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投稿者 : church 投稿日時: 2014-09-07 05:33:33 (1292 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書24章36、42節  

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

宣教題 「目を覚ましていなさい」    牧師 新保雅雄

いつ終わりが来るのか、いつ主イエスが再臨されるか分からない。「だから目を覚ましていなさい」42節と言われるのです。いつお迎えが来てもいいように、目を覚ましていなさいと言われる。

では「目を覚ましている」とは、どういうことでしょうか?

43節、家の主人が泥棒がいつ来るのか知っていたら、みすみす家に入らせないだろう。45節、悪いしもべは、主人はまだ帰ってこないと思って、飲み食いして大騒ぎをしていた。ところが主人は思いがけないときに帰ってきて、その悪い僕を罰する。だから「目を覚ましていなさい」と言われる。

そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも信仰者として立派な行いをしている。」ということになるのでしょうか?

その答えは、主イエスは、ゲツセマネの園で、弟子たちに言われた中にあります。「わたしが向こうへいっている間、ここに座っていなさい」(マタイ26:36)。そうして少し離れた場所に行って、主イエスは神さまに祈りました。そして弟子たちのところに戻ってみると、弟子たちはみな眠っていました。そんなことが3度あり、主イエスは言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。」まさにその時が来たのです。しかし弟子たちは眠ってしまう。弟子たちは神の裁きを受けたのでしょうか?

決してそうではない。弟子たちは裁きを受けませんでした。では誰が裁きを受けたのでしょうか? それは主イエス御自身でした。ここにキリストの愛があります。主イエスは、私たちの肉の弱さをご存知です。主イエスは十字架で死んで三日目に復活されたとき、見捨てて逃げた弟子たちを赦し、再び招かれたのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-08-31 06:41:06 (1077 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書24章35節 

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

宣教題  「新しい天と地」      牧師 新保雅雄

主イエスは言われる「天地は滅びる」。これは地球や太陽、宇宙が、その物質的な寿命を迎えて何億年か後に滅びるということではありません。ここでは、天地を創造された神が、この天地を滅ぼされるという、神の行為、御計画を言われています。

「天」というのは、「天の国」父なる神のおられるところです。

「地」というのは、私たちが生きている「この世」のことです。

主イエスが「天地は滅びる」といわれた時、それは、「天の国もこの世も滅びる」ということです。しかし、「天地が滅びる」ということは、何かすべてが消滅してしまうことではありません。むしろ希望のときです。

私たちの罪が、神と私たちとを隔(へだ)てていました。その神と私たちを隔てた罪という壁が、主イエスの十字架によって取り除かれました。いままで行きたくても行けない神の国と、この世がつながるための壁が十字架によって崩壊するのです。

そのことがまさに今、完成する時であると主イエスは言われます。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

(ヨハネ黙示録21:12,4)

人間の罪にまみれた世界と、父なる神の天の国とに分かれているのではない。まさに神が人と共に住む新しい世界パラダイスである。

「我ら神と共にあり。インマネール。」


投稿者 : church 投稿日時: 2014-08-24 07:49:33 (1010 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書24章29〜30節  

「その苦難の日々の後、たちまち 太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。

そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。

宣教題 「世に心を奪われてはいけない」  牧師 新保雅雄

「世の終わり」、「人生の終わり」、私たちは、あまり考えたくない言葉です。いつか必ず訪れる。しかし何か恐ろしく思え考えたくない。今朝、前回に続いて主イエスは、この終末を語られています。

マタイ福音書は、「読者は悟れ」と言われるように、終末の重要性を強く言われています。旧約の時代、ダニエルの預言通り起こったこと、更にこれから起こるエルサレムの滅亡を見て、「世の終わり」についてよく考え、そして備えていなさい。ともいわれています。

創世記19章には、ソドムとゴモラの町の滅亡について書かれています。神は、罪の町ソドムを滅ぼす前に、そこに住んでいたアブラハムの甥っ子であるロトのことを心に留め、御使いをロトに遣わし、家族を連れてソドムの町から逃げていくように命じました。

今朝、主イエスは私たちにもロトと同じように、神のない世界から「命がけで逃れなさい」と言われるのです。この世に執着して、この世と共に滅びてしまってはいけない。私たちを招いておられる神のもとに逃れるのです。それは神と共にある生活を送ることです。

「そのとき、人の子の徴が天に現れる。天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、天使たちを遣わす。天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」キリストの再臨です。

神を信じない人にとって世の終わり、人生の終わりは、不安と恐れでしかない。しかし、神を信じる者にとっては、キリスト・イエスが御国へ導くために迎えに来て下さる。栄光の時、喜びの時となるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-08-17 04:35:55 (1040 ヒット)

本日の聖書 創世記26章1〜33(中心19〜22)

19:イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、20:ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。21:イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。22:イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。

宣教題 「井戸掘りイサクここで生きる」 北村紀一

このゲラルには父アブラハムが掘った井戸があり、そこから水を得て、家畜に飲ませ、また畑を耕しました。主の祝福がイサクと共にあったので、収穫は多く、イサクは豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになりました。

すると、その土地の人々は「よそ者」の繁栄を見てイサクを妬みます。イサクが労苦して井戸を掘ると水がわき出ましたが、ゲラルの羊飼いたちは「その水は我々のものだ」と主張してきました。そんなことが何度か続きましたが、イサクは無条件で明け渡し、自分たちは場所を移動します。

この行為だけみると、なんだか弱々しいし、自分の権利を守ろうとしない意志のないような行為に見えます。しかし信仰の目から見れば、イサクの行為こそ「柔和な人」の生き方なのです。柔和とは「神さまに身を委ねる」ことです。

従ってイサクは「力づく」や「権利」で思いを遂げようとはせず、神様が「この地をあなたとあなたの子孫に与える」と言われたその約束を信じ、周りの人たちと争いなく生活出来る「広い場所」が必ず与えられるはずだと「強い意志」をもっていました。温和で大人しいのではなく、強い意志があったのです。

与えられた使命や目標に向かうには、「強い意志」が必要です。どのような時も主に心を向けようとする「意志」が必要なのです。イサクは「主に委ねる」以外に道はないという信仰が主に祝福されて、イスラエルの民の繁栄のために「広い場所」を与えられたのです。つまり、信仰によって自分の「居場所」が与えられたのです。誰でも入ることのできるこの「広い場所」は主が共におられるので、たとえ艱難辛苦の中にあっても、そのままで「平安」が共にある「場所」なのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-08-10 07:43:35 (1186 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書24章11〜14節  

偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。

宣教題 「世の終わりまで共にいる」   牧師 新保雅雄

弟子たちは主イエスに尋ねました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 エルサレム神殿は、約40年後の紀元70年ころに、ローマ帝国によって崩壊します。

ここで主イエスが言われる「終わり」というのは、地球が終わる、宇宙が終わるという物質的なことの破壊というよりも、神の裁きとしてのこの世の終わり、ということを言われていわれています。その引き合いとしてエルサレム神殿を出されているのです。

地球の生命や人類が自然に滅びるというよりももっと前に、人間の罪に対する神の裁きによって終わりが来るということです。

そのときに何が起きるか、主イエスは言われます「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。

この「耐え忍ぶ」という意味は、「歯を食いしばり、がんばって努力して我慢して忍耐しなさい」ということではありません。主イエスは言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:20)

神は、何もかも滅ぼすために世の終わりを来させるのではない。主と共に生きる者たちを、神の国へと招くためなのです。愛が冷えた世界でも、主イエスの愛に支えられて生きることができるのです。その忍耐の行き着く先は、神の御国です。

 


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