本日の聖書 コリントの信徒への手紙1:22~24
「ユダヤ人はしるしを求めギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわちユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」
宣教題 「十字架の証」 牧師 新保雅雄
パウロは、アジアからヨーロッパへかけて、伝道の旅に出発する。その行き着いた国々で、キリストの十字架を宣教した。
しかし、多くの人々はパウロの宣教を聞いて「頭のおかしなおじさん」と見られた。当然、世の知恵で見る限り十字架とは死、命の終わりを意味する。その先にある復活の命は、到底理解ができなく、福音とは受け入れられない。
そこでパウロは、十字架を愚かとしか見ない人々に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものである」と言う。
では十字架の言葉とはなんでしょうか?「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと」(15:3、4)
つまり自分の中にある罪を認めること、弱さを知ることである。
イエス・キリストの鞭打たれた一本々の傷の痛み、十字架に釘で打ちつけられた苦しみが、わたしたちの受けるべき罪の姿である。十字架とは自分自身を飾らず、ありのままに自身の罪を認めることである。そのとき神の赦し、神の愛が見えてくるのです。
福音宣教、キリストによる救いの証しは、不思議なしるしを見せびらかすことではなく、知恵をひけらかすわけでもなく、十字架の出来事を、伝道者がそのまま現す方法で行われてきました。
それは、一見愚かなこと、つまらないことのように思えますが、本当は、イエスキリストの十字架の出来事の中にこそ、神の力、神の知恵、さらには神の愛が現されています。
本日の聖書 使徒言行録1章13~15節
彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
宣教題 「祈りから始まった教会」 牧師 新保雅雄
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4、5節)という、主イエスの約束を思い出した弟子達は、彼らがとどまっていた二階の部屋で、熱心に約束の聖霊を待ち望み、心を「一つ」にした「祈る群れ」であった。
そのとき彼らは、わずか百二十人ほどの小さな群れにすぎず、依然として主イエスに対して無理解であり、しかも裏切り者の集団であり、不信仰な群れであった。更にユダヤ人からの迫害を恐れて、家の中にひっそりと隠れていた、小心で無力な人々でした。
主イエスの十字架の後の最初の教会は、こんな弱い群れにすぎない。しかし彼らは「一つ」となって「祈る群れ」でした。そして祈る彼らのただ中にキリストは臨在し、祈りに応えられる。
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。二人、三人、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:19、20)
私達の教会に、そして私達一人一人にも、この「二階の祈りの部屋」が必要です。自分の働きを始める前に、まず祈ることです。祈って、神が自分の中で働きを支えてくださることを求める。
それがどんなに小さく無力な、欠けた者たちの集まりであっても、祈りによって力強いキリストの教会となっていく
本日の聖書 ヨハネによる福音書15章5節
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
宣教題 「神の木につながる」 牧師 新保雅雄
枝が木につながっているから、その枝は葉を茂らせ芽を出し、生きている証しとしての実をつける。さらにその実は、さらなる命を宿して、次の命につなげていく。枝には大きな力と使命がある
しかし枝が木から離れてしまい。木につながっていない枝になってしまうと、芽を出し葉をつけるという、大きな力や使命は、何もできず枯れてしまい、朽ちていずれ土に帰ってしまう。
芽を出す事も、花や実りを付けることも出来ない。その枝は結局、それ自身だけでは生きていけない。木には命への力がある。
枝と同様に、本来私たちも神につながっていて、大きな能力と使命が与えられている。それを発揮できるのは、命の源である神と信仰で結ばれることで、初めて可能になる。
木につながっていない、自分の力だけに頼るとき、必ず死という最後を迎え終わっていく。神につながっていない人間も、結局肉の思いによって堕落し滅びに向かう、枯れた枝になる。「宗教や神に頼るのは弱い者のすること」よく聞く言葉です。確かにそのとおりだと思う。神を信じる(つながる)ことは、枝としての自らの弱さと限界を、勇気をもって謙虚に認めることです。
強がりを言って弱さを隠すことは、決して強さではない。その弱さを正直に認めることが、本当の強さなのです。
人は自分だけで生きているのではない。沢山の人々に支えられて生きている。神につながることで、あなたは決して一人ではない、そのことを知ることができる。青々と茂った豊かな人生になる。
本日の聖書 ヨハネによる福音書12章3~6節
マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
宣教題 「ユダの能力を狙う悪魔」 牧師 新保雅雄
今朝は「ユダの裏切り」から学びます。主イエスは、十二使徒の一人としてユダを選んだ。彼を愛していたからです。そして大きな信頼も寄せていた。それゆえ群れのお金をすべて預けて任せていた。しかし、彼は、群れと主イエスを裏切ることになる。
彼は、その信頼を悪魔に狙われた。悪魔の誘惑は、わたし達の弱いところを狙ってくるように思う。しかし、必ずしもそうではないことが分かる。このユダのように、金庫をまかされるほどの信頼という能力を狙われたのです。
会社を経営することにたけている人を悪魔は狙います。立ち上げたときは社員のため、社会のため、そう思い社員に感謝して仕事をする。しかし経営がうまくいき、さすがといわれていくうちに、「会社は自分のもの、私が大きくした、自分の私の俺の・・」に変わっていく。群れのものが自分のものへ、ユダと同じ「盗人」の罪を犯していく。悪魔が彼の能力を狙い誘惑していく。
わたし達の能力(賜物)成功は、決して自分のものではなく、神からいただいた賜物だとするなら、自分自身を自慢する、うぬぼれる、そして自分を誇ることは、なくなるのではないだろうか。成功すればするほど、主に感謝する謙虚な心が求められている。
「信仰は感謝で始まり感謝で終わる」世の全ての物(恵み)は、神の創造物であり、私達人間は、その恵みの管理者なのだ。そして私たち自身も神の創造物にすぎない。決して創造者ではない。
本日の聖書 ヨハネによる福音書11章3-4節
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
宣教題 「死は通過点になる」 牧師 新保雅雄
「わたしには、まくらするところもない。」と言われた主イエスにとって、このベタニアの家族は、心から休まる家だった。この安らぎの親友ラザロが病気で死に直面している。
弟ラザロの病は、次第に悪化していき、ついに死に直面する。しかしマルタとマリア姉妹は、あきらめるのではなく、主イエスの所に人を遣いに出し「主よ、あなたの愛していられる者が病気なのです」と、慌てる様子はなく冷静に、まるでゆだねるようだ。
しかし親友ラザロは、死んでしまった。連絡を受けた主イエスがそこへ着いたのは、死後四日たってた。
このラザロの死に対して、主イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
「この病気は死で終わるものではない。」とはどういう意味でしょうか?‥‥「死ぬほどの病気ではない。大丈夫」という意味でしょうか? しかしラザロは死んでしまうのです。
私たちは、人間死んでしまえば、すべてが終わりであるかのように思う。しかし主イエスによって変わるのです。 主イエスは「この病気は死で終わるものではない」と死に対して言われる。主イエス・キリストによって、そのように変えられていくのです。
必ず人は死を迎える。しかし死は人間の人生の最終目的地ではなく。今日の主イエスの言葉によれば、私たちが主イエスに、自身の命をゆだねた時、それは「死で終わるものではなくなる」。その先にある神の国へとつながっていく。死は通過点になる。ハレルヤ