本日の聖書 マタイによる福音書5章27,28節
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」
宣教題「心の思い」 牧師 新保雅雄
主イエスは、言われました。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」( 十戒、出エジプト記20:14、申命記5:18)
この「姦淫するな」という戒めは、夫婦の正常な関係を保つための戒めでした。
しかし、主イエスは、「姦淫するな」という戒めに対して、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」と言われています。
つまり、実際の行為の有無だけでなく、そのときの心の状態、思いが重要であると、主イエスは言われたのです。
この主イエスの言葉を弟子たちは、どのように聞いたでしょうか。「姦淫するな。」という戒めだけならば、自分は当然守っている。心の中でみだらな思いを持ったとしても、律法を守っている信仰者の顔をする。
しかし、主イエスは「みだらな思いで他人の妻を見る者は、実際に姦淫したのと同じである。」と言われたのです。おそらく、弟子たちの多くは、心に思い当たることがあったのではないでしょうか。そして私たちの心の中にも、主イエスが言われる経験があるのではないでしょうか。
律法の戒めは、心の動きまで問うものではありません。また問うことも出来ません。あくまでも律法の戒めは、実際の行為に及んだかどうかで判断されるのです。肉体の外側の行い。それが律法の限界です。
しかし、主イエスは、もう一歩踏み込んで、行為のもととなる、心の動きに思いを置きます。心の中のことは、私自身と神しか知らないのです。つまり、主イエスは、神の前に私たちを立たせ、神との霊的な交わりに、私たちを向き合わせようとされているのです。
「わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」
宣教題「尊い命」 牧師 新保雅雄
主イエスは言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」これは、十戒の第6戒「殺してはならない」(出エジプト記、申命記に記されています。)
この「殺してはならない」という戒め自体、連日のように異常な殺人事件が報道される昨今に、警笛を鳴らしているように思えてくる。
私たちもしっかりと受け止めなければならない。しかし主イエスは、この前にもっと必要なことを言われている。
それは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と続けて言われている。
人を殺さなければ、後は何でも良いという訳でないというのです。腹を立てて、「ばか」と言っても、「愚か者」と言っても、駄目だというのです。はたして「ばか」、「愚か者」と言ったことのない人はいるだろうか。
この主イエスの言葉は、私たちの心の奥底を問う鋭さを持っています。何故なら、「ばか」、「愚か者」といった、相手を否定することが殺意の温床となるからです。相手の人格や思いを踏みにじっておきながら、何も痛みを感じない。しかし自分が言われると切れてしまう。
「殺すな」という戒めの根本にあるのは、相手を尊重する思いがあるのです。「私は、誰も殺していないから、自分には罪はない。」と居直って、自分を正当化してしまう。
神は、ご自身が造られた私たち一人一人を罪から救い出し「生かすために」身代わりの犠牲として、主イエスを十字架に付けられたのです。私達は、尊い犠牲の上に生かされている大切な存在なのです
本日の聖書 マタイによる福音書5章17節
「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
宣教題「愛の完成」 牧師 新保雅雄
主イエスは、「山上の説教」の中で、律法の掟を6個所取り上げられました。(5章21〜48節)。こうした一連の具体的かつ個別の教えに入る前に、主イエスは、弟子たちに対して、律法をどう受け止めるべきか語られました。
これは私たち教会に対しても、律法の役割、そしてどう受け止めるかということを教えられています。
主イエスはこう言われています。
「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
ここで言われている律法とは、旧約聖書の創世記から申命記までの五つの書(モーセ五書)を指しています。そして「律法と預言者」と言う場合の預言者とは、エリヤやイザヤという預言者たちだけではなく、イザヤ書やエゼキエル書といった預言書のことも指すのです。
主イエスは、これらの「律法と預言者(預言書)を廃止するためでなく、完成するために来られました。」とは、すなわち主イエスは、律法や預言者の語る本来の意味、そこに示された本来の神の御心を回復し、完成するために来られたのです。
律法や預言者の語る本来の意味とは、「山上の説教」の7章12節に記されている、主イエスの言葉から解かります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言われている主イエスの言葉です。
この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という言葉は、単純でありながらも非常に深みのある大切な言葉です。すなわち律法の完成とは、愛の完成なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章14節
「あなたがたは世の光である。
山の上にある町は、隠れることが出来ない。」
宣教題「地の塩、世の光」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われました。
主イエスは、何か条件を付けて、「もし、○○ができるならば、地の塩、世の光になれる」だからなれるように頑張りなさい、と言われたのではないのです。
また、特に選ばれた人、才能をもった人にだけ言われた訳でもないのです。今のままの「あなたが、地の塩であり、世の光なのだ」と言われているのです。
ここに、神の恵みによる幸いがあります。「神が、一方的に、恵みによって、私たちを選んでくださり、地の塩、世の光としてくださった。だから、相応しく生きよう」これが、選ばれた者に期待された生き方なのです。
救いも同じです。「何かが出来たから救われたのでは、ありません。」「救われたから神の言われるような人生を生きよう。」なのです。(出エジプト)
光は自分を照らすのではないのです。
世の光としての私たちは、自分自身に光が当たることを望んではいけません。世の光としての私たちは、あくまでも、人々を照らすことや社会を照らすことが大切です。 ですから、世の光としての私たちは、この世に仕えることが求められています。その時、光が光らしく輝くのです。また塩も自分自身のためにあるのではなく、腐敗を防ぐために清めに使われるのです。
地の塩も世の光も、自分のためにではなく、人のためにこそ存在します。だからこそ、私たちは、礼拝の場から、地の塩として、また、世の光として、それぞれの働きの場へと派遣されるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章7節
「憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受ける。」
宣教題「憐れみ深い人」 牧師 新保雅雄
主イエスは、全部で9回「幸い」を語られました。その5番目の「幸い」では、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と言われています。ここで言われている「憐れみ深い」とは、聖書においては、神や主イエスについて用いられることの多い言葉です。
私たちを救うために、御子イエスを十字架で犠牲にされた神の愛、これが「憐れみ深い」ということです。すなわち艱難辛苦に遭っている人々を、ご自分の全身全霊が痛むほどに受け止めてくださる主イエスの愛、これこそが「憐れみ深い」という表現に相応しい姿なのです。
私たちを、憐れんでくださる神は、私たちを罪から救い出すために、具体的な行動として、御子イエスを救い主として、この世にお送り下さり、私たちの罪のために、御子イエスを十字架で犠牲にすることで、私たちの罪の代償とされたのです。ここに「憐れみ深い神の愛」があります。
艱難辛苦の中にある人について見聞きした時に、「ああ、可哀想に」と思って涙を流しても、それで終わるなら、それは「憐れみ深い」とは言えないのです。
心に思ったことが行動に出るとき、それが憐れみ深いというのです。具体的な形で、何かせずにはいられないほど、思いが高まる姿こそ、憐れみ深いという言葉に相応しいのです。
「可愛そうに」言葉でいうのは簡単です。しかし、その時何が出来るか、そこに本当の「憐れみ深い」があるのです。
「憐れみ深い人々は、憐れみを受ける」のです。隣人にいつも自分のことのように関心を持って接するとき、あなたも同じ関心を持たれます。憐れみを持つ人は、自分が苦しいとき、憐れみを受けます。