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板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-25 07:24:57 (910 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書2章9〜11節

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

宣教題「あなたを導く星」     牧師 新保雅雄

メリークリスマス!

クリスマス、おめでとうございます。全世界でキリストのお祝いがされています。私たちもその中にいること感謝です。

イエス様がお生まれになぅた所は、家畜小屋でした。そこは門も鍵もありません。誰でも、入ることのできる場所でした。そんなところにイエス様は、キリストとしてお生まれになったのです。

救い主、イエス・キリストが、誰でも会うことのできる家畜小屋でお生まれになったのに、実際に会いに来たのは、東の国からやって来た博士たちと、野宿をしていた羊飼いたちだけでした。キリストに会うことができた人と、会えなかった人がいたのです。

聖霊によって、主イエスが今も生きておられるならば、その主イエスにお会いするには、どうしたらいいのでしょうか。つまり救われるにはどうしたらよいのでしょうか。

その一つは「求める」ということです。この学者たちを見てください。彼らは、ユダヤ人から見たら異邦人です。ですから、聖書のこともよく知らないし、本当の神さまが、どんな方なのかもよく知りませんでした。少なくともユダヤ人よりは知らなかったのです。

しかし、彼らには、神さまへの救いを求める熱い心がありました。本当の神さま、そして自分たちが救われることを真剣に求めていました。その証は荒野を何百キロも旅することがてきたことです。

この時の博士たちのように、キリストに会うことを心から願うならば、キリストは私たちを導き共にいてくださるのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-18 07:31:53 (927 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書1章18〜21節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

宣教題「恐れず受け入れる」    牧師 新保雅雄

「神様が共にいて下さる」ということは、天使がヨセフに告げたように、恐れなくて良いということなのです。目の前に大きな困難があっても、恐れず一歩を踏み出しなさいということです。

この時ヨセフは恐れていました。マリアとヨセフは、婚約の身であり、子供を身ごもるということが、当時の社会では大きな罪を背負っていくことになります。ヨセフは迷いました。自分はマリアと関係していないことを表ざたにして、マリアを石打ちの刑にするのか。それとも表ざたにしないで密かに離縁してしまうか。

身ごもるマリアを受け入れて、本当にマリアとそのお腹の子を愛していけるのだろうか。それは無理なことです。ヨセフは世間の目を恐れていたのです。やはり、このまま静かに離縁しょう。

そう思いめぐらしているとき「ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」その恐れの中でヨセフは、天使からお告げを聞いたのです。そしてこれからの困難であろう人生を選んでいくのです。

私たちは、明日に対して、あまり明るい見通しを持っていないかもしれません。しかし天使は告げるのです。「神は我らと共におられる」私共の明日は、神様の御手の中にあり、今日も明日も、私たちと共にいて下さる。だから「恐れることはない」のです。

 あなたは一人ではないのだから、クリスマス感謝、感謝・・・


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-11 08:03:55 (944 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章6〜11節

ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。

宣教題「神を恐れない者は、人を恐れる」 牧師 新保雅雄

洗礼者ヨハネは、神の言葉を語る人でした。ユダヤ人から神の預言者として認められていました。キリストの道を整える人と言われ、主イエスにも洗礼を授けました。そのヨハネが殺されたのです。

なぜヨハネは殺されたのか。それはユダヤの領主であるヘロデ王を批判したからです。「あの女と結婚することは律法でゆるされていない」14:4。「あの女」とは、ヘロデ王の兄弟であるフィリポの妻のことです。あのサロメの母です。

ヘロデ王には、妻がいましたが、自分の兄弟であるフィリポの妻ヘロディアを好きになり、妻と離婚し、自身の兄弟を殺し、その妻ヘロディアを自分の妻にしてしまったのです。これはユダヤ人の律法では、姦淫の罪にあたるもので、石打の死刑に値するのです。ヨハネは、相手がヘロデ王であろうとも、罪の悔い改めを迫りました。

ヘロデ王は、怒りヨハネを殺そうとして捕らえました。しかし彼を殺さないで、牢屋に入れたままにしておきました。それは、「民衆を恐れた」からです。民衆から預言者として、尊敬されていたので、ヨハネを殺したら暴動になり、自身の地位が揺らぎかねない。

神の言葉を語る預言者、洗礼者ヨハネを殺すことも恐れないヘロデ王、しかい彼は「民衆を恐れた」のです。神を恐れない者が、人を恐れるのです。本当のこと真実を問われると怒るものです。それが神を信じない人の姿です。神を信じない人は、自分の罪を指摘されると、素直に反省出来ない、そして逆上し逆恨みをするのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-04 08:02:47 (957 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章54〜58節

「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」

宣教題「こんな私を助けて下さい」   牧師 新保雅雄

「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」主イエスの奇跡と私達の信仰には関わりがある。私たちが主イエスを信じるかどうかによって、違ってくるというのです。

「信じる」という私達側からの行為と、「奇跡」という主イエスの御業が関係あると言われる。私たちの信仰によって、主イエスの御業が行われ、癒しや救いがある。これはたいへん重大なことです。

私たちは、神を信じていると思っているが、ささいなことで腹が立ち、友人を憎んでしまう。収入が少なければ不安になりイライラする。そもそも私たちの信仰は、あやふやで足りないのです。どんなにがんばってみても、「信じ切る」ということは、自分の力ではできないのです。では、救いはない絶望しかないのでしょうか?

私たちは、何も満足にできない。信仰すら無い。しかしただ一つ、神様に対してできることがあります。「信仰のない私を助けて下さい」と言って、そのままの自分を主イエスに投げ出し、すがりつくことです。あの病気の息子の救いを必死に主イエスに願う父親のように(マルコ9:14〜)そんな私たちでも受け入れてくださるのです。

何故なら主イエスはご自身の命をかけて、あなたを救いだし、愛してくださったからです。「信仰」とは、主イエスに弱い自分を正直に告白し願うことなのです。しかしナザレの人々は、先入観が邪魔をして、主イエスに願うことができなかったのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-11-27 07:05:21 (950 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章51〜52節

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

宣教題「天国の学者」   牧師 新保雅雄

「天の国のことを学んだ学者」とは、「天国の弟子となった人」と言う意味です。では「天国の弟子となる」とはどういうことでしょうか? 「天国」とは、「神のおられる国」という意味です。つまり主イエスのいる所が天国です。主イエスの御言葉を学んで、主イエスの弟子となる人のことを主イエスは、「学者」と言っています。

私達は、「学者」というのは、学問を修めた人のことを言います。現代で言えば、大学を出て、さらに大学院へ行き、専門分野を探求し、研究、探求して、博士論文を書き、学会で認められて、大学の教授になっていく。そういう人のことを、私たちは「学者」と呼びます。

また当時であれば「律法学者」のことを学者と呼びました。聖書とユダヤ教、律法について、有名な先生について深く学んだ人が「学者」です。

しかし、この世の学問をどんなにおさめても、人々から「学者」と呼ばれても、主イエスの十字架を理解することができなかったら、自分の中に潜む深い罪の心を知らなければ、天国が何か分からないのです。

神様のことを深く学び聖書に精通していた、あの律法学者やパリサイ人が神から遠かったのです。彼らは古い倉しか持っていなかったのです・

逆に神から遠いと思われていた、徴税人や漁師の方が神に近かったのです。なぜなら主イエスを子供のように、素直に信じて受け入れたからです。新しいものも古いものも受け入れたのです。

主イエスは、律法学者たちを退けました。しかし、主イエスから天国のたとえ話を聞いて、それを受け入れた弟子たちを、主イエスは「天国の学者」と呼ぶのです。


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