本日の聖書 マルコによる福音書5章12〜37節
汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
宣教題「一人の救いの為に」 牧師 新保雅雄
主イエスと弟子達は、嵐のガリラヤ湖を渡りました。着いた所は、ゲラサ人の地方と呼ばれる地です。主イエス達が舟から上がると、汚れた霊に取りつかれた人がやって来ました。この人は墓場を住まいとし、暴れるので縛られていた鎖を引きちぎって来たのです
汚れた霊は、舟から降りたばかりの主イエスに「いと高き神の子イエス、苦しめないでほしい」と願いました。しかし、主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と汚れた霊を叱りました。
汚れた霊は、かなわないと見ると、山で餌を食べていた2千匹の「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願ったのです。主イエスが赦され、汚れた霊は豚の中に入り、群れは一斉に崖を下って湖になだれ込み、全てが溺れ死んでしまったのです。
しかし主イエスが、この人を汚れた霊から救ったにも拘わらず、この地に喜ぶ人はいませんでした。そればかりか主イエスに向かって「この地方から出て行ってもらいたい」と追い出したのです。
嵐の荒波を越えて、この地に渡って来たのです。しかし主イエスが行ったことは、一人の男を癒すことだけだったのです。しかも、人から嫌われ見放されて墓場で暴れ騒ぎ続けていた男なのです。
主イエスは、激しい嵐を越えて命がけで渡って来られたのです。それも、たった一人の救いの為に。 ここに、神の愛があります。
人はこの人を嫌い恐れます。しかし主イエスは、この人を命を懸けて愛します。憎むのは人ではなく汚れた霊です。主イエスは彼の心の叫びを聞かれたのです。
本日の聖書 マルコによる福音書2章13〜17節
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
宣教題「愛は天から地へ」 牧師 新保雅雄
主イエスが収税所に来た時、そこに座っている徴税人レビ(レビは12使徒のマタイ)に「わたしに従いなさい」と声を掛けられました。すると、レビは立ち上がり主イエスの元に従ったのです。
徴税人は、当時のユダヤ人社会では、同胞より税金を不当に取り立てローマに通じている者として大変嫌われていました。そんな彼に声をかけられたことで、レビはうれしさのあまり、主イエス達を自宅へ招いて、他の徴税人達と共に盛大に食事会を開いたのです。
この様子を見ていたファリサイ派の律法学者は、弟子たちに「どうして、あなたの先生は、汚れた徴税人や罪人と一緒に食事なんかするのか」と批判しました。すると主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた
主イエスは、神の愛を知らない人、神の元に行くことの出来ない人、神の愛を信じることが出来ない人に、神の愛を伝え、苦しみから救い出す為に、天からこの地上に降って来られたのです。
しかしファリサイ派の律法学者は、正しく生きなければ神の選びを受けることが出来ない、善い人でなければ救いはないとして自力で神の愛を手に入れよう、努力で天に登ろうとしていたのです。
神の愛は、善の先にあるのではない、天の高いところの修行の先にあるのでもない。むしろ世の底辺で苦しむ人々、罪の中でもがく人、孤独の中に天から降って来られたのです。しかし、自らを高めることで、神の国へ行こうとした人々は、降って来られた神の子イエスと、残念ながら行き違いになってしまったのです。
本日の聖書 マルコによる福音書2章2〜5節
「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」
宣教題「信仰による祈りは人を救う」 牧師 新保雅雄
主イエスがシモンのしゅうとめの熱を癒したあとの出来事です。病を癒し悪霊を追い払う主イエスのうわさは、ガリラヤ中で評判になっていました。そのため主イエスがこられると、病を癒して欲しい人、神様の国のお話を聞きたい人々が沢山押し寄せました。ここカファルナウムの滞在する家でも、中に入れない人々が家の戸口の外までいっぱいでした。
そこへ四人の男性が中風の人を運んで来たのです。その人は自力で歩くことが出来なかったからです。四人の友人は、中風の友人を、何とか主イエスに癒して欲しいと、この人を運んで来たのです。
玄関の周りには、沢山の人がいて家の中に入る事が出来ません。すると四人の友人は、この家の屋根の上に登り、屋根をはがして穴をあけ、床ごと寝ている病人を主イエスの前に吊り降ろしたのです。
この四人の友人は、見ず知らずの他人の家の屋根をはがしてまでも、病の人を主イエスの所へ連れてきたのです。きっと主イエスなら、この人を癒してくださるに違い無いと信じていたのです。
主イエスは、この四人の行動に心動かされ、病の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われ病気を癒されたのです。主イエスは、この病人本人の信仰によってではなく、この病人を連れて来た四人の友人の愛の行動に心動かされ救いがもたらされたのです
私たちの愛する隣人に信仰がないとしても、私たちの信仰による祈りと行動によって、主イエスを知らない友人をも癒されるのです。
本日の聖書 ルカによる福音書17章20〜21節
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
宣教題「神の国はあなたの中に」 牧師 新保雅雄
ファリサイ派の人々が、主イエスに対して「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられました。
心の目を開いて、よく見るならば神の国は、もう既に、あなたのそばに来ているのだ、と言われている。主イエスの福音を聞いて、主イエスの奇跡の業を見る時に、神の国は、ここにあると確信できるのです。つまり、あなたの思いの中に神の国を確信できるのです。
問われているのは、主イエスを通して現わされる神の国を、どのように、あなた自身が受け止め、感じ取るか、ということが大切なのです。主イエスの福音を二人の人が聞いても、一人は、「神の国が来ている」と受け止め、もう一人は残念ながら「神の国など信じられない」と思うのです。
この世を生きる限り、誰にも艱難辛苦が訪れます。この艱難が、苦しいだけで何の意味も無いとしたら、艱難に耐えることの意味とは何でしょうか。それよりずるがしこく生きる方が得に思えてしまう。熱く過酷な砂漠の先に水をたたえた泉湧く緑のオアシスがあると確信するなら、歩くことにも意味があり耐えられるでしょう。
主イエスと共に歩むならば、今の苦しみも意味の無いものではありません。信じて歩むなら苦しみの先に神の国の喜びがあります。今のあなたの苦しみは、大きな喜びが待っている産みの苦しみなのです。その時、艱難は苦しみではなく試練に変わるでしょう。
本日の聖書 ルカによる福音書17章11〜14節
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
宣教題「御言葉に従う」 牧師 新保雅雄
主イエスと弟子達がエルサレムへ向かう途中の村でのことです。重い皮膚病を患っている十人の人たちが、遠くの方に立ち止まったまま、主イエス達を出迎えました。彼らは、重い皮膚病、当時は伝染する不治の病として、村人に近づくことが出来ない。当然、主イエスのそばに近付くことも出来なかったのです。
私たちはどうでしょうか。彼らと同じように、主イエスとの距離を感じることはないでしょうか。癒して欲しいと願いながらも、そこに行くには自分が相応しくない、こんな私が教会に行ってもいいのだろうか? 私のようなものを神様は、歓迎するだろうか?
初めて教会へ来たころを思いだします、私たちもこの十人と同じ様に、主イエスとの間に大きな距離があったのではないでしょうか。
十人は、声を張り上げて、主イエスに憐れみを願いました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」すると、主イエスは「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われました。そして主イエスの言う通りに祭司の所へ向かいました
すると祭司の所へ行く途中、十人全員が癒されたのです。主イエスは「皮膚病が癒されよ」と言ったのではなく、「手を触れ癒された」のでもない、ただ「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と、それも遠くの方から声をかけられただけなのです。
彼らは、主イエスのお言葉に従った。そのとき重い病、不治の病が癒された。主イエスのお言葉に従った時、奇跡がおきた。
