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投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-29 00:35:07 (1029 ヒット)

本日の聖書  創世記4章 1〜18節(中心13〜15節)

「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』:主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」


宣教題 「さすらう者」                                北村 紀一


兄のカインは「土を耕す者」になり、弟のアベルは「羊を飼う者」になりました。二人は神さまに「献げ物」をささげて礼拝しました。カインは畑で取れた最初の作物を、アベルは最初に生まれた子羊の中でいちばん太った物を献げて礼拝しました。けれども、神さまはアベルの献げ物は喜んで受け取ってくださったのですけども、カインの献げ物は受け取ってくれませんでした。


もし皆さんがカインの立場だったら、どう思うでしょうか?


私たちは、“自分を認めてほしい”という気持を持っています。カインはこの時、「激しく怒って顔を伏せた」(5節)。顔を伏せたということは、神さまの方を見ない。神さまの顔なんて見たくないということです。それくいらい激しく怒っているのです。


どうして神さまは、アベルの献げ物を受け取り、カインの献げ物は喜んで受け取ってくれなかったのでしょうか?


神さまはカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないのなら罪は戸口で待ち伏せており」(7節)と語りかけました。それはカインに自分の心に気づいて、悔い改めてほしかったからでしょう。神さまは罰したいのではなく、よくないことであると気付いたならば、カインにも、そして私たちにも悔い改めてほしいと、いつも願っておられるのです。


しかしカインはアベルの方が自分よりも神さまに大事にされている。そういう「ねたみ」の心でいっぱいになって、弟アベルを野原で殺してしまったのです。このように「ねたみ」の気持ちは「恐ろしい力」になります。しかも、私は「知りません」(9節)と罪を隠そうとしました。


このように私たちは罪を犯した時、神様に顔を向けることができなくなります。しかし、ここで学ぶことは、そういった時こそ神さまに向かって、悔い改めることが大事だと言うことです。怖くても向き合う。それは、間違いは間違いだと認める勇気を得ることになりますし、ゆがんだ心も正されていくようになります。心のゆがみが正されると人の喜びを一緒に喜べる心を取り戻すことができるようになるのです。


そういうわけで、常に神様に向き合っていく。神さまに心を向けていく。それが本当に大事なことになります。私たちは信仰によって真実に向き合う生き方を目指し続けるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-22 07:25:16 (1090 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章43、45節

「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」


宣教題 「物質からの解放、救い」   牧師 新保雅雄


主イエスの問いかけに、ファリサイ派の人々は、メシア(キリスト)とは「ダビデの子」であると答えました。ダビデの子孫からメシアである王が誕生するというのです。


たしかに、ダビデの子孫から神の救いが実現されるというのは、旧約聖書の約束です。しかし彼らは、「救い」とは、この地上での生活の救いであると考えていました。


つまり、今はローマ帝国の支配を受けているが、やがてメシアが現れて、独立のために戦争を起こして、ふたたびダビデの時代のような強大なイスラエル王国となり、栄華を極めていくのであるということが、救いであると考えていたのです。


政治が変われば、総理大臣が変われば、王様が変われば、社会が変われば、幸福になれる。本当に、それによって人は幸福になれるのでしょうか。社会の変化、そのことによって、「救い」ということが起きるのでしょうか。


世界には今日の食事さえできない人がたくさんいます。しかし日本は、不景気であるとはいえ、欲しいものは24時間、手に入ります。飢えや渇きで死んでいく人はいません。ものが豊かになり、医療も進歩して世界一の長寿国になりました。物質的に満たされる、だから「救われている」ということが言えるのでしょうか?


いくらものが豊かになっても、人間の不平や不満は無くなることがありません。むしろストレスを抱え精神を病む人、自殺する人が増加しています。主イエスは言われます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。」 あなたの救いとは何でしょうか?


 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-15 07:23:14 (1231 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章37〜39節

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』


宣教題  「神と隣人を愛しなさい」   牧師 新保雅雄

ある律法の専門家がイエスさまに尋ねました。「先生、律法の中で、どのおきてが最も重要でしょうか」。


主イエスは言われました。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


このように主イエスは、一つではなく二つのこと、「神である主を愛すること」と「隣人を愛すること」であると言われたのです。


なぜ二つのことなのでしょうか。それは、この二つのことが切っても切り離せないことだからです。「主を愛する」ことは「隣人を愛すること」であり、「隣人を愛する」ことは「主を愛すること」なのです。


ヨハネの第一の手紙4:20、21「神を愛している、と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」


隣人とは、愛する妻や夫、親兄弟、子供、そして親友だけではありません。私たちの隣には、意地悪な人、憎む人、許せない人、仲の悪い人もいるのです。

なぜなら、そこに神がおられるからです。つまり私たちができないこと、神の愛がなければ、隣人を愛することができないのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-08 00:53:42 (1251 ヒット)

本日の聖書  ガラテヤの信徒への手紙5章22節

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」


宣教題 『霊の結ぶ実は愛』   牧師 新保雅雄


ペンテコステ。過ぎ越しの祭りから数えて50日目、つまりイエスが十字架につけられ死んで復活してから50日目、天から聖霊が注がれた。その日弟子たちに不思議なことが起こる。弟子達が突然外国の国々の言葉を語りだす。それまでイエスなどは知らないと恐れ隠れていた弟子たちが、イエスの証人となって復活の証言を始めたのである。これがペンテコステに起こった出来事である。(使2章)


聖霊の働きの一つには、イエス・キリストの証人として復活の証言者になる事が出来るということがある。証人になる為には、神とは何かを知らなければなれない。しかし彼らが自身の力で神を知ったのではなく、神側が彼らに神を信じるようにさせてくれたのである。つまり「聖霊によって神を知る」のです。わたし達の善行が神を知ったのではなく聖霊によるのです。


そしてここに集まって聞いていた人達は、自分の国の言葉で福音を聞いたのです。つまり神とは何かを、その人自身に理解できる言葉で語らせるということが、聖霊のもう一つの働きです。何かわけの分からない不思議なことを起こすことが聖霊の働きではなく、相手に分かる言葉で語りイエス・キリストを信じるように導くこと、これこそが聖霊の働きです。


そして聖霊によって神を語る目的は、「霊の結ぶ実は愛である」。と言われています。神を語ることは、愛の種まきである。神の目的なのです。神がいつも私たちと共にいますようにとは、聖霊がいつも私たちを後押ししてくださり、愛の種まきを共に働かれているということである。


聖霊が働きかけてくださるそのままに私たちも神を信じ、神が語らせるそのままに神を語り、そして何よりも「神が愛されたように愛するように」なりたいと願う。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-01 06:36:55 (1185 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章31〜32節

死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」


宣教題  「生きている者の神」    牧師 新保雅雄


「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」


主イエスは、死後の世界は遠い世界に思えるが、信仰者には死後も神の力が働き、神の中に神と共に生きていると言われています。


神を信じた者は、死の世界から復活して、神の世界の中に生きるのです。土の中、神棚、祭壇の奥にではなく、今この地上の神の世界のうちに生きているというのです。これが主イエスの言われた死者の「復活」であり、「永遠の命」ということです。


しかし神を信じない者は、死んだら終わりであり、そこには神の力は及ばず、永遠に神不在の暗黒の中にある。つまり神の力が届かない遠い所、それが死後の世界・虚無の世界ということなのです。


日本では「人は死んで仏になる」と思われています。仏は死者の世界では、神のような存在です。あの世でお世話になるのが仏様


「死んだらどうなるか」。サドカイ派の人々は、「復活はない」と考えていました。人は土くれから造られたから、土くれに帰っていく。死んだら終わりだ、それが人間だ。非常に絶望的な考え方です。


「神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神なのだ」という主イエスの御言葉は、かえって現実的であり現世的であるが、将来に向かって生きることに勇気が出てくる。神と共にある人生は、未来永劫へと向かっていく。しかし神なき世界は、生きるのではなく、死へのカウントダウンである。




 


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