「夜空を仰いで、 あなたが造られた月や星を眺めると、なぜ、取るに足りないちっぽけな人間を 心に留め、目をかけてくださるのか不思議です。 」(詩篇 8:3-4 JCB)
取るに足りないちっぽけな私にも関わらず、なぜ神さまは目にかけてくださるのでしょうか。
それは、私たちにも気づいてほしいと神さまが思っているのですが、あなたは「宝の器」であるからです。
宝の器は、宝が入ってこそ価値があり、役割を果たし続けます。宝以外のものが入ると役割が果たせなくなりますよね。
では宝とは何でしょうか。神さまの愛であるイエスさまです。イエスさまがあなたの心にいるなら、あなたはあなたらしくイキイキと輝く宝として成長するのです。
器に本物の愛を入れていただくと、器から愛は溢れてまわりにも広がります。あなたは宝の器であることを忘れないでくださいね。
夜空を仰いで、 あなたが造られた月や星を眺めると、なぜ、取るに足りないちっぽけな人間を 心に留め、目をかけてくださるのか不思議です。 (詩篇 8:3-4 JCB)
あなたは神さまに愛されています。あなたの存在を感謝いたします。今日も一日主の祝福が豊かにありますように。
2024年になりました。本年も宜しくお願いします。
板橋キリスト教会は新保牧師の体調不調のため、教会員の赤谷兄が伝道担当として、集会を守ってまいります。
今後ホームページも見直して変更していきます。詳細が決まりましたら改めてご案内いたします。覚えてお祈りをお願いいたします。
現在、板橋キリスト教会は新保牧師の体調不調のため、礼拝をお休みしています。
新保牧師の体調が癒されますように。また教会員お一人ひとりの信仰と健康が守られますように。覚えてお祈りをお願いいたします。これをご覧になりましたあなたの上に主の祝福が豊かにありますように。
本日の聖書 ルカによる福音書17章20〜21節
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
宣教題 「神の国はあなたの中に」 牧師 新保雅雄
ファリサイ派の人々が、主イエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねた。主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられた。
心の目を開いて、よく見るならば神の国は、もう既に、あなたのそばに来ているのだ、と言われている。主イエスの福音を聞いて、主イエスの奇跡の業を見る時に、神の国は、ここにあると確信できる。つまり、あなたの思いの中に神の国を確信できるのです。
問われているのは、主イエスを通して現わされる神の国を、どのように、あなた自身が受け止め、感じ取るか、ということが大切なのです。主イエスの福音を二人の人が聞いても、一人は、「神の国が来ている」と受け止め、もう一人は残念ながら「神の国など信じられない」と思う。
この世を生きる限り、誰にも艱難辛苦が訪れます。この艱難が、苦しいだけで何の意味も無いとしたら、艱難に耐えることの意味とは何でしょうか。それよりずるがしこく生きる方が得に思えてしまう。熱く過酷な砂漠の先に、冷たい水をたたえた泉湧く緑のオアシスがあると確信できるなら、艱難辛苦の中を歩くことにも意味があり耐えられるかもしれません。
主イエスと共に歩むならば、今の苦しみも意味の無いものではありません。信じて歩むなら苦しみの先に神の国の喜びがあります。今のあなたの苦しみは、大きな喜びが待っている産みの苦しみなのです。その時、艱難は苦しみではなく試練に変わるでしょう。そう確信できるなら神の御国は、すぐそばにあるでしょう。
本日の聖書 マルコによる福音書4章40節
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
宣教題 「主に命を委ねます」 牧師 新保雅雄
弟子たちは、舟でガリラヤ湖を対岸に漕ぎ出す。その途中で大きな嵐に遭遇する。たとえ、主イエスが共に乗っておられる舟であっても、激しい突風に吹き付けられ、高波が押し寄せてくることがある。
洗礼を受けたから嵐は来ないのでしょうか。残念ながら信仰人生でも順風満帆に過ぎて行くとは限りません。人生の航海において、その半ばまで晴れ渡って、風も無く穏やかに進んでいた。しかし突然、空が曇り嵐になる。自分では、どうにも出来ない力に翻弄され、何も整えることが出来ず、ただ漂っているしか無い状態に置かれることもある
そんな時「私はクリスチャンだ。洗礼も受けている。なぜこんなにも苦難が襲うのか、神よ」と叫びたくなる。確かに同じ舟に乗っていてくださるイエスが、何もしてくださらないことに苛立つことがある。
正に弟子達の様に、主イエスに向かって「わたしがどうなっても良いのですか」と問い詰めたくなることもあるのです
ガリラヤ湖では、確かに、弟子たちは、起き上がった主イエスの一言によって、風が止み、すっかり凪になりました。しかし、時に私たちは、切実なる祈りにも拘わらず、さらに嵐の中に迷い込む経験をする
その時、主イエスは、弟子たちに向かって「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われた。弟子たちは、主イエスに従っているように見えて、実際には、心から信頼しきっていなかったのです。
舟に乗り漕ぎ出すとは、自分の命を神という船頭に任せることです。信頼とは、自分の命を、自身の手から離し切ることです。主イエスを口先だけで語っても、御言葉をお札のように貼っていても、何の効果もありません。自分の命を主イエスに預けること、これが信仰です。