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板橋区仲町23−17
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投稿者 : church 投稿日時: 2015-09-06 07:19:37 (1014 ヒット)

 本日の聖書 ルカによる福音書10章30〜37節

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。ところが旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。さてあなたはこの三人のなかで、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った、「その人を助けた人です。」そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

宣教題「関わりを持つ」  牧師 新保雅雄

 マザー・テレサは訪問者に「すぐにお国に帰って、あなたの最も近いところから愛を行い、人を大切にすることから始めてください。愛は最も近いところから始まるのです」と答えたそうです。

私たちに最も近いところとは、どこでしょうか? 情報化時代です。地球の裏側のニュースでもリアルタイムで私達に届きます。遠い国の人たちの悲惨なニュースが届くたびに胸を痛めます。しかし、すぐ近くで苦しんでいる人の助けを求めている声に気づかず、放置してはいないでしょうか?

主が語られたエルサレムからエリコへの旅というのは、人生という旅を意味しています。人生の中で起きることを言われています。強盗に襲われて、半殺しにされ、道端に放り出された旅人とは、人生の旅の途中で疲れ倒れる人の姿です。わたし達は、たびたび人生の旅で、いろいろな苦難や困難、危険に襲われます。

この倒れた人を見て見ない振りをして通り過ぎていく同胞。そこに一人のサマリヤ人が通りかかりました。彼は異邦人でしたが、倒れた旅人に近寄って傷を洗い介抱し、宿屋に運び込んだのです。

主イエスの言う隣人を愛しなさいと言う『愛』とは、何なのでしょうか? 『愛』、それは関わりです。誰かと関わりを持つということなのです。まず、あなたの廻りを見渡してください。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-08-30 06:49:53 (904 ヒット)

 本日の聖書 ルカによる福音書4章18節

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

宣教題「憐れみの主」  牧師 新保雅雄

 主イエスは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。その後荒野での40日間に渡る悪魔の誘惑を終えられ、ガリラヤ地方で神の御国について宣教されていました。そしてご自身の故郷ナザレにおいても、神の御国について教えられました。

故郷ナザレでの第一声は、旧約聖書のイザヤ書を朗読され、このイザヤ書の預言にある通りに実現する。と言われたのです。

その預言の内容とは、「旧約聖書で約束されている救い主は私である。世からの解放、神への回復、欲望からの自由をもたらすために今日私は、ここに来たのだ。この預言の言葉は、私によって成就(実現)するのだ。」というものでした。

主イエスが、神から使わされた人々は「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」であり、社会的な成功者や地位を持った人、経済的に恵まれた人ではありませんでした。世の中の見方で「満足」している人たちには、主イエスの教えは、信じたくないものであり、必要性を感じにくいものでした。 

彼らの生活に主イエスの教えは、不自由を感じるものであり、耳に痛く腹立たしくさえ思うのでした。

皆さんは、主イエスの「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」の問いかけに、「私を憐れんでください。」と、うなずく事ができるでしょうか? 

「イエス様、こんなどうしょうもない私ですが、私を憐れんでください。」と言えた時、主イエスの救いは、あなたのすぐ近くにあります。主イエスは、そんなあなたを解放してくださるために、来てくださいました。主の祝福が豊かにありますように。アーメン。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-08-23 07:08:21 (957 ヒット)

 本日の聖書 ルカによる福音書18章15〜17節

「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。弟子達は、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」

宣教題「子供の様に」  牧師 新保雅雄

神の国とはなんでしょうか? 死んだ後に行く世界だけではありません。神の国とは「神が治める国、神と共にいる国」ということです。つまり神を信じる信仰の人生が、すでに神の国です。

あそこにあるここにあるというものではなく、神を信じたときが神の国なのです。じゃどうすれば信じられるのか?「子供のようでなければ、神様を信じることはできない」と主は言われています。

では「子供のように」とは、どういうことなのでしょうか? 純真、素直、無垢、このように思われがちですが、ホントにそうでしょうか? 主イエスは「子供のように純真で素直でなければ」などと言っていません。ただ「子供のように神の国を受け入れる者でなければ」と言っているだけなのです。 

子供とは、好きなものがあれば、理由抜きにとにかくほしい。行きたいところがあれば、とにかくいきたい。これだと思ったときに、他のものをすべて放り出してでも、それを求めて手を伸ばす。

ほしいと思ったら理由ナシに欲しいんです。「人の目や世間体」も何もなしに、ひっくりかえって大きな声で泣き出す。これが子供

大人になると世間体や社会的な常識、人の目、現実的な思い、つまり肉的なことから神を見ようとします。「お父さん、お母さんが好きだから、着いて行く。」たとえダメな親であっても子供から見れば、絶対的な信頼、安心、愛でつながっているのです。どんな時も父なる神でありたい。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-08-16 06:28:55 (975 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書15章4節

「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない

九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

宣教題「主はあなたを捜し出す」  牧師 新保雅雄

100匹の羊を持つ羊飼いが山から帰る途中、1匹の羊が迷子になってしまいました。さて、その時あなたなら、どうしますか?

残りの99匹を野原に残しておいてでも、その1匹を見つけ出すまで、捜し回らないだろうか、と主イエスは言われています。

この羊飼いにとって、今、心にあるのは、この見失った1匹の羊のことだけです。1匹の羊を見失ったことが、全てに勝るのです。

もう日が暮れたし1匹ぐらいしょうがないか。99匹もを置いておけない。明日にしょう。などとは考えられないのです。ただ、ひたすら、この1匹の羊のことが気がかりで捜し求めて行くのです。

そして、あちこち捜し回って、ようやく見つけだした。羊飼いは喜びのあまり、友達や近所の人々に「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と大声で呼び掛けるのです。

私たちならどうでしょうか? 子どもを迷子にした親は、自分が買い物に夢中になって、子どもがいなくなったのに気付かなかったくせに、迷子が見つかった時に「駄目じゃないか。離れるから迷子になるんだ。いつも言ってるだろう。ちゃんといなさい」と子供を叱りつける。良く見る光景です。でも駄目なのは親の方なのです。

しかし、この羊飼いは、見失った1匹の羊を必死に捜し回る。そして見つけた時に、叱るのではなく、心から喜び、友達や近所の人とまでも喜びを分かち合おうとする。ここに神の愛があります。

この見失った1匹の羊を捜し求める人とは、そう神なのです。

そして、見失った羊こそ、神から離れ罪の中に迷い込んだ、まさに私たちの姿なのです。神は何をさておいても、あなたを捜し出す。そして教会に導かれるとき、心から喜ばれる。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-08-11 15:38:39 (1046 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書15章20節

彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

宣教題「父のもとへ帰ろう」  牧師 新保雅雄

二人の息子を持つ裕福な父親がいました。弟の方が、父親に財産の分け前をくれるように願いました。どうせ父の跡継ぎは兄だろうからと思ったのでしょうか。財産の生前贈与ということです。

父親は財産の半分を弟に分けました。弟は、財産を持って遠い国に旅立って行きました。そして外国を渡り歩き、放蕩の限りを尽くし財産を全て使い果たしてしまったのです。

悪いことに、そのころ飢饉が起こり、食べ物もなく、さまよい歩きました。あまりの空腹に豚の餌のいなご豆を食べてでも、空腹を満たしたいと思ったほどでした。豚は、ユダヤ人が不潔と嫌う動物。その豚の餌でもいい。ユダヤ人としてのプライドを捨てたのです。

こうした悲惨な状況の中で、弟は、ようやく目が開き、幸せとは何かに気が付いたのです。父親のもとにいたときの生活を思い出し、家に帰ることを決断しました。

放蕩の限りをし尽くし全財産を使いはたし、天に対しても、父親に対しても罪を犯しました、息子と呼ばれる資格は無い、雇い人の一人として働かせてくれるように言おう。覚悟を決め、父親のもとへ向かいました。すると、自宅からまだ遠く離れているのに、父親は、弟を見つけ、憐れに思い、走り寄って迎え入れ、何も聞かず只思いっきり抱き締めたのです。

ここに、神の愛が示されています。天の父は、悔い改め立ち帰る者に何も言わず、無条件で迎え入れてくださるのです。「何をしていたのか、このばか者めが!」と非難することもなく、説教する事もなく、とがめもしない。ただ心からの祝福をくださるのです。


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