本日の聖書 コヘレトの言葉1章1〜7節、12章14節みな空しく、風を追うようなことであった。
宣教題「何を希望に生きるのか」 牧師 新保雅雄
あのダビデ王の息子、二代目ソロモン王、絶大な栄華を極めたソロモン王は言う「何をしても空だ。人生は空しい。」
いずれ人は死を迎える。人を愛すれば愛するほど、いずれ来る死を思うと苦しくなる。真面目に生きれば生きるほど、死で終わることを思うと、馬鹿らしくなる。今夢中でやっていることは、何なんだろうか? 死で全ては終わるとしたら、何をしても空しくなる。投げ出してしまいたい。人は裸で生まれ、また裸で帰っていく。
人を愛したくない、夢中で生きることもしたくない。大切な人を夢中で愛するとき、その先に大きな悲しみがいつか来ることを知る、あまりにも空しい。愛するとは何なんだろうか。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に」(12章)
主イエスは言われる、「私を信じて着いて来なさい。死に打ち勝った。恐れることはない、死は通過点だ。」死で全てが終わるわけではない。そのことを、希望を教えに来られたのが、主イエスキリストである。そして私たちは永遠の世界、永遠の命、神を知る。
信仰とは生きる希望を確信することである。ああ感謝・・
主命讚美
主命讚美
報道でご存じの事と思いますが、東京都よりまん延防止条令が3月6日まで延長されました。残念ですが、板橋教会も礼拝の自粛を致します。ご理解下さい。引き続き感染に注意されますように、ご健康をお祈り致しております。
板橋教会 新保
本日の聖書 マタイによる福音書9章20節
「イエスが二人の目に触り、あなたがたの信じているとおりになるようにと言われると、二人は目が見えるようになった。」
宣教題「あなたは何を見、何を信じるのか」 牧師 新保雅雄
本日の聖書は、主イエスに好意を持つ者もあれば、敵意を持つ者もいる。実に世には好意と敵意が渦巻いているのです。ある者は、主イエスに助けを求め、また、ある者は、悪口を浴びせかけます。
二人の盲人、彼らは、主イエスに助けを求め続けて家まで付いて行きました。そこで主イエスは、ようやく、彼らに向き合ってくれました。そして「わたしにできると信じるのか」と言われた。
彼らは「はい、主よ」と答えました。 すると主イエスは、彼らの目に触れ 「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われ、癒されたのです。信仰が問われているのです。誰のせいでもなく、自分がどう信じているかで、その結果が決まるのです。
しかし目の前に、主イエスを通して、神の奇跡、癒し救いが現れているのにも関わらず、ファリサイ派の人々は、それを認めることができませんでした。私たちも癒された先人の証しを幾度となく聞く、当時のファリサイ派と同じであってはならない。自身の知恵におぼれ頼るとき、その知恵によって滅びる、そこに奇跡、救い癒しはおきない。主はあなたがたの信じているとおりになると言われる
自らの欠けに気が付かない人、気が付いても認めない人、残念ながら、神の愛を受け取ることが出来ません。苦しみながら、「わたしを憐れんでください」と心から叫んだとき、憐れみを受けるのです。実に「愚かなものを通して知恵あるものをいましめる」1コリ1:19
二人の盲人は、目が不自由な中で、苦労も多かった。しかし主イエスに憐れみを請うことが出来た点、この病は、恵みだったのです。
一方、ファリサイ派の人々は、手を差し出せば、受け取ることの出来る神の恵みを、かたくなにこばんだのです。神への信仰よりも、自身の知恵が勝ったのです
本日の聖書 マタイによる福音書20章7〜11節
彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。
宣教題「さあぶどう園に行きなさい」 牧師 新保雅雄
神の御国では、この世で不条理なことが、たびたび起きます。本日の聖句も、世では非難されても、御国では愛の真理なのです。このたとえ話、あなたは、この中の誰が、自分に該当すると思いますか?
朝一番に雇われた人、午前9時に雇われた人、朝一番から働いた者だ」と思うのなら、神様を不公平だと非難したくなるでしょう。あるいは9時や12時に雇われた者だとしても、夕方5時になって雇われて1時間しか働かなかった者が、自分と同じ賃金をもらったなら不満を持つでしょう。
もし自分が、だれも雇ってくれる人がおらず、夕方5時になってやっと主人に雇われて、1時間しか働かなかった者だとしたらどうでしょうか? もう日が暮れそうな、あきらめかけていた。
だれも雇ってくれる者がおらず、夕方まで広場に立ち続けた。こんな時間まで待っても無駄だと思いながらも、腹をすかした家族が待つ家へ、手ぶらで帰ることもできない。途方に暮れて立ち続けていた、この最後の者が、自分だとしたら。
私たちは、自分が、この夕方5時に雇われて1時間しか働かなかった者、これは私のことであると知った時、この「ぶどう園の労働者」のたとえ話が理解できるのです
