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板橋区仲町23−17
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投稿者 : church 投稿日時: 2017-07-09 06:35:40 (841 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書26章75節

ペトロは「鶏がなく前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

宣教題「ペテロが流した涙」  牧師 新保雅雄

  一番弟子のペトロは、主イエスが捕らえられた時、一旦は、他の弟子たちと同じく、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。しかし、思い直し主イエスを追い掛け、大祭司の屋敷の中庭にまで入り込みました。屋敷では、主イエスを死刑にする為の裁判が始まっていました。

  ペトロは、大祭司の配下にある人と共に、屋敷の中庭に座っていました。そこへ一人の女中がやって来て、こう言ったのです。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」 ペトロは、「私は、主イエスの弟子のペトロだ」と名乗ることも出来たのです。しかし、名乗る勇気がありませんでした。自分の身を守るための言葉でしかなかったのです。

  ここに自分の身を守ろうとする醜いペトロの姿があります。一番弟子としての意地も誇りもなく、ただただ、その場しのぎの行動を繰り返す、悲しい姿が浮き彫りになっているのです。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(26;34-35)ペトロは、どんな時にも、主イエスに従います、と言っていたのです。主イエスに誓ったことを、簡単に破ってしまった自らの罪と身勝手さを、ペトロは、嫌と言うほど突き付けられたのです。

  しかし、幸いなことに、主イエスは十字架で死んだままにはなりませんでした。神が、死をも乗り越える力によって、十字架で死んだ主イエスを、三日目に、復活させられたからです。そして、復活した主イエスは、ペトロを始めとする弟子たちと再びお会いくださり、弟子たちの罪を咎めることなく、罪の赦しを宣言してくださったのです。

  こうして、ペトロには、道が開かれました。悔い改めて、神に立ち帰り、再び、主イエスに従う道が開かれたのです。復活によって永遠の命を信じた時、彼は大きな勇気を身に着けたのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-07-02 07:30:37 (874 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書26章50節

イエスは「友よ、しようとしていることをするがよい」といわれた。

宣教題「人の思いを超える御心」  牧師 新保雅雄

  主イエスが、12弟子たちと「最後の晩餐」をされ、夜中にゲツセマネでの祈りを終えられた時のことです。さっきまで最後の晩餐を共にしていた12弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスの所にやって来ました。そして、「先生、こんばんは」と言って、主イエスに接吻したのです。

  ユダの言葉「先生、こんばんは」そして「接吻」とは、相手への敬意、親愛の情を示すものであるはずです。しかし、ユダは、これを悪意あるものに変えてしまいました。

  神に背き、自分を正当化する者は、主イエスの存在が邪魔になるのです。主イエスは、何が神の御心であるのかを明らかにするからです。そのため、頑なになって、悔い改めて神に立ち帰ることを拒む者は、自分が正しいことを主張し続けるために、目障りな主イエスを、抹殺しようとするのです。

  しかし、こうした試みは、決して成功致しません。たとえ、主イエスを十字架に付けて殺すことに成功しても、神は、死人の中から復活させることが出来る力を持っておられるからです。人間は、神の相手になれるほど強くはありません。相手にならないのです。

  時に、神は、私たちの思い、願い、予想、判断、常識を超えた形、すなわち、全く思ってもいなかった形で、ご自身の救いの計画を成し遂げられます。神の子イエスが十字架で殺されることで人の救いを達成することは、正に、人の思いに反しています。

  こうして神の救いの御業が成し遂げられたことを知る私たちは、時に、我が身を襲う思いがけない苦難、辛い出来事の中にも、神の御心があることを信じたいものです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-06-25 06:56:08 (1047 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書19章20〜22節

「金持ちの青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」

  宣教題「私を憐れんで下さい」  牧師 新保雅雄

  彼は律法を熱心に守り、善い行いを心がけた。世においても一生懸命働いて沢山の財を残した。自分で出来うることは全て行った。成功者である。信仰者としての自信もあったのだろう。彼は胸を張って主イエスに尋ねる。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」彼は、確信がほしかったのです。

  主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われた。

  その言葉を聞いた青年は、悲しみながら立ち去った。なぜなら彼は「たくさんの財産を持っていたからである」そのとき彼は、初めて自分が不完全で欠けている人間であることを知ったのです。

  完全になるということは、何と難しいことだろうか。まさに「ラクダが針の穴をとおる方がまだやさしい」と思われてくる。つまり自分の善い行い修行では、永遠の命の国、天国へは入れないのです。

  彼は、律法を守り貧しい人々への施しもしてきたでしょう。しかしその施しはあくまでも、自分が救われるためであり、財産を売り払ってまで、貧しい人々に施しをするということではない、沢山の財産の中から余ったものであった。弱い者への愛する心がない。

  「わたしは、こんなに善いことをしてきました。だから天国に入れてください」何と傲慢な者なのだろうか。私たちが出来ることは、「主よ、罪人の私を憐れんで下さい」と心から祈ることだけである。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-06-18 07:01:05 (889 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書19章13〜15節

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた

宣教題「手を引かれた子供のように」  牧師 新保雅雄

  主イエスに子供を祝福していただくために、親たちが子供を連れて来ました。これを見て弟子たちは親たちを叱り帰そうとしました。

  しかし主イエスは、逆に弟子たちを叱りました。そして「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。

  主イエスのところに連れてこられた子供たちは、何かしたわけでもないのに、主イエスは「天の国はこのような者たちのものである」と言われる。いったいこれはどういうことなのでしょうか?

  ヒントは、子供たちはどうやって主イエスのところにやってきたのでしょうか?です。「人々が子供たちを連れてきた」と書いてある。つまり親に連れられて来たのです。それだけです。努力したどころではない。連れられてきただけです。それが天の国なのです。

  「私は自分で主イエスのもとにやってきました」と言うことのできる人がいるでしょうか。わたしは自分が選んで教会に行った、という思いが、いかにごう慢であったか。今朝の礼拝の初めに牧師、司会者が「教会へ来ようとしている兄姉があれば無事に」と祈ります

  自分の力で主イエスのもとに来ることができる人などいません。

  全ては聖霊の導きです。天の国は、主イエスが一方的にお与えになるものです。子供は自分で教会へ来たのではない。親たちに手を引かれてきたのです。これが聖霊の働きです。どうか心を一つにしてまだ見ぬ兄姉、お休みされている兄姉のために祈りましょう。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-06-11 07:22:12 (994 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書19章8、9節

イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

宣教題「弱さを知りなさい」  牧師 新保雅雄

 今朝の聖書を読んで、皆さんはどのように感じられたでしょうか。離婚をすることが、「良いのか悪いのか」、「どういう場合なら離婚はできるのか」また「どのような離婚なら律法に違反しないのか」 離婚する時はどうすればいいのか?このように思ってしまいます。

「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言うファリサイ派の人の言葉に対して、主イエスは「どんな理由があろうと、絶対に離婚をしてはいけないのだ」という離婚禁止の律法として聞こえてしまうのではないでしょうか。

 そうであるなら離婚をした人はダメな人、神の御心に背いた人。離婚をしなかった人が偉い人、立派な人である、ということになってしまう。

 当時は男性社会です。そのため妻と離縁して新しい女性と再婚したいと願う悪心から、妻に「なにか恥ずべき事」をはないかとさがし、口実をつくり、離縁を正当化していました。つまり自分の責任ではないから罪はない、欠けもない、自分は立派な信仰者だと見せたい。

 天の神は創造の時、アダムを御心にとめ「人が独りでいるのは良くない」と言われ、助け手エバが造られました。父親の対極としての母親は人間社会の基礎です。対立のために男と女があるのではなく、助け合う関係として造られたのです。しかし人は、自分の欲望のために都合よく解釈していく。ましてや預言者へも迫るのである

 自分は完全な人間ではなく、欠けた人間であることを知りなさい。主イエスは、律法を教えておられるのではないのです。人間の弱さを知りなさい。と言われているのです。

 


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