本日の聖書 ローマの信徒への手紙5章8節
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
宣教題「こんなにも愛されている」 牧師 新保雅雄
人は、生まれて幼いとき、親のもとにあるとき、人生は親の考えに基づく。何事にも疑問をもたず、親を100%信頼している。
しかし、ある時から「俺はこうだ!」自己を主張したくなる。自我の目覚めである。親の言葉に生きることから、自分の言葉によって生きようとする。そして親への反抗、社会への反抗となっていく。自分の世界にあこがれ、自由を求めて社会へ飛び出す。
「知恵の実」を人間が食べたときである。自己を出したくなる。ダメと言われるものは、非常に魅力的に見える。
そして少年から青年になり大人になっていく。社会の厳しさを知る。そんな時、親の愛を思い出す。病気で床に伏せた時、一晩中、寝ないでタオルを変えてくれた。そのときは知らなかった。しかし、いま気がつく、愛されていたのである。単車で事故を起こし、全身ギブスで固定されチューブがささる時、変われるものなら変わってやりたいと、泣いてくれた人がいた。でもそのときは気がつかなかった。学校に行かす為に、朝から晩まで手を真っ赤にしてパートで皿洗いをしていてくれた。でも私は知らずに遊びボケていた。大人になった今、その事がわかり涙する。私は、愛されていたのである。
何不自由なく愛されていた時、愛を知ることが出来なかった。それどころか、「うるせえな!」反抗していたのである。自由な世界を求め神から離れ旅をするとき、そこにあるものは、孤独、挫折、騙し、裏切り、自己中心的な冷酷社会である。その中に同化してしまう自分を悲しむ、こんなはずじゃなかった。これが自由か?
そしてたどり着いたのは、キリストの十字架であった。神に敵対していた時でさえ、命をがけで愛してくれていた。神の愛を知るとき、「私は一人で生きて来たのではない。多くの人達に支えられ愛され生かされている。」今このことを知る。ただ感謝、ああ感謝・・・
祝 クリスマス
Merry Christmas
本日の聖書 マタイによる福音書2章9〜11節
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
宣教題「あなたを導く星は?」 牧師 新保雅雄
クリスマス、おめでとうございます。
イエスさまがお生まれになぅた所は、家畜小屋でした。そこは門も鍵もありません。誰でも、入ることのできる場所でした。そんなところにキリストはお生まれになったのです。
救い主、イエス・キリストが、誰でも会うことのできる家畜小屋でお生まれになったのに、実際に会えたのは東の国からやって来た博士たちと、野宿をしていた羊飼いたち、だけでした。キリストに会うことができた人と、会えなかった人がいたのです。
今、私たちも、そのキリストにお会いするには、どうしたらいいのでしょうか。救われるにはどうしたらよいのでしょうか。
それは、「求める心」です。この学者たちは、ユダヤ人から見たら外国人です。ですから、聖書のこともよく知らないし、本当の神さまが、どんな方なのかも知りません。何も知らなかったのです。
しかし、彼らには神さまへの救いを「求める熱い心」がありました。本当の神さま、そして自分たちが救われることを真剣に求めていました。そのために荒野を何百キロも旅することがてきたのです。この時の博士たちのように、キリストに会うことを心から願うならば、キリストは私たちを導いてくださるのです。あなたの星は?
祝 クリスマス イブ Merry Christmas
宣教題「一人のみどり子が生まれる」 牧師 黒瀬 博
本日の聖書 イザヤ書9章2〜7節
闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
本日の聖書 マタイによる福音書12章43節
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。」
宣教題「キリストの愛を咲かせる」 牧師 新保雅雄
私たちが家の掃除をするのは、お客さんを迎えるためであって、泥棒や空き巣を迎えるために、掃除をするのではありません。しかし、この家にやってきたのは、お客さんではなく悪霊だったのです。
ここで言う「掃除をする」とは、一生懸命に律法を守ろうとすること、悪霊というゴミを外へ掃出し捨てることです。それは、自分の心を整えて、キリストを迎え入れるためです。つまり彼らは、キリストをお迎えするために、一生懸命、掃除をしていたのです。
ところが、いざキリストが来られたとき、「おまえはキリストではない。おまえは救い主ではない。」と言って、家の中に入れようとはしなかった。だから空家のままになっていたのです。
そこへ以前、掃除して追い出した悪霊が戻ってきた。そこは空き家になっていた。しかも掃除がしてあった。こんな都合の良いことはない。それで悪霊は仲間を呼んできて、掃除をした前よりも、多くの悪霊が住み着き、前より悪い状態となってしまったのです。
「神様に対して罪を犯さないようにしよう」と一生懸命になり、罪という雑草を抜き続ける。しかし抜いても抜いても、罪の雑草は生えてくる。それでますます意地になって罪の雑草を抜き続ける。
いったい何のために、罪の雑草を一生懸命になって抜くのか?
雑草を抜くのは、そこに色とりどりの花を咲かせるためなのです。
教会に行くようになり、自身の心の中の罪を見つけ、悔い改めたのなら、そのあとに主イエスの愛の種を蒔いてください。掃除されたあなたの心に主イエスを迎えて、愛の花を咲かして下さい。
本日の聖書 マタイによる福音書12章28節
「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
宣教題「神の国はあなたの中に」 牧師 新保雅雄
主イエスのところへ、悪霊に取りつかれ、目が見えず、口の利けない人が連れられて来ました。いつものように主イエスによって癒されて、この人は、ものが言え、目が見えるようになりました。
それを見ていた群衆は大変驚き、『この人はダビデの子ではないだろうか』と叫んだのです。「ダビデの子」というのは、ユダヤ人が待ち望んでいるメシア、キリスト、救い主のことを意味します。
ところがファリサイ派の人々は、主イエスの行った奇跡の癒しを、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」と言うのです。 まるで主イエスが、悪霊の頭ベルゼブルの手下ででもあるかのように言ったのです。
主イエスは、ファリサイ派の人々に対して、私がもし、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うならば、あなたたちの仲間は、何の力で悪霊を追い出すのか。と逆に問われました。
彼らは、主イエスを通して成し遂げられた神の奇跡を、素直に受け止めようとせず、悪霊の頭の力を借りて、悪霊を追い出したかのように、まるでサタンの国で起きた出来事のように、ファリサイ派の人々は、主イエスに迫っているのです。
さらに主イエスは、ご自分に敵対するファリサイ派の人々にも「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」28節と言われました。
既に、わたし達の中に神の国は、来ているのです。更に、キリストを信じない人の上にも神の御国は、来ているのです。すべての人の上に神の恵みが降り注いでいます。どうか心を開いて手を差し出してください。誰でも神の恵みを受け取る事が出来ます。
