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板橋区仲町23−17
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投稿者 : church 投稿日時: 2015-01-25 00:07:08 (1274 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書6章17〜26節(中心20〜23)

「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。』」

宣教題  「弟子たちの目を見つめながら」  北村 紀一 

イエス様は山の上で父なる神様に祈って、弟子たちの中から12人の使徒をお選びになりました。使徒とは、イエス様に遣(つか)わされて、神の国の教えを宣(の)べ伝える人たちです。

しかし、ここでイエス様が選ばれた12弟子は、特別何かすぐれていたわけではなく、むしろ無学で社会的にも地位の低い人たちであったということです。そのように弱くて小さいものを通して、「神の国はあなたがたのものである」ことを伝えようとされたのです。

それでイエス様が、弟子たちの目を見つめながらお語りになった最初の教えは『幸いと不幸』のお話しです。まず、本当の「幸い」とは何か、「不幸」とはどんなことかをお教えになったのです。

それは、これからの歩みの中でイエス様を伝えること、神の国のことを伝えることは、誰でも喜ばしいこととして受け取らないことを知っていたからです。それで、どこに土台を据えることが幸せなのかを教えてくださったのです。

なぜなら、この世の幸福観は、富んで、満腹できて、笑っていられる人生は幸せで、貧しく、飢え、泣いている人生は不幸だと考えます。しかし、イエス様の語られる神の国の幸福感は違っています。

この時の弟子たちは、理解できなかったのですが、後にイエス様が十字架に架かられ、弟子たちに聖霊が降ると、イエスさまを伝える時にどのような迫害があっても幸せにで満たされています。(使徒現行録5:41)

また、神の国に自分の土台に置いたパウロも、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4:12)

「神の国」にこそ土台を据えるならば、どんな時もあなたは幸せだと言うのです。しかし、そうでないならば、不確かな幸せを求めて不幸になるのです。

私たちの人生に与えられるどんな条件も祝福の基と変えてくださる御方がイエス様です。このイエス様にこそ信頼を置くものは「幸せな人」だと言えます。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-12-21 07:43:27 (1255 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書2章1〜12節

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:9〜11)

宣教題  「喜びのクリスマス」   北村 紀一

メリークリスマス!世界中でクリスマス礼拝がささげられています。民族も言語も文化も違うけど、すべての人々の目指すところはこの飼い葉桶に寝ておられるイエス様なのです。

ユダヤの民にとっては待ちわびていた救い主です。ところがユダヤ人ではない東方の学者がお祝いにかけつけると、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。(マタイ2:3)なぜ、よき知らせなのに不安を抱いたのでしょうか。

ヘロデ王は、権力欲が強い王でした。王さまの役割は、国と国民が幸せになるために働くことですが、ヘロデ王は自分の権力維持のためであれば子どもだろうが関係なく殺害してきた王です。ですから、「ユダヤ人の王として新しく生まれた者がいる」という知らせは大変脅威であり不安の要因だったのです。

また誰でも古くからの繋がりは安心できます。ところが、安心できる繋がりというのは新しく入ってくる者を異質な者と見て排他的になることもあるのです。エルサレムの人も同様に不安を抱いたというのはそういった傾向が強かったからです。

心を神様に向けないで、妬みや、自分の安住の場所だけを求めて、いつもと違うことを排除しようとしているときは見えないのです。そのため、イエス様は居場所がなく、寂しいところでお生まれになりました。こうして誰もが不思議に思う気付きにくいところに光が差し込まれたのです。

ところが異邦人である東方の学者たちは神様の示す星に導かれて、そしてついに、その星が指し示す場所にたどり着いたのです。そして喜びにあふれました。

真の王である方を捜し出し、そのお方の前に出て、ひれ伏して礼拝すること、これがクリスマスであり、私たちの人生の目的です。

神さまが私たちに、このまことの救い主イエス様をプレゼントしてくださいました。この御方こそ私たちを本当に正しく導く王の中の王です。いつも神さまが一緒におられる人生(インマヌエル)のプレゼントです。メリークリスマス!あなたの上に祝福が豊かにありますように。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-12-13 17:38:53 (1126 ヒット)

本日の聖書  ヨハネによる福音書1章1〜5節

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

宣教題 「闇の中に輝く光」  牧師 黒瀬 博

クリスマスおめでとうございます。

このクリスマスの時期は、一年の終わりでもあります。今年一年を振り返ってみて、「あまり良いことは起きていない」と思う方もおられるかもしれません。4月には消費税が8%に値上げされ、夏には広島での土砂災害、9月には御嶽山の噴火と立て続けに事故が起き、その後も新聞を開ければ悪い話ばかりが載っています。「どうして悪いことしか起きないのだろう」と考える人もたくさんいます。

しかし、待ってください。本当に悪いことしか起きないのでしょうか。私たちはマスコミに騙されているのではないでしょうか。

実は良いこともたくさん起きているのです。ところが、それらの良いことは決して新聞のニュースになることはありません。なぜなら、新聞は売らなければなりません。売るためには悪いニュースを並べる必要があるのです。人間の本能は、悪い出来事に耳を傾ける傾向があります。良いニュースを書いても誰も買ってくれません。

「悪事千里を走る」と言います。悪いニュースは千里を駆けて伝えられます。このことわざは本当です。良いニュースは走ってもせいぜい2,3キロでしょう。しかし、悪いニュースはすぐに伝わるのです。

ですから、新聞やテレビで悪いニュースしか流れなくても、「良いニュースが無い」などとは思わないでください。私たちの知らないところで良いことは毎日、たくさん起きているのです。

イエス・キリストのお誕生のときも同じことが起きました。神の子、救い主の誕生ということは世界最大の良い出来事です。人類全体がこれをお祝いし、お祭りして、花火を挙げてお祝いしてもよい出来事です。ところが、お祝いに来たのは野原にいた羊飼いたちと三人の博士だけだったのです。あとの人たちはまったく無関心でした。ニュースにもなりませんでした。

しかし、心配はいりません。ニュースにはなりませんでしたが、良い結果をもたらすことについては変わりありません。誰にも知られずにお生まれになったにも関わらず、神の子の誕生は世界を変えることになりました。その結果、今日、すでに2000年が経過していますが、世界中の人々がこのクリスマスをお祝いすることになっています。

神の業は最初は一滴の水のようなものですが、集まって小川となり、野原をうるおし、やたて大きな川となって人や動物、魚を養い、最後には海に注ぎます。山の上にいる人には水滴の将来は見えません。しかし、神の業は止まることはありません。世界をうるおし、救い、贖い、祝福するのです。

そして、その神の業は今も続いています。川の水が障害物を乗り越えて進むように、神の業もあらゆる問題を解決して進んでゆきます。人間の目には解決不能に見える問題も神にとっては単なるひとつの障害物にすぎないのです。私たちの人生にも多くの障害物がありますが、神に従って進むならどんな障害物も乗り越えることが出来、問題は解決します。

このクリスマス、神の御子イエス・キリストのお誕生をお祝いしつつ、これからの神の業の前進を期待して感謝を捧げたいと思います。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-11-30 07:16:55 (1052 ヒット)

本日の聖書  マルコによる福音書13章35節

「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。」

宣教題 「目を覚ましていなさい」  牧師 新保雅雄

本日より、待降節:アドベントに入ります。ご存知の通り、アドベントとは、既に来られた主イエスによってもたらされた十字架の愛を覚え、再び来られる主イエスを待ち望む時のことです。

既に来られたイエス・キリストを覚える、ということは、クリスマスの出来事に思いを向けるということなんです。御子イエス・キリストは、神の独り子であるにも拘わらず、私たちに救いをもたらすために、私たちと同じ人になられ、この世に来られました。

しかし、私たちは、神の御子をお迎えする、何の準備も整っていませんでした。なぜなら「寝ていた」からなのです。「飼い葉おけの中に神の御子がお生まれになる」ということは、神の御子をお迎えしていない、この世を現しています。主イエスは「だから、目を覚ましていなさい」と言われるのです。

クリスマスの出来事は、主イエスの十字架と切り離すことは出来ません。クリスマスと十字架は、二つで1セットの関係なのです。

お誕生日だから、おめでとう!だけじゃないのです。これから始まる十字架の死へと歩まれる、表裏一体にあることを覚えて下さい

では、なぜクリスマスがあるのでしょうか? それは、この世が、あまりに神から離れていたために、神は御子イエス・キリストに、世の全ての罪を背負わせて、世を救おうとされたのです。

つまり、 私たちを救おうとされる十字架で示される神の愛、これが、私たちへの本当のクリスマスプレゼントなのです。

クリスマスは、ドンチャン騒ぎをする事じゃないのです。本当のクリスマスとは、主イエスの十字架を仰ぎ、自分の罪を再認識する日、「肉から目覚める日」なのではないでしょうか。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-11-23 06:48:27 (1079 ヒット)

本日の聖書  イザヤ書65章17〜25節(中心18〜19)

「世々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは想像する。見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」

宣教題 「喜び踊れ」         北村 紀一

私たちの人生の中には、周りが食べていても、自分は飢える。周りが飲んでいても、自分は渇く。周りが喜んでいても、自分は恥を受け、周りが喜び楽しんでいても、自分は心の痛みによって叫び、泣きわめく。そんな希望のかけらもないような状況に支配される時があります。(イザヤ65:13〜14)

神様から選ばれたイスラエルの民でしたが、何に頼ったのか、イスラエルの民は飢え渇きを覚えます。

本来はイスラエルの民にこそ与えられるべき祝福でしたが、彼らは神様に従わず、その心は神様から遠く離れてしまったので、神様はイスラエルの民に厳しい裁きを告げると同時に、神様を求め続ける者には祝福を宣言されました。

そのように教会に行っているからとか、自分は特別だからとか、身分があるからとか、財産や地位があるからとか、またクリスチャンとして模範的な生き方をしているからとかよりも、実に神様の憐れみに寄りすがって主に従って生きているかどうかの方が大事なのです。

ですから私たちは、いつも主に心を向けることが大事だと言うことです。しかしサタンはどうにかして私たちの目を神様から離れさせようとしています。与えられていることが当たり前のように思わせて、感謝の心を薄れさせたり、自分こそ正しい者であるかのように勘違いさせたり、逆に何か苦しいことがあれば、過去の記憶に引きずられて落胆し、自暴自棄にさせたりします。しかし、大事なことは、顔を向けにくいそんな時こそ、主に心を向けることです。

主に心を向けると、はじめは恐いと思うでしょう。しかし本当に大事なことがわかってきます。こんな自分でも主は愛してくださることを知ります。そして新しく生きる力を与えてくださいます。消えることのない希望を与えてくださいます。それが新しい天と新しい地であり、そこは主が共にいてくださり、まことの平安があるのです。主であるイエス様の十字架によって与えられたこのまことの希望は誰も奪うことのできないものです。その希望をしっかり掴んで離さないように生きる時、私たちはいつも喜び踊るものとされるのです。


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