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(主宰 赤谷拓治)
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投稿者 : church 投稿日時: 2020-06-21 07:45:40 (645 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章25節


「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」

宣教題「あなたの人生の土台は?」 牧師 新保雅雄

主イエスの教えを熱心に聞くことは、たいへん重要なことです。「耳のある者は聞きなさい」(13:9)しかし、聞くだけで終わることなく、それを実践することがあって初めて硬い信仰になるのです。

主イエスは、このことを教える為に、家を建てた二人の人のたとえを語られました。家を何処に建てるかということは、その人の生活の基盤を、何処に何の上に定めるかということなのです。

ここに登場する二人の人は、対照的な場所に家を建てました。一人は、岩の上に自分の家を建てました。がっしりした、堅固な土台の上に家を建てたのです。ところが、もう一人の人は、砂の上に家を建てました。

しばらくして二つの家を、嵐が襲いました。雨が降り、川があふれ、風が、家を目掛けて吹き付けて来たのです。岩の上に建てられた家の方は、岩を土台としておりましたので、激しい雨風に襲われても、倒れることは、ありませんでした。一方、砂の上に建てられた家は、当然のように倒れて、その倒れ方はひどかったのです。

人生の荒波や嵐に襲われた試練の時にこそ、何を人生の土台として歩んでいるのかが問われます。それは、普段、意識していないことであるかも知れません。しかし試練の時、何に人生の基礎を置き、何を支えに生きているのかが露わになるのです。

私たちは、何に基礎を置き、何を支えに生きているのでしょうか。イザという時に、私たちは、何に頼るのでしょうか。聖書の言葉でしょうか。それとも、この世の知恵や知識や経験、自分の能力、財力でしょうか。艱難にあうとき、土台があらわにされます。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-06-14 07:18:13 (592 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章21節


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

宣教題「御心に生きる」 牧師 新保雅雄

主イエスを救い主として信じ教えを守ったとしても、必ずしも全員が天の国に入ることが出来るのでは無い、「神の御心を行う者だけが天の国に入るのだ。」と主イエスは言われています。

「かの日」(22節)すなわち終わりの日、裁きの時です。主イエスによって一人一人が、天の国に入ることが出来るかどうか、最終的に選別されるのです。

この時、大勢の者が、主イエスに向かって「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」こうして、彼らは、自分たちの信仰生活における実績を持ち出して、天の国へ入る権利を訴えます。

しかし主イエスは、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われるのです。

何故、彼らは、これほどまでに厳しく言われなければ、ならないのでしょうか? それは、彼らが天の父の「御心を行わなかった」からです。いくら実績を積み上げても、神の御心とは、異なることをしていたのです。自分の思いに従って行動していたのです。

努力は必要なことです。しかし残念ながら、「クリスチャンとはこうあるべきだ。」という、愛よりも出来るか出来ないか、守れるか守れないか。を問うクリスチャンが多い。教会から裁きが始まる。

では天の父の御心とは何でしょうか?それは、「隣人への愛」です。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(7:12)これは、「自分自身のように隣人を愛しなさい」つまり弱い者に寄り添うことです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-03-22 07:20:34 (667 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章18節

「良い木が悪い実を結びことはなく、

また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」

宣教題「良い実は良い木から」 牧師 新保雅雄

主イエスは言われます。「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」

確かに、茨からぶどうは採れず、あざみからいちじくも採れません。ぶどうは、ぶどうの木から、いちじくは、いちじくの木からしか採れないのです。

このことから明らかなように、例外なく、「良い木が悪い実を結びことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」のです。

植物だけでなく、私たち人も腐り、悪い木になると、そこにできる実は、はっきりと、その木の状態を映し出すのです。木の実は、ぶどうであっても、いちじくであっても、梨やりんごであっても、究極的には、おいしいか、まずいかです。たとえ、形がどんなに素晴らしく美しくても、食べて、渋かったり、苦ったり、腐りかけていては、とても、食べられるものでは、ありません。すぐに、吐き出されてしまうのです。

私たち人という木も、実の姿かたち見栄えではなく、その実が持っている味が問われます。果たして、私たちという木が結ぶ実は、どんな味がするのでしょうか。優しさと配慮、正しさに満ちているでしょうか。悪意と敵意、自己中心に満ちているのでしょうか。

聖書の言葉を慕い求めるならば、尽きない恵みが、そこから溢れ出し、私たちの霊と肉とを養うのです。

確かに、信仰は、心の中で決断するものです。しかし、心の問題で終わる訳ではありません。その実が問われるのです。どう歩んでいるのか、日々の生活が問われるのです。あなたの人生があなたの実の味を現しています。あなたの人生の実は、いかがでしょうか。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-02-22 23:46:00 (685 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章7節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。

探しなさい。そうすれば、見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

宣教題「あきらめないで!」 牧師 新保雅雄

主イエスは、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」と言われています。

 これは、神からの約束の言葉です。神の約束を、主イエスが教えてくださっているのです。それは、「だれでも、求める人は、受け取ることが出来るし、探す人は、見つけられる。門をたたく人には扉が開かれる」という約束です。

ここで「だれでも」という言葉に注意して下さい!

時々、私たちは、「どうせ自分なんか駄目だ、神さまも、こんな私になんか、何もくださらないに決まっている。祈っても祈っても何にも変わらない。何もいいことがない。」と思ったり、「もうどうでもいいや、やってられない。」と思い投げやりになる事が、あるかも知れません。

あともう少し門をたたき続ければ、扉が開かれるのかも知れません。でも、この「あともう少し」が、なかなか続かないのです。

子どもが、お腹が空いてパンを欲しがっているのに、わざと石を与える親は、いません。また、子どもが、魚を欲しがっているのに、わざと蛇を与える親もいないでしょう。

同じように、天の父である神さまは、自分に向かって祈り求める私たちに対して、良い物をくださるに違い無いと、主イエスは、言われるのです。何故なら、私たちは、みんな神の大切な子どもだからです。

ここに集まっている、皆さんみんな、神の子どもなのです。それで、私たちは、神の家族なのです。 神が私たちを子どもとして、愛してくださっているので、神は、祈り求める私たちに、良い物をくださらないはずはないのです。どうかあきらめないで、たたき続けて下さい!


投稿者 : church 投稿日時: 2020-02-15 23:23:02 (681 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章3節

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

宣教題「自分の目の中の丸太」 牧師 新保雅雄

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」 7:1  私たちは、ともすると、自分のことは棚に上げて、人に対して、あれこれ注文を付けたり、批判したりしがちです。我が身を省みないで、人への攻撃を強め裁いてしまうことがあります。

あるいは、相手が立ち直れないほどに、キツイ言葉を浴びせ掛け、傷付けてしまうことさえあります。また今にも噛み付きそうな態度を取ることもあるのです。忙しいとき、嫌なことがあったときには、特に、相手のちょっとした言葉や態度に、イライラしたり、ムカムカして、相手との関係を崩してしまうほど、相手に攻撃的になることもあるのです。

ところが、そんな私たちに向かって、主イエスは、こう言われました「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」7:3 主イエスは、このように、自らを省みることなく、人を裁くことばかりに熱心な者に対して、「偽善者よ」と呼び掛けています。

この丸太は、自らの過ち、欠け、罪の象徴です。しかし、悲しいことに、私たちは、目に突き刺さっている丸太が象徴する、自らの過ち、欠け、罪に、なかなか自分では気が付かないのです。

そのくせ人の目の中の小さなおが屑には、遠くからでも気が付くのです。正に人に厳しく自分に甘い姿が、ここにあるのです。理想的には、自分に厳しく、人には寛容で大らかな態度を取ることでしょう。そうは行かなくとも、少なくとも、相手に対する厳しさと同じ程度には、自分にも厳しくなければ、バランスを欠くでしょう。

本日の聖句は、いつも心に留めておきたいものです。裁くのは、あなたではなく神です。人を裁く時、自身が神になっていませんか?


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