本日の聖書 マタイによる福音書13章47節
「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」
宣教題「神は、全ての魚を集められる」 牧師 新保雅雄
きょうのたとえ話は、「天の国は次のようにたとえられる」ということで始まり、海に網が打たれるたとえになっています。
47節「いろいろな魚を集める」、ここは原文では「いろいろな魚」ではなくて、「すべての種類の魚」となっています。そこに天の国、神様の世界、神様の救いの世界のすばらしさが、あらわれているのです。
海に網が投げられる。その網の中に入っていた魚とは、神の網によってとらえられ、教会へと導かれた人々のことを指しています。そして、その神の網の中には、すべての種類の人々が入っていたのです。
教会にもいろいろな人が導かれます。世間の人から見れば、「教会とは、聖人君主のような、真面目で善人な、心の清らかな人の集まりだ。」と思っている人がいます。そう思う人が教会に来て、がっかりする場合が多々あります。「なんだ教会も世間と同じですね。」というのです。
主イエスが言われるように、この網は、「あらゆる種類の魚」が捕らえられているのです。伝道とは神の行う業です。ですから、神様がいろいろな人々をとらえてくるのです。神様は、「この人は教会にとって大切だから捕まえて網の中に入れよう。」「この人は教会にふさわしくないから、網の中に入れない。」などと人を選んだのではなく、何の差別もしないのです。すべての人に網をかけ、教会へ導こうとされているのです。
ですから教会にも、この世と同じように、様々な人がいます。当然全ての人が導かれたのです。だから、教会は清廉潔白、聖人君主の集まりではありません。そういう意味では、世間と同じです。だから「こんな不純な私でも救われる」ことが出来るのです。
今日あなたは神の網によって教会に導かれました。是非、神の愛のすばらしさを信仰によって体験してください。必ず救われます。
本日の聖書 マタイによる福音書13章44〜46節
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。" 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
宣教題「全てを献げる」 牧師 新保雅雄
ここには二つの天の国の例えが語られている。最初の天の国は「畑に隠された宝のようなものだ」です。畑で宝を発見した最初の人は、それを全部自分のものとしようとする。それで、宝を再び土の中に埋め戻し、何食わぬ顔して一旦帰る。その後、自分の財産をすべて処分して、その畑ごとそっくり買ってしまう。
次の天の国は「良い真珠を捜している商人のようなものだ」です。この真珠の商人は、良い真珠を探し歩いていました。そしてついに最高の真珠を見つけたのです。そこで彼は、持ち物を全て売り払って、その最高の真珠を買ったのです。
両方に共通しているのは、「全財産を売り払って買う」ということです。「天の国」とは、そのようなものであると主イエスは言われています。天の国とは、イエス・キリストのことを言われています。
イエス・キリストの愛を知るとき。この社会という大きな畑のような所で、宝物を見つけた時のように。あの商人が最高の真珠を見つけた時のように。今あるものを全て捨て去っても手に入れたい。そんな何ものにも代え難い天の国、イエス・キリストの愛。
私たちは、信仰というのは「差し出す」ことではなく、「いただく」ことであると思っていないでしょうか。私たちが主イエスを信じるとき、私というものを神様にお献げすることから信仰は始まる。
つまり「自己を捨てる」ことなのです。私を献げること、信頼して委ねること、天の国とは、この信頼関係で出来上がっているのです。
本日の聖書 マタイによる福音書13章29節
主人は言った「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」
宣教題「あなたは大切な一本の麦」 牧師 新保雅雄
畑に良い種が蒔かれました。その夜、闇に紛れて悪魔がやってきて、毒麦の種を蒔いていきました。時が立ち、両方とも成長する。やがて穂がつき始める。そこで初めて、毒麦が混ざって生えていたことに気がつく。農夫達は、大変だ、すぐ抜かなくてはならない。世の常識で考えれば、毒麦が生えている、と分かった時点で一気に刈り取るでしょう。
「毒麦」、これを食べると食中毒をおこす恐ろしいものです。当時は、死ぬ者もいたことでしょう。農夫は、主人に言います。「今すぐに毒麦を抜きに行きましょうか」。ところが、この主人は、「毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜くかもしれない。だから毒麦を抜かないで、そのままにしておきなさい。」こう言うのです。
この「主人」とは、神様のことです。なぜこの主人は、毒麦だと分かった時点で、毒麦を抜かないのでしょうか? 早く抜かなければ、他の良い麦の生長にも悪い影響を与えます。それに毒のある麦ですから、わかった時点で、早く引き抜かなければなりません。しかし神様は、抜かないで、刈り入れのときまで、そのままにしておけと言うのです。
ここに「神様の愛」があります。毒麦を抜くときに、間違って良い麦も一緒に抜かれてしまうかもしれない。たった1本の麦さえも、誤って抜かれてしまうことがあってはならない。私たち一人一人は、神さまにとって、大切な1本の良い麦なのです。しかし農夫は、良い麦を守るには、多少の犠牲があっても、今のうちに抜いてしまおう。そう思ったのです。
1本でも間違って抜くことがないように。待ってくださる神の愛。今私たちには、困難や試練もあるかもしれない。あるいは毒麦に毒されているかもしれない。しかし、愛されているのです。神さまは、確かに愛する良い種を蒔かれたのです。そのことを信じてください。その時が来れば、あなたは必ず神の御国へと救われます。
本日の聖書 マタイによる福音書13章10〜13節
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」
宣教題「御国の秘密を知る者たち」 牧師 新保雅雄
先週は、主イエスが「種を蒔く人」のたとえ話しをされました。そして「種を蒔く人」のたとえ話の説明を、弟子たちだけにされています。
弟子たちには、たとえの説明をし、そのほかの群衆には、たとえを語ることだけで終わっているのです。主イエスは、弟子たちと他の人たち、群衆との間に、なぜ違いを設けているのでしょうか?
11節で、「天の国の秘密」という言葉を主イエスは、使っています。秘密というものは、みんなが知っていたら秘密になりません。一部の人だけが知っているから「秘密」なのです。主イエスの言われる「秘密」とは、神の御子イエス・キリストによって人類が救われるという、神さまの御計画のことです。
もっとストレートに、「わたしがキリストだ」「聖書が預言しているのはわたしのことだ」「わたしが神の子だ」と、言わないのでしょうか? それは、彼らが「理解できないから」だと、主イエスは言われています。では弟子たちと群衆の違いは、なんでしょうか?
群衆は、目的を果たすと去っていきます。病気を癒してもらったら、主イエスのもとを去って帰っていきます。しかし弟子たちは、そうではありません。主イエスの周りにいつもいました。彼らは神を求めていたのです。御国を求めていたのです。癒しは通過点なのです
弟子たちは、癒された側から、癒す側になっていきます。そのためにはイエス・キリストは、神の御子である確信が必要なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書13章1〜9節
イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
宣教題「私の心が良い土地になりますように」 牧師 新保雅雄
今朝のたとえ話は蒔かれた種のお話です。おそらく種とは、小麦のことでしょう。パレスチナでは畑に種を蒔くときに、乾燥しているので深く耕さないで、種を蒔いてあとから土をかけていくそうです
ここで言われる「種」とは御言葉のことです。「畑」とは、私たちのことです。つまり主イエスが私たちに聖書を通して御言葉を語るということです。そしてその種は、いずれ百倍、六十倍、三十倍の小麦の実を付けるのです。ですから、あなたの心にまかれた(語られた)御言葉にも大きな力があるのです。
しかし蒔かれた種が全て順調に育つわけではありません。あなたの心のあり方、信仰によって違うのです。「道端に落ちた種」のように、すぐに鳥が来て食べてしまう。聴くだけで留まらない人。
「石だらけで土の少ない所に落ちた種」のように、すぐ芽を出し受け入れるが、土が浅く根がないので、艱難があると直ぐやめてしまう。また「茨の間に落ちた種」のようにとは、種と一緒に茨も伸びていく、世の思いへの欲望が信仰の芽を妨げてしまう。
そして「良い地に落ちた種」は、御言葉を聞いて素直に受け入れる人である。その人は、一粒の種が百倍、六十倍、三十倍にもなる収穫を与えられるのです。主イエスの御言葉には、大きな力があります。私たちが、御言葉に聴き従い、それに従っていくならば、大きく豊かな実を結びます。今日あなたに種は蒔かれました。あとは種の力を信じてすべてを委ねて下さい。希望の人生が待っています。