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投稿者 : church 投稿日時: 2015-08-11 15:38:39 (1083 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書15章20節

彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

宣教題「父のもとへ帰ろう」  牧師 新保雅雄

二人の息子を持つ裕福な父親がいました。弟の方が、父親に財産の分け前をくれるように願いました。どうせ父の跡継ぎは兄だろうからと思ったのでしょうか。財産の生前贈与ということです。

父親は財産の半分を弟に分けました。弟は、財産を持って遠い国に旅立って行きました。そして外国を渡り歩き、放蕩の限りを尽くし財産を全て使い果たしてしまったのです。

悪いことに、そのころ飢饉が起こり、食べ物もなく、さまよい歩きました。あまりの空腹に豚の餌のいなご豆を食べてでも、空腹を満たしたいと思ったほどでした。豚は、ユダヤ人が不潔と嫌う動物。その豚の餌でもいい。ユダヤ人としてのプライドを捨てたのです。

こうした悲惨な状況の中で、弟は、ようやく目が開き、幸せとは何かに気が付いたのです。父親のもとにいたときの生活を思い出し、家に帰ることを決断しました。

放蕩の限りをし尽くし全財産を使いはたし、天に対しても、父親に対しても罪を犯しました、息子と呼ばれる資格は無い、雇い人の一人として働かせてくれるように言おう。覚悟を決め、父親のもとへ向かいました。すると、自宅からまだ遠く離れているのに、父親は、弟を見つけ、憐れに思い、走り寄って迎え入れ、何も聞かず只思いっきり抱き締めたのです。

ここに、神の愛が示されています。天の父は、悔い改め立ち帰る者に何も言わず、無条件で迎え入れてくださるのです。「何をしていたのか、このばか者めが!」と非難することもなく、説教する事もなく、とがめもしない。ただ心からの祝福をくださるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-08-02 06:13:35 (1099 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書16章15〜17節

イエスは言われた。

「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」

宣教題「主イエスの十字架を誇る」  牧師 新保雅雄

ファリサイ派の人々に対して、主イエスは語られました。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」(15節) 

これは、人目に付く所でだけ、自分の信仰、行い、正しさを、見せびらかして誇ろうとするファリサイ派の人々に、悔い改めを迫っている御言葉です。私達も教会の内と外での顔は違っていませんか。

続けて「律法と預言者は、ヨハネの時までである」と主イエスは語られました。ここで言われる「律法と預言者」とは、旧約聖書のことです。バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを授けて以来、「神の国は近付いた。」という福音が語られました。そして、新しい時代、人々に求められるのは「悔い改め」です。

悔い改めとは、人生の方向転換です。今までの生きかたを改め、神の方へと生き方を転換することです。ところが、実際には、正反対のことが起きました。それは、「だれもが力ずくでそこに(神の国)入ろうとしている」ということです。自分の信仰、自分の善行、自分の力によって、神の国の扉を開けようとしているというのです。

しかし自分の力では誰一人、神の国へ入ることは出来ません。自己を低くして、主イエスの十字架に悔い改めることが、唯一神の国へ通じる道であると認め、謙虚に生きるとき神の国は開かれるのです

この後行われる聖餐式で、主イエスの十字架で流された血を思うとき、私たちが神から愛されていることが確心できます。感謝・・


投稿者 : church 投稿日時: 2015-07-26 06:59:16 (1153 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書17章20〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。

「神の国は、見える形では来ない。

『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

宣教題「神の国は来ている」  牧師 新保雅雄

ファリサイ派の人々が、主イエスに対して「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられました。ここで注意したいのは、弟子に語ったのでなく、主イエスを疑い試すファリサイ派の人に「神の国はあなたの間にある」と言われていることです。

心の目を開いて、よく見るならば神の国は、もう既に、あなたのそばに来ているのだ、と言われているのです。主イエスの福音を聞いて、主イエスの奇跡の業を見る時に、神の国は、ここにあると確信できれば、あなたの中に神の国を確信できるのです。

問われているのは、主イエスを通して現わされる神の国を、どのように、あなた自身が受け止め、感じ取るか、ということが大切なのです。主イエスの福音を二人の人が聞いても、一人は、「神の国が来ている」と受け止め、もう一人は「神の国など信じられない」と思うのです。 

この世を生きる限り、誰にも艱難辛苦があります。この艱難の先に喜び救いが無いとしたら、艱難に耐えることの意味とは何でしょうか。艱難に耐えるよりも、ずるがしこく生きる方が得に思えてしまう。熱く過酷な砂漠の先に水をたたえた泉湧くオアシスがあると確信するなら、歩くことにも意味があり耐えられるでしょう。

主イエスと共に歩むならば、今の苦しみも意味の無いものではありません。信じて歩むなら苦しみの先に神の国の喜びがあります。今のあなたの苦しみは、大きな喜びが待っている産みの苦しみなのです。艱難は苦しみではなく試練に変わるでしょう。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-07-19 01:48:51 (1134 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書17章11〜4節

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

宣教題「決心したとき癒される」  牧師 新保雅雄

主イエスと弟子達がエルサレムへ向かう途中の村でのことです。重い皮膚病を患っている十人の人たちが、遠くの方から、主イエス達に大声で癒しを願いました。彼らは、重い皮膚病を患っていたので主イエスのそばに近付くことが出来なかったのです。

私たちはどうでしょうか。彼らと同じように、主イエスとの距離を感じることはないでしょうか。癒して欲しいと願いながらも、そこに行くには自分が相応しくない、こんな私みたいな者がが教会に行ってもいいのだろうか? クリスチャンでいいのだろうか。

こうしたことを教会来た最初の時に、そんなことを思ったことはないでしょうか。私たちもこの十人と同じ様に、主イエスとの間に大きな距離をもっていたのです。

十人は、声を張り上げて、主イエスに憐れみを願いました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」すると、主イエスは「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われました。彼らは主イエスの言う通りにしました。

彼らは、祭司の所へ行く途中、十人全員が癒されました。主イエスは「皮膚病が癒されよ」と言ったのではなくただ「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われただけなのです。

彼らは、まだ癒されていない。でも主イエスのお言葉に従った。そのとき癒されたのです。まさに決心の時、癒しが始まるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-07-12 07:19:53 (1364 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書17章1〜2節

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」

宣教題「つまずかせる人」   牧師 新保雅雄

「つまずく」とは、信仰の人生を歩んでいる人が、その道からはづれてしまうことを言います。キリスト教会も肉を持つ人間の集まりである以上、必ずしも理想的なことばかりは起こりません。

信仰を同じくすると思っていた兄弟姉妹の、ささいな言葉や行いによって、傷付けられたり、信仰を揺さぶられ迷う事が起こります。主イエスが「つまずきは避けられない」と言われる通りです。。

主イエスは、つまずきを起こさせる兄弟姉妹を戒めているのですが、その中でも特に、「小さい者の一人」をつまずかせることを戒めています。ここで言う小さい者とは、具体的には、弱い人、貧しい人、病気の人、困難や試練を抱えている人、あるいは、自分を守る力のない子どもたち、また肉的な欲求の強い人もそうでしょう。。

信仰的に強い人を中心にして教会があるとしたら、新来者はどうでしょうか。いろいろな宗教を渡り歩き、いろいろな人に相談をしたが、救われなかった。そんな人が最後にすがる様な思いで、教会の門をたたいた。自身の弱さゆえに、教会に居場所を見付けることが出来ず、また迷い落ちこぼれる。教会は、小さい者、弱い者、自分を守れない者こそが、中心であり大切にされる場所なのです。

だからこそ主イエスは、信仰の強い兄弟の言行で小さな者をつまずかせる人々に向かって「そのような者は、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましだ」と厳しく言われます。

私たちは、弱い兄弟姉妹にとって、その信仰の情熱ゆえにかえって「つまずきの石」になっていないでしょうか。教会は赦すところです。批判し裁くところではありません。私たちは、求道者の方のよき兄姉になっているでしょうか。心に留めたいお言葉です。感謝。


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