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投稿者 : church 投稿日時: 2016-04-03 07:18:01 (1020 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書7章21節

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

宣教題「御心に生きる」  牧師 新保雅雄

主イエスを救い主として信じ教えを守ったとしても、必ずしも全員が天の国に入ることが出来るのでは無い、「神の御心を行う者だけが天の国に入るのだ。」と主イエスは言われています。

「かの日」(22節)すなわち終わりの日、裁きの時です。主イエスによって一人一人が、天の国に入ることが出来るかどうか、最終的に選別されるのです。

この時、大勢の者が、主イエスに向かって「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」こうして、彼らは、自分たちの信仰生活における実績を持ち出して、天の国へ入る権利を訴えます。

しかし主イエスは、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われるのです。

何故、彼らは、これほどまでに厳しく言われなければ、ならないのでしょうか? それは、彼らが天の父の「御心を行わなかった」からです。いくら実績を積み上げても、神の御心とは、異なることをしていたのです。自分の思いに従って行動していたのです。

残念ながら、クリスチャンとはこうあるべきだ。という、愛よりも出来るか出来ないかを問うクリスチャンが多い。

では天の父の御心とは何でしょうか?それは、「隣人への愛」です。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(7:12)これは、「自分自身のように隣人を愛しなさい」ということです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-27 07:06:44 (1096 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書28章5,6節

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」

宣教題「おはよう!マリア」  牧師 新保雅雄

週の初めの日(日曜日)の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアは、悲しみの中、主イエスが葬られた墓を見に行きました。

主イエスの墓は、この二人にとって十字架で死んでしまった、主イエスとの思い出に、悲しみ、寂しさ、無念さを誘うものでした。

ところが、墓にいた天使は、この場所が悲しみと絶望に満ちた、命の行き止まりの最終地点では無いことを告げたのです。

「あの方は、ここにはおられない」という天使の言葉と共に、主イエスの納められていた墓は、マリアたちにとって、そこから新たな命へ続く、折り返し地点へと変えられたのです。

このマリアたちの経験は、この世に生きる私たちにとって、実に大きな希望を与えてくれます。主イエスが、十字架の死から復活されたことは、この世の命に行き止まりがあり、命が終わる。行き止まりがあるものではなく、天の御国への通過点に過ぎないことを、明らかにしているからです。

もはや、死は、私たちの人生の最終地点ではありません。通過する地点なのです。勿論、私たちは、まずは、そこへ向けて、この世の人生を進めます。でも、そこがゴールではなく、天の御国への通過点であり、それは、主イエスの十字架によって開かれたのです。

新たな歩みへと向かい始めた時に、二人の歩みの先に、立っておられる方が見えました。何と主イエスが、二人のマリアの行く手に、彼女を導くように立っておられたのです。

そして主イエスは、マリアたちに「おはよう」と声を掛けられました。  この朝の挨拶は、復活の命の始まりを告げておられるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-20 15:23:37 (1079 ヒット)

 本日の聖書 ルカによる福音書23章

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」 すると、イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われた。

宣教題「今日あなたとパラダイスにいる」  牧師 新保雅雄

主イエスが処刑場へと引かれていきます。他に二人の犯罪人も同じく処刑場へ引かれて行きます。「ゴルゴダ」と呼ばれている丘に着くと、主イエスの左右に、この二人も十字架に付けられました。

その時、主イエスは言われました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 驚くことに主イエスは、ご自分を十字架に付けた人達を赦して欲しいと神に祈るのです

ここに主イエスの深い愛があります。しかし、このことを理解できない人がいます。主イエスと共に十字架に付けられた犯罪人の一人が言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」そして議員や兵士たちも同じこと言います。

同じく十字架に付けられた、もう一人の犯罪人は、同じく十字架にかけられている犯罪人に言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

自分自身の罪を告白し悔い改め、主イエスが世の罪の身代わりになったと祈るとき、十字架による救いが与えられるのです。

罪を悔い改めた犯罪人は、さらに続けて言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」すると主イエスは、言われた。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」

自分の罪を認めて主イエスに告白するなら、誰にでも主イエスの十字架の救いは与えられます。「今日あなたとパラダイスにいる」


投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-13 07:17:17 (1196 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書7章18節

「良い木が悪い実を結びことはなく、

また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」

宣教題「良い実は良い木から」  牧師 新保雅雄

主イエスは言われます。「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」確かに、茨からぶどうは採れず、あざみからいちじくも採れません。ぶどうは、ぶどうの木から、いちじくは、いちじくの木からしか採れないのです。

このことから明らかなように、例外なく、「良い木が悪い実を結びことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」のです。

植物だけでなく、私たち人も腐り、悪い木になると、そこにできる実は、はっきりと、その木の状態を映し出すのです。木の実は、ぶどうであっても、いちじくであっても、梨やりんごであっても、究極的には、おいしいか、まずいかです。たとえ、形がどんなに素晴らしく美しくても、食べて、渋かったり、苦ったり、腐りかけていては、とても、食べられるものでは、ありません。すぐに、吐き出されてしまうのです。

私たち人という木も、実の姿かたち見栄えではなく、その実が持っている味が問われます。果たして、私たちという木が結ぶ実は、どんな味がするのでしょうか。優しさと配慮、正しさに満ちているでしょうか。悪意と敵意、自己中心に満ちているのでしょうか。

聖書の言葉を慕い求めるならば、尽きない恵みが、そこから溢れ出し、私たちの霊と肉とを養うのです。

確かに、信仰は、心の中で決断するものです。しかし、心の問題で終わる訳ではありません。その実が問われるのです。どう歩んでいるのか、日々の生活が問われるのです。あなたの人生があなたの実の味を現しています。あなたの人生は、いかがでしょうかか。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-06 17:18:46 (1167 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章13節

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」

宣教題「狭い門から入れ」   牧師 新保雅雄

「狭い門から入りなさい」と主イエスは言われます。何故なら、この狭い門こそが、命に通じる門だからです。つまり、主イエスが、ここから入るようにと言われている狭い門は、救いに通じており、この門から入って行くならば、永遠の命、天国、救いに至ることが出来るのです。

「さあ、ここが天の入り口だ。ここから入りなさい」と、主イエスは、私たち、一人一人を、入口から招いておられるのです。

私たちは、広く立派な門の方が、信用出来るように思います。門構えが、堂々としていて、広く高くそびえ立っている方が、その先に幸福があるように思うのです。また、門に通じる道も広々としていた方が、安心なように考えるのです。  さらに、こうした広々とした道を通って、多くの人々が、広い門の中に入って行く様子を見たならば、この門の先にあるものは、幸福に間違いないと判断しがちです。

もし、私たちの目の前の道が二手に分かれており、一方には狭い門、もう一方には広い門がある。しかも、広い門の方には、次々と人が競い合って入って行く様子が見えたなら、ついつい、私たちは、広い門のある道の方に、引き寄せられてしまいそうになるのです。

たとえ、門の先に何があるのか分からなくとも、皆と一緒ならば安心だと考えて、広い門の方へと流れて行こうとするのです。自分で道を選ぶよりも、大勢の人に付いて行く方が、間違いが無いと思うからです。自分で判断し、決断するよりも、人に判断を任せた方が、楽だと思うのです。「皆がこうしているのだから、自分もそうしよう」

しかし、主イエスは、言われます。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」広い門はたくさんの荷物を持っても入れそうです。しかし狭い門は、荷物や自身についた贅肉さえも捨て去らなければ、突っかかって入れないでしょう。


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