本日の聖書 マタイによる福音書18章6〜7節
しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
宣教題「暖かく迎え入れる」 牧師 新保雅雄
主は言われる。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである。」
「大きな石臼」とは、人の手ではなく馬やロバ、牛に引かせて回すほど重い石の臼のことです。そんなものを首につけられて海に沈められたら、二度と地上に浮き上がってくることはありません。
それほどまでに、「イエスさまを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」ということが、犯してはならない大罪なのです。
では「これらの小さな者の一人」とは誰のことでしょうか。5節までは「子供」と言われていますが、6節からは「これらの小さな者」と言われています。「小さな者」とは、もちろん子供のことですが、単に子供だけのことを言っているのではありません。
4節の「自分を低くして、この子供のようになる人」も指しています。すなわち年齢的には子供ではないけれど、子供のように低くなって神を求めてきた人、神を父のように信頼してきた人も含みます
「つまずく」というのは、石ころなどにつまずいて倒れることです。神を求めてやってきたのに、つまずかせて倒してしまい、先へ行けないことです。つまり教会の門をたたいてくる人を温かく迎え入れるということが何よりも優先され、神の最も望まれることなのです
いかかがでしょうか?私達は先輩のクリスチャンとして、新しい兄弟の見本になっていますか。御国へ続く道の、つまづきの石になっていないでしょうか。よいお手本になりたいものです。
本日の聖書 ヨハネによる福音書20章1節
「天使たちは、墓の外にいるマリアに向かって、「なぜ泣いているのか」と尋ねました。すると、マリアは、こう答えたのです。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
宣教題「死から生へ」 牧師 新保雅雄
イースターは、日曜日の朝早くに始まりました。この日、まだ夜が明け切っていない暗いうちに、マグダラのマリアは、主イエスが葬られた墓へと向かったのです。この墓には、入り口を塞ぐための石が置かれている筈でした。ところが、ある筈の石が、動かされていました。そして、墓の中に主イエスの遺体はありませんでした。
マリアは主イエスを捜しました。何と主イエスは墓の外で、マリアの後ろに立っていました。しかしマリアは、それが主イエスだとは分かりません。マリアは、既に主イエスは死んでいて、もはや生きてはいないと思い込んでいたからです。それで、マリアは、後ろに立っておられるのが、主イエスだとは分からなかったのです。
そんなマリアに、主イエスは、声をかけられました。 「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 既に、主イエスは死から復活して、マリアの後ろに立っておられます。しかし、マリアは、死の世界の中に、主イエスを捜していたのです。過去の中に、主イエスを捜そうとしているのです。
その時、主イエスが、「マリア」と呼び掛けられました。この時、この声にマリアは、生きておられる主イエスを見つけたのです。
ともすると、私たちは、マリアが墓の方向ばかりを見ていたように、過ぎ去った時にばかり、自分の思いを向けがちになることがあります。特に歳を重ねるにつれ、未来が見えなくなる。
しかし、主イエスは、私たちを、過去から未来、死から生へと招いてくださるのです。人が死で終わることなく、天の国へと続く道を、主イエスと共に歩むようにと、復活の中から、私たちを招いてくださるのです。今日イースターに私たちに声をかけられています。
本日の聖書 マタイによる福音書18章1,4節
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。(イエスは言われた)「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
宣教題「誰が一番偉いのか」 牧師 新保雅雄
この世には、絶えず順位というものがあります。例えば学校では成績による順位がある。会社では売上が競われ順位がつく。そして出世につながる。勝ち組である。弟子たちが主イエスに尋ねました。「だれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」弟子たちは、弟子の中での自分の順位が気になったのでしょう。彼らは世の中の勝ち負けが、天の国でもあると思ったのでしょう。自分の順位は?
誰が偉いのか。この「偉い」という言葉は、人と人を比べたときに使う言葉です。つまり、「偉い」人がいて、「偉くない」人がいる。そして人は自分の位置を知るために他人と比べる。「あの人よりは、自分の方が上だ」そして安心する。世は正に競走社会である。
主イエスの時代、ファリサイ派、サドカイ派という宗教指導者が、偉いとされました。律法を厳格に守る。更に事細かく宗教規則を作り、それを守ってみせる。週に2度断食し、神に献げものをする。貧しい人々への施しも忘れない。「あの先生は、なんと立派な人なんだろう」と世の人から称賛を浴びることになる。
まさにこの世は、人間を順位付けし、高い低いと評価する。善し悪しを問う。そして少しでも自分を高いところに置きたいと競い合う。世での競争に勝利したものは勝ち組として「世から賞賛」される。では落ちこぼれた者は、どうするのか? 自分の弱さを神様に心から祈るだろう。そこに「神からの恵である信仰」が生まれる。
弟子たちも、まさにそういうこの世の価値観、競走にとらわれていたということが分かります。すなわち教会も同じく、誰が偉いとか偉くないとか、そのように人を比べてしまう過ちに、おちいる危険があるということです。主イエスは言われます、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
本日の聖書 マタイによる福音書17章24,27節
一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。 (イエスは言われた)彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
宣教題「教会の内と外」 牧師 新保雅雄
神殿税を集める人々がペトロに「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と迫りました。神殿税はユダヤ人の義務だからです。
主イエスは、ペトロに「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」と聞きました。
つまり世の王は、自分の息子から税金は取らない。税金は民から取り立てるのです。だとしたら同じように天の父なる神も、神殿税を御自身の御子からは取らないだろう。だから神殿税は収めない。しかし、彼らをつまずかせないために、神殿税を納めることにしょう。
わたし達は、教会、信仰生活に熱心になりすぎるあまり、世の事をおろそかにする事が、あるのではないだろうか。教会生活だけではなく、世のことにも熱心でなければならない。
教会の信仰生活と世の社会生活を、別ものと分けて考えてはならない、と言われているのです。肉と霊と二つの顔を都合により使い分けるクリスチャンを見るときがある。残念である。これが人をつまずかせて、宗教離れを起こさせる原因の一つである。
主イエスはペトロに命じた。ガリラヤ湖で釣りをしなさい、釣れた魚の口の中に銀貨が見つかる。それを神殿税として納めなさい。
主イエスは神の御子であるにもかかわらず、世の人と同じように神殿税を納めた。なぜならわたし達をつまずかせない為である。
本日の聖書 マタイによる福音書17章20節
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
宣教題「からし種一粒のような信仰でも」 牧師 新保雅雄
主イエスは、言われた。「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
わたしは以前、「信仰が強くなれば、何でも自分の願い通りになる」と思った。しかし後になって間違いに気づいた。
「信仰」とは、「主イエスは、わたしの主である」と認めることです。「わたしが主」ではないのです。「イエスさまが主」なのです。
山を動かすのは、主イエス、神様にしかできないことだからです。
「信仰」とは、「信頼」することです。主イエスを信頼するのです。
私たちは、私たちの前に立ちはだかる問題がとても大きいものに見えることがあります。解決困難に見えることがあります。絶対にダメだ、と思われることがあります。「主イエスを信じてるが、何も変わらない。昨日と同じ。」と思われることがあります。
まさに、信仰が「からし種一粒」ように小さく無力に思われることがあります。主イエスを信頼すると言うことが、虚しく意味のないものに思われたりする。信仰とは、まさに空しく、からし種一粒のような、ちっぽけなものであるように思われることがある。
しかしそのからし種一粒のような、風が吹けば何処かへなくなってしまうような、弱く、迷う、無力に思われるような信仰が、主イエスによって山のように大きな問題を動かしていくのです。私の信仰に力があるのではない。主イエスがあなたのからし種のような信仰を山をも動かす力に変えられる。信仰とは信頼から始まる。
