本日の聖書 ヨハネによる福音書15章5節
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
宣教題 「神の木につながる」 牧師 新保雅雄
枝が木につながっているから、その枝は葉を茂らせ芽を出し、生きている証しとしての実をつける。さらにその実は、さらなる命を宿して、次の命につなげていく。枝には大きな力と使命がある
しかし枝が木から離れてしまい。木につながっていない枝になってしまうと、芽を出し葉をつけるという、大きな力や使命は、何もできず枯れてしまい、朽ちていずれ土に帰ってしまう。
芽を出す事も、花や実りを付けることも出来ない。その枝は結局、それ自身だけでは生きていけない。木には命への力がある。
枝と同様に、本来私たちも神につながっていて、大きな能力と使命が与えられている。それを発揮できるのは、命の源である神と信仰で結ばれることで、初めて可能になる。
木につながっていない、自分の力だけに頼るとき、必ず死という最後を迎え終わっていく。神につながっていない人間も、結局肉の思いによって堕落し滅びに向かう、枯れた枝になる。「宗教や神に頼るのは弱い者のすること」よく聞く言葉です。確かにそのとおりだと思う。神を信じる(つながる)ことは、枝としての自らの弱さと限界を、勇気をもって謙虚に認めることです。
強がりを言って弱さを隠すことは、決して強さではない。その弱さを正直に認めることが、本当の強さなのです。
人は自分だけで生きているのではない。沢山の人々に支えられて生きている。神につながることで、あなたは決して一人ではない、そのことを知ることができる。青々と茂った豊かな人生になる。
本日の聖書 ヨハネによる福音書12章3〜6節
マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
宣教題 「ユダの能力を狙う悪魔」 牧師 新保雅雄
今朝は「ユダの裏切り」から学びます。主イエスは、十二使徒の一人としてユダを選んだ。彼を愛していたからです。そして大きな信頼も寄せていた。それゆえ群れのお金をすべて預けて任せていた。しかし、彼は、群れと主イエスを裏切ることになる。
彼は、その信頼を悪魔に狙われた。悪魔の誘惑は、わたし達の弱いところを狙ってくるように思う。しかし、必ずしもそうではないことが分かる。このユダのように、金庫をまかされるほどの信頼という能力を狙われたのです。
会社を経営することにたけている人を悪魔は狙います。立ち上げたときは社員のため、社会のため、そう思い社員に感謝して仕事をする。しかし経営がうまくいき、さすがといわれていくうちに、「会社は自分のもの、私が大きくした、自分の私の俺の・・」に変わっていく。群れのものが自分のものへ、ユダと同じ「盗人」の罪を犯していく。悪魔が彼の能力を狙い誘惑していく。
わたし達の能力(賜物)成功は、決して自分のものではなく、神からいただいた賜物だとするなら、自分自身を自慢する、うぬぼれる、そして自分を誇ることは、なくなるのではないだろうか。成功すればするほど、主に感謝する謙虚な心が求められている。
「信仰は感謝で始まり感謝で終わる」世の全ての物(恵み)は、神の創造物であり、私達人間は、その恵みの管理者なのだ。そして私たち自身も神の創造物にすぎない。決して創造者ではない。
本日の聖書 ヨハネによる福音書11章3-4節
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
宣教題 「死は通過点になる」 牧師 新保雅雄
「わたしには、まくらするところもない。」と言われた主イエスにとって、このベタニアの家族は、心から休まる家だった。この安らぎの親友ラザロが病気で死に直面している。
弟ラザロの病は、次第に悪化していき、ついに死に直面する。しかしマルタとマリア姉妹は、あきらめるのではなく、主イエスの所に人を遣いに出し「主よ、あなたの愛していられる者が病気なのです」と、慌てる様子はなく冷静に、まるでゆだねるようだ。
しかし親友ラザロは、死んでしまった。連絡を受けた主イエスがそこへ着いたのは、死後四日たってた。
このラザロの死に対して、主イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
「この病気は死で終わるものではない。」とはどういう意味でしょうか?‥‥「死ぬほどの病気ではない。大丈夫」という意味でしょうか? しかしラザロは死んでしまうのです。
私たちは、人間死んでしまえば、すべてが終わりであるかのように思う。しかし主イエスによって変わるのです。 主イエスは「この病気は死で終わるものではない」と死に対して言われる。主イエス・キリストによって、そのように変えられていくのです。
必ず人は死を迎える。しかし死は人間の人生の最終目的地ではなく。今日の主イエスの言葉によれば、私たちが主イエスに、自身の命をゆだねた時、それは「死で終わるものではなくなる」。その先にある神の国へとつながっていく。死は通過点になる。ハレルヤ
祝 クリスマス
Merry Christmas
本日の聖書 ルカによる福音書2章11節
宣教題「あなたのためにメリークリスマス」 牧師 新保雅雄
主の御使いは、長々と退屈な説教を必要としない。この短い一言の言葉で、救いの全てを語られている。(ルカ2:11)
「今日あなたがたのために 救い主がお生まれになった。」
あなた方とは誰か?
「孤独の中に眠れない夜を過ごすあなた。
善を行おうと願いながら悪を行ってしまうあなた。
数々の罪の中にあるあなた。死に定められているあなた。
欲望の奴隷になっているあなた。」
何の為に?
「あなたを決してみなしごにはしない。古い自分を脱ぎ去るために。数々の罪の身代わりになり、あなたを赦すために。死ぬべきあなたを永遠の命へ導くために。あなたを解放し自由にするために。」
主は、貧しさの中にひっそりとお生まれになられた。祝いに駆けつけたのは、数人の羊飼い達であった。
この社会から遠くにいる、休む場所は暗い孤独の中、この羊飼いの姿は、まさに社会の喧騒の中で心ふるわす。私たちの姿なのです。
「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
ダビデの子にホサナ。主によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイ21:8,9)
あなたが主イエス・キリストを心からお迎えするいなら、主はあなたの救い主になられます。我らの主。ハレルヤ!
コロナ感染状況が落ち着くまで板橋での対面礼拝は自粛致します。