本日の聖書 マタイによる福音書3章15節
イエスはお答えになった。『今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
宣教題「告白と赦し」 牧師 新保雅雄
キリスト教会には、聖餐式と洗礼(バプテスマ)という二つの聖礼典があります。今朝は、新しい信仰の人生の出発となる洗礼について学びます。その洗礼の起源(キリスト教)ですが、主イエスが最初に弟子に洗礼を授けたのが始まりと思いがちになりますが、そうではなく、その逆で、主イエスご自身が洗礼を受けたという出来事が、伝道の開始に先立ってあったと、マタイ福音書は記しています。
つまり主イエスが、キリスト教の洗礼を制定する前に、主イエス自身が受洗したことが、キリスト教の洗礼の起源にあるのです。
ヨルダン川で洗礼を施していた洗礼者ヨハネも、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」と私たちと同じ疑問を持って聞きなおしています。
では、主イエスは、悔い改めのバプテスマを必要としたのでしょうか? 決してそうではありません。パウロが「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」と言っています。主イエスは罪と無縁なのです。主イエス自身に罪がないからこそ、私たちの罪を身代わりとして罪を贖うことができたのです。
ではなぜ主イエスは、洗礼を受けることを望んだのでしょうか?
悔い改めを必要としている、罪に苦しむ私たち罪人、その列の中に入って下さり、先頭に立って、みずから洗礼を受けられたのです。
天の高いところから悔い改めを迫ったのではありません。あなたの中におられるのです。ここに「神の愛」があります。
ヨハネの洗礼には、罪の告白はありましたが、罪の赦しを得させる力まではありませんでした。主イエスの洗礼は、あなたの罪を赦し、そして新しい命へと続く為の、救いの力があるのです。
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者達が東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
宣教題「あなたの宝の箱を開けなさい」 牧師 新保雅雄
メリークリスマス!
聖書には、クリスマスの物語が二つ記されています。一つは、羊飼いです。羊飼いは、野宿をしながら徹夜で羊の群れの番をしていました。すると天使が現れ、主の栄光が光り輝き、暗がりを照らし出した。そう人里離れた暗闇の中、孤独の中に羊飼いはいたのです。
もう一つは、東方の占星術の学者達です。彼らは、遠くの国から星に導かれてエルサレムにやってきました。星に導かれるままベツレヘムの幼子を見つけ出しました。そこには、幼子が母マリアと共にいました。学者たちは、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げたのです。
わたし達も今日クリスマスに、この場所に導かれました。それぞれがいろいろな思いを抱えてこの場所にいます。私たちは今日何を携えて、この場に導かれたのでしょうか。
あなたの宝の箱には、何が入っていますか? 宝物とは金銀宝石だけではありません。あなたがつかんで決して離せないものが、あなたの宝物です。怒りや恨み、憎しみ、悲しみ、寂しさ、不安、弱さもまた宝物なのです。御子イエスは、あなたの献げ物を喜んで受け取ってくださいます。よいものばかりが、心の中に入っているとは限りません。でもそれでいいんです。大切なことは、心の箱を開けて全ての思いを御子イエスの前に差し出すことなんです
本日の聖書 ヨハネによる福音書17章1〜3節
「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
宣教題「時が来ました」 牧師 黒瀬 博
クリスマスおめでごうございます。イエス・キリストは十字架を前にして「時が来ました。」と語られました。時は平凡に流れるものではありません。決定的時が必ずやってきます。十字架はその時だったのです。
同じように、歴史の中にも時がやってきます。イエスのご降誕は歴史における「時の到来」です。旧約聖書と言う長い歴史の準備のもとで、イエスは神のご計画に基づき、この地上にやってこられました。讃美歌の中で「天下る」とうたわれていますが、まさに天から下られたのです。
神の御子の誕生ですから、王宮とか、きらびやかな場所で、多くの人々に歓迎され、祝福され産まれてもよかったのでしょうが、実際は、馬小屋の中で、羊飼いと東から来た博士たちというわずかな人にお祝いされてお生まれになりました。しかも、その後の人生は、神の御子と言うにはあまりに貧しい、厳しいものでした。あらゆる苦難を経験し、最後には十字架にかかり、亡くなられました。これが神の御子なのでしょうか。驚くべきことに、このお方が神の御子だったのです。
人間の知恵では判らないことですが、神のご計画として、この世の罪、けがれ、苦しみをイエスはすべて一身に背負って、そのすべてを十字架で滅ぼされました。それは大きな苦難でしたが、その代わり、人間はすべての苦難から解放され、罪も許され、神の祝福を得ることが出来るようになりました。私たちの幸福は、イエスキリストのおかげです。
救い主イエス・キリストの誕生日が一年でももっとも暗い12月25日であったことは、まことにイエス・キリストの使命と一致しています。
これより暗い日はない日にお生まれになり、これより苦しんだ人はいないほどの苦しみを受け、これから明るくなる、これから苦しみがなくなるというメッセージを残してくださったのです。私たちも、クリスマスをお祝いするとともに、これから私たちの人生が明るくなる、苦しみも無くなると信じて、お祝いしたいと思います。
本日の聖書 マタイによる福音書5章43、44節
「あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
宣教題「愛とは」 牧師 新保雅雄
本日の聖句は、「隣人を愛し、敵を憎め」です。 律法に関する主イエスの教えも、最後の6番目になります。愛するということ、とても大切な聖句です、いつも心に持ちたいものです。
「敵を憎め」という言葉は、「隣人を愛せ」という教えの裏返しとして、人の心に潜む思いと言えるのでは、ないでしょうか。ともすると、私たちは、自分の中で、隣人と敵との線引きをしたがるものです。
そして、隣人と認めた相手に対しては、愛そうとするが、敵だと認識した相手のことは、何があっても相容れない思いが心の中にあります。
主イエスは言われます。天の父である神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」
神は、悪人も、善人も分け隔てされません。正しい者と、正しくない者も、同じように愛してくださるのです。
もし、神が、善人にだけ、太陽を昇らせるとしたならば、一体、世の中でどれ程の人が、太陽の光を浴びることが出来るのでしょうか。
また、神が、正しい者にだけ、雨を降らせるとしたならば、どれ程の人が、恵みの雨を浴びることが出来るのでしょうか。
神は、この世の全ての者を愛しておられます。だからこそ、神は、悪人にも善人にも、分け隔てなく太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださるのです。
「神は、人を分け隔てされない。だから、あなたがたも、分け隔てすることなく、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われる。神が愛されている者を、なぜあなたが分け隔てする事が出来るのでしょうか。全ての人は、神の大切な子なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章38、39節
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
宣教題「左の頬を向けなさい」 牧師 新保雅雄
本日の聖句は「目には目を、歯には歯を」という信仰者でなくとも知っている有名な教えです。この戒めは、しばしば報復や復讐を助長する戒めとして誤解されています。しかし、この御言葉は、報復や復讐に歯止めを掛け、一定の限度を設けることが目的なのです。
目に危害を加えられた場合には、相手の目に危害を加える以上のことをしてはいけない。歯に危害を加えられた場合にも、相手の歯に危害を加える以上のことを、してはならないということなのです。
人間の怒りというのは、勢い余ってしまうものです。相手にやられた以上に、報復しようとします。一発殴られたら、三発にして殴り返す。目に危害を加えられたら、耳にも口にも危害を加えようとする。
そうなれば、相手も黙ってはいないでしょう。それ以上に、やり返して来る。そうしてエスカレートして、悲惨な結果を招くことになるのです。
これに対して、主イエスは、「しかし、わたしは言っておく」、「悪人に手向かってはならない」言われます。すなわち、復讐、報復の程度問題でなく、復讐、報復そのものを、主イエスは禁じられたのです。
この後、具体的な例を挙げられました。その一つ、右の頬を打たれたならば、叩き返すのでなく、左の頬をも向けなさいと言われます。
その姿は、十字架に向かう主イエスの姿を思い起こさせます。馬鹿にされても、唾を浴びせられても、主イエスは、逃げ隠れすることなく、ひたすら、十字架への道を歩み切られたのです。その時何が起きたのでしょうか。救いが完成するのです。