本日の聖書 マタイによる福音書7章3節
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」
宣教題「自分の目の中の丸太」 牧師 新保雅雄
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」 7:1 私たちは、ともすると、自分のことは棚に上げて、人に対して、あれこれ注文を付けたり、批判したりしがちです。我が身を省みないで、人への攻撃を強め裁いてしまうことがあります。
あるいは、相手が立ち直れないほどに、キツイ言葉を浴びせ掛け、傷付けてしまうことさえあります。また今にも噛み付きそうな態度を取ることもあるのです。忙しいとき、嫌なことがあったときには、特に、相手のちょっとした言葉や態度に、イライラしたり、ムカムカして、相手との関係を崩してしまうほど、相手に攻撃的になることもあるのです。
ところが、そんな私たちに向かって、主イエスは、こう言われました「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」7:3 主イエスは、このように、自らを省みることなく、人を裁くことばかりに熱心な者に対して、「偽善者よ」と呼び掛けています。
この丸太は、自らの過ち、欠け、罪の象徴です。しかし、悲しいことに、私たちは、目に突き刺さっている丸太が象徴する、自らの過ち、欠け、罪に、なかなか自分では気が付かないのです。
そのくせ人の目の中の小さなおが屑には、遠くからでも気が付くのです。正に人に厳しく自分に甘い姿が、ここにあるのです。理想的には、自分に厳しく、人には寛容で大らかな態度を取ることでしょう。そうは行かなくとも、少なくとも、相手に対する厳しさと同じ程度には、自分にも厳しくなければ、バランスを欠くでしょう。
本日の聖句は、いつも心に留めておきたいものです。裁くのは、あなたではなく、神のものです。人を裁く時、自身が神になっている証です。
本日の聖書 マタイによる福音書6章19節
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」
宣教題「富のあるところに心もある」 牧師 新保雅雄
本日のメッセージ テーマは、富についてです。富に対する思いを見るとき、その人の人間性が、露骨に現れます。お金や財産など、興味が無いように見える人でも、お金や財産が舞い込むと、清廉潔白であり続けることが出来ないのではないでしょうか。
それまで経済的に苦しい生活をしていた人でも、大切なお金や財産が「飲む、打つ、買う」に散財されてしまう。そんな人を何人も見て来ました。それがクリスチャンならば、なおさら残念なことです。
富について、主イエスは、二つのことをお教えになりました。一つ目は、富を地上ではなく、天に積むようにということです。
なぜなら地上に積んだ富は、虫が食ったり、さび付いたりして、価値が失われる、また泥棒に盗まれる危険もあるというのです。
現代社会においては、富、財産を守ろうとしても、思わぬ出来事、想定外の事件に巻き込まれて、あっけ無く、富、財産を失うことも有り得るのです。また欲望に襲われ食べられてしまうこともあります。
これに対して、天に積んだ富は、虫が食うことも、さび付くことも、盗まれることも無いと言うのです。天に積んだ富とは、既に、神の御手の中にあるからです。この天にこそ、富を積むようにと主イエスは言われます。天にこそ、心を向け、ここに富を積むようにと言われるのです。
今日の糧は、天よりの恵みである。生かされていることに感謝。これこそ天に富を積むことになるではないでしょうか。富が感謝になる。
大切なことは、心を天に、神に向けて生きることです。富とは、何も金銀財宝だけではありません。あなたが大切に汗水たらして手に入れたものです。主イエスは「私たちの富のあるところに、私たちの心もある」と言われました。あなたの富は、何ですか、そしてどこにありますか?
本日の聖書 マタイによる福音書6章16節
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」
宣教題「断食」 牧師 新保雅雄
主イエスの時代、断食は、施し、祈りと共に、信仰生活において欠かすことのできない、大切なものでした。断食は、食事を断つことによって、神に思いを集中することです。
このように本来、断食とは、「何を食べようか」、と思い煩うことなく、神に心を向けるために行なわれてきました。ところが、いかにも、「自分は断食しています」、「苦しいけれども頑張っています」と、自分の信仰を誇らしげに見せるような、わざとらしい断食がされました。
実際は、それほど苦しくも無いのに、人の注目を集めようと、わざと、大げさに見せかける断食です。 主イエスは、こうした見せかけの、「断食」に、「彼らは既に報いを受けている」と言われます。
既に、主イエスは、人に見せびらかす施しや、人に見せびらかす祈りを戒められました。そして、ここでは、人に見せびらかす断食を戒められたのです。神に対してされる信仰が、人に対してされてしまうのです。
主イエスは、断食する時には、頭に油をつけ、顔を洗いなさいと言われました。つまり、たとえ断食する時にも、普段どおりの、さり気ない格好で行いなさいと言われるのです。
そして本当に苦しい時、本当に辛い時には、顔つきや格好を気にする必要はありません。沈んだ顔つきのままで、見苦しい顔のままで、髪振り乱したままでも、着の身着のままで神に助けを求めて良いのです。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」9:12と主イエスは言われています。救急車で病院に運ばれる時に、着替えたり、化粧する必要はありません。神に助けを求める時にも同じです。信仰は人に見せ人が評価するのではなく、信仰とは、神の恵みなのです。
本日の聖書 マタイによる福音書6章9節
「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように」
宣教題「私たちの父よ」 牧師 新保雅雄
主の祈りは、主イエスが弟子たちに教えられた祈りです。主イエスご自身が祈り、また、弟子たちにもこように祈りなさいと教えてくださった祈りです。以来、約2千年に渡りキリスト教会は、繰り返しこの主の祈りを祈り続けてきました。時代を超え、場所を超え、宗派を超え、同じ祈りを祈り続けて来ました。
この主の祈りは、神への呼び掛けと、それに続く6つの祈りから成っています。まず、神に対して「天におられる、わたしたちの父よ」と呼び掛けています。神に向かって、親しく「父よ」と呼び掛けることから始まるのです。祈りは父と子の対話なのです。
そして「私たちの父よ」と呼び掛けるのです。つまり神は、自分一人の神でなく、「わたしたちの神」として呼び掛け祈るのです。つまり自分だけではなく、人のことを人と共に祈ることの大切さを言われています。 教会は常に兄弟姉妹の群れであるということです。
この呼び掛けに続いて、始めの3つの祈りは、神ご自身に対しての祈りです。そして、後の3つの祈りは、「わたしたち」に対しての祈りです。この順番が大切です。
ともすると私たちは、自分の祈り願いにばかり、思いが向きがちになります。自分のことばかり、神に言い立てたくなるのです。まず祈りにおいて大切なことは、祈られるべきは神であり、神に思いを向けることで、祈りが神との会話となるのです。
後半の3つの祈りは、「わたしたち」についての祈りです。「わたしたち」と祈る時に、どの範囲の「わたしたち」を思い浮かべることが出来るかが問われます。主の祈りが、私たちの親しい者だけなのか、あるいは世界のすべての人たちについてなのか?
本日の聖書 マタイによる福音書6章1節
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」
宣教題「神の目、人の目」 牧師 新保雅雄
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」主イエスは「善い行い」をすることについて、このように言われました。
「善い行い」と言うと、人に親切にするとか、世の中のためになることを行う、ということが思い浮かぶかも知れません。あるいはボランティア活動をすること、人助けだと考えます。
確かに、こうしたことも、「善い行い」だと言えるでしょう。ただ、主イエスの時代のユダヤでは、善行と言えば、「施しと祈りと断食」のことを意味しました。 つまり、善行とは、神を信じる人が、その信仰に基づいて実行すべきこと、信仰の実践を意味したのです。信仰を目で見える形で現すこと、これが善い行い「善行」なのです。
こうした善行は、自分の信仰を人の前で証明する機会なのです。ですから、自分はこんな立派な信仰を持っていると、人に主張し見せること、人目を気にしながら、善い行いを行うということが起こったのです。せっかくの善い行いが自分を誇る為に使われてしまうのです。
そこで、主イエスは、見てもらおうとして、人の前で善行をしないようにと言われたのでした。善い行いは、人に向けてではなく、神に向けて、行われるべきものである。つまり見える人ではなく、見えない神にと言われています。人は誰でも善い人に見られたい願望があります。
本日は、三つの善行の中の「施し」についてです。偽善者たちは、人からほめられることを望んで、会堂や街角で施しをするのです。 偽善者は、本来、目を向けるべき、施しを必要としている、貧しい人から離れ、回りの人の目に向けられます。そこには、「隣人を愛する」姿は、ありません。施しという行為は、本来、隣人愛から生じる優しい愛の行為である筈です。残念ながら、人は、外面で人を判断します。しかし神は、その人の見えない心の中の思いで判断します。