本日の聖書 コリントの信徒への手紙第一15章50節〜
わたしはあなたがたに神秘を告げます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
宣教題「死は勝利にのみ込まれた」 牧師 新保雅雄
本日の礼拝は、我らの大先輩である松田勇雄兄(2014年6月27日召天)の召天1周年の記念礼拝と致します。松田勇雄兄は、板橋教会の創立時1999年からのメンバーです。右も左もわからない私たちをいつも祈り支えてくれました。信仰者として、人として沢山のことを、学ばせていただきました。ありがとうございました。
車で自宅へ送ったときいつもミルクティをくれました。子供がいるときはお菓子を買ってくれました。中国語で一生懸命祈ってくれました。意味は分からないが心を打ちました。入管へ行ったときご自分のバスの席を私に勧めてくれました。青梅へ行くときみんなの飲み物を買ってくれました。入院して教会へ来れないとき私の手を握って頭を深く下げて謝っていました。そして早く教会へ行けるように祈ってくれと、涙を流して私に訴えていました。
松田さん、沢山の愛をありがとう。天から祈って下さいね。
召天者記念礼拝というのは、主に3つの意味があります。今朝はコリント第一の手紙から学びたいと思います。
1番目は、亡くなった方が、今、安らぎの中におられる確信。
愛する者が、そこで安らぎを得ているという事を知るならば、私達のこころは癒され寂しさは少し軽くなるでしょう。
2番目には、私達の愛する方が生前語ってくれたことから学ぶ。
先人たちがその信仰の人生で、私たちに何を語られ何を残してくださったか。振り返り生きるヒントにしたい。
3番目に"死"とは、必ず誰にでもやってくる。
その為の備えをしっかりとしていくことが大切です。その時の備えがあれば、どこに行くのか恐れと不安でまよってしまわないように。
本日の聖書 ルカによる福音書14章24節
「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」
宣教題「主はあなたを招く」 牧師 新保雅雄
ある主人が宴会を開
主人は、招待した人々の到着を楽しみに待っていました。しかし、招待した人達は、全員断ってきたのです。主人は怒って僕に命じました。「急いで町の広場や路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさい。」
さらに、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ」と命じたのでした。誰でも良いから無理にでも連れて来いと主人は命じたのです。
この喩えは、神の国に入れる人は誰かということです。神の国に入れる人は、神の招きを断らない人たち、用事や都合があったとしても、神の招きに応じる人たちなのです。
更に神は、神の国へ誰でも招いておられることが解ります。もし、神の国に入ることが出来ない人がいるならば、その人は、神から招かれなかったからではなく、せっかく神に招かれているのに、様々な理由を付けて、招きに応じようとしなかった人なのです。
では私たちは、どうでしょうか。神の招きに素直に応じているでしょうか。神は、私たちを神の国へと招くために、主イエスを、神の招きのメッセージを携えて、知らせに来てくださったのです。
主イエスを通して語られる神の招きの言葉を、私たちは、どう受け止めているでしょうか。今日、この礼拝の席に座っていることは、神の招きに応じていることの証なのです。
本日の聖書 ルカによる福音書14章5節
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」
宣教題「解放2」 牧師 新保雅雄
主イエスは、安息日にファリサイ派の議員に、食事の招待を受けました。議員の家には律法の専門家やファリサイ派の議員達が、大勢集まっていました。その中に水腫を患っている人がいました。
この病人が、ここに招かれたのは、安息日に主イエスが、この人に対して癒しを行うかどうか、その様子をうかがう為だったのです。
主イエスは、その邪悪な心を見ぬいて彼らに言いました。
「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙って一言も答えませんでした。主イエスは、水腫を患っている人を癒され、議員の家から送り出してしまいました。
あらためて主イエスは聞きました。 5節「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」彼らは何も答えることが出来ませんでした。なぜなら認めざるを得なかったからなのです。
誰でも愛する我が子を助けようとします。もしそれが、律法違反だとして非難されても、自分が裁かれ罰せられたとしても、助けようとするでしょう。彼達は、他人には、律法厳守、信仰第一と教えているが、自分の愛する子供だったらどうするでしょうか。
私達も信仰の弱い人に「クリスチャンのくせに」そう思うことはないだろうか。このことが、どんなに人を縛っているか。相手が抱え込んでいる痛みも知らずに、ただ頭ごなしに信仰を押し付けることは、傷口に塩をすり込むようなものです。
自分では、どうしょうも出来ないからこそ、教会にすがる。その人を、主イエスの愛から引き離す結果になっていないだろうか。 主イエスが招かれたのは、律法を守れる人、罪のない人、立派なクリスチャンではありません。神の憐みにすがる人たちです。
本日の聖書 ルカによる福音書13章10〜12節
「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」
宣教題「解放」 牧師 新保雅雄
ユダヤ教の安息日の教会です。この教会には、18年間腰が曲がった病気に苦しんでいる婦人がいました。主イエスは、この婦人を呼び寄せ「婦人よ、病気は治った」と言われ、その腰に手を置かれると、曲がった腰がまっすぐに伸びたのです。婦人は大喜びし神を讃美しました。18年間という長い苦しみから解放された瞬間です。
しかし、それを見ていた会堂長は、安息日に婦人を癒したことに腹を立て「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言ったのです。
会堂長にとっては、人が癒され、苦しみから解放されることよりも、安息日が守られることの方が、重要だったのです。礼拝(安息日)を守る事や律法を守る義務感の方が、癒しより優先したからです。
18年間病に苦しんだ婦人。教会に来れば、この苦しみから解放されるかもしれない。そう信じて礼拝に来ているのです。私たちも、この会堂長のようになってはいないでしょうか。
義務感で礼拝を守っても、奉仕をしても、良い行いをしても、そこに本当の喜びの讃美は生まれません。18年間苦しんだ女性が、思わず神を讃美した思いや喜びを知る事は出来ないでしょう。
今日の教会で覚えることは、主イエスが十字架で死んで三日目に復活された、このことによって、私たちは、罪の鎖から解放され、赦され、救われているのです。罪の束縛から解放するために、十字架の死と復活があるのです。
本日の聖書 ルカによる福音書13章33節
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」
宣教題「主の道」 牧師 新保雅雄
主イエスと弟子達の前に、ファリサイ派の人々が近寄って来ました。ファリサイ派の人々とは、主イエスを心よく思っていないユダヤ教の一派で、主イエスを十字架刑へ送ったのはこの一派です。
しかしここでは、ファリサイ派の人々は、一転して主イエスに危険が迫っていることを教えに来たのです。当時、ガリラヤを治めていた王ヘロデが、主イエスを殺そうと狙っているということでした。危険なので早くここを立ち去り逃げるようにと教えに来たのです。
自分を殺そうと付け狙っている人が、あなたの元へ来るということを聞いたら、普通なら逃げようとするのではないでしょうか。しかし主イエスは、逃げるどころか全く動じませんでした。そして、ヘロデを狐とよんで、ご自分の進む道を、はっきりと示されました。
そしてファリサイ派の人々に向かって「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」と言われるのです。
悪霊に取り付かれた人から悪霊を追い出し、また病気に苦しむ人をいやし解放しました。そして全ての人の罪を赦す為、十字架の待つエルサレムへ向かう。これが主イエスの進む道なのです。
世のどんな権力者の脅しにも屈せず、今日も明日も、次の日もいつも通りに、人を救う道を歩き続けるのだと、主イエスは言われる。
主イエスは、どんなに強い権力を持つ、自分を付け狙う者にたいしても、全く動じないで、今やるべき事を優先されました。それが主の道です。
自分の命よりも今最も愛を必要としている人、救いを待って苦しんでいる人、そこが主の道なのです。どうか私たちも世の目を恐れずに、主の歩かれた道を従いたいものです。