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板橋区仲町23−17
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03-6555-5440
(主宰 赤谷拓治)
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投稿者 : church 投稿日時: 2020-09-06 06:47:43 (598 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書10章 1節

「 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、

汚れた霊に対する権能をお授けになった。

宣教題「主に力を頂く」   牧師 新保雅雄

ここには、12使徒の名前が記されています。最初の4人、ペトロと、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ、彼らはもと漁師です。マタイは、ローマに仕える徴税人でした。シモンは、ローマ帝国からの独立をねらう過激な政治団体、熱心党の党員です。本来、彼らは一緒に活動が出来ないような人たちの集まりでした。

主イエスによる12使徒の選び方には、ただ一点重要な意味があります。それは自分ではなく主を誇る者であるということです。この世の地位や肩書き、能力に選ばれる基準があるのではありません。むしろ、何もない救いを求める飢え渇きにこそ、その選びの基準があるようです。

つまり自らの能力や実績や成果を誇ることの出来ない者であること、だからこそ神の恵みによって、自分が生かされ、用いられている、ことを知っている。このことが弟子には欠かせないのです。

主イエスは、こうして選んだ12人を福音宣教の旅へと派遣されました。そして金銭も下着も、履物も杖も一切持たずに行くようにと指示されたのです。使徒たちは不安だったことでしょう。しかし、派遣された現場で使徒たちは、不思議にも必要なものを備えてくださる主の導きを体験するのです。

何も持ち得ない時、不安がつのります。しかし、それだからこそ神に心から真剣に依り頼むことができる。逆に沢山のものを持ち得ているとき、自分の力、能力、財力に過信してしまいます。その時、神に何を願い祈るのでしょうか。

私たちも12使徒のように、たとえ身支度が十分で無いと感じる中にあっても、備えて下さる主に依り頼みながら証し人でありたい。 

 自分の力では、どうにも出来ないとき、何も持ち得ない、その時こそ求める時、祈りの時であり、主の救いの奇跡に出会うときです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-08-30 07:52:43 (618 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書9章 37,38節

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

宣教題「神のご奉仕」   牧師 新保雅雄

「収穫」とは、終わりの日、裁きの時のことです。つまり主イエスによって人が救われる時のことを言います。そして「収穫は多いが、働き手が少ない」ということは、福音を必要としている人、救われるべき人は多いが、こうした人々が救われるために、神様の手足として働く人が少ないということです。

教会の働き、奉仕において、時に人手不足を実感することがあります。そんな時に、教会奉仕の忙しさに疲れて来ると「何故、自分だけ、こんなことをしなければならないのか。あいつは何にもしない。」「私ばっかり献金を守っている。あの人はしない。」と人の批判や愚痴を言いたくなる心が、湧き上がってくるときがあります。

主イエスは、言われます。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」願うとは、神に祈ることです。

つまり、人の批判をしたり愚痴を言う前に、まず神に祈ることの方を優先するべきだと言われるのです。愚痴るより、まず祈ることです。

神は必要とあらば、御子イエスさえ、惜しまず十字架の死に渡してまでも、私たちを救おうとされる方です。そうであれば、なおさら神は、私たちに必要なものは、ご存じであり、必要な時に惜しまず与えてくださるのです。

そうであるならば、主イエスを信じ、必要なことは、ひたすら神に祈ることです。もともとこの働き事態が、神のためのものなのですから。そして神が、私たちを用いて救いの働きをさせておられるのです。

神の働きのために神と共に働くこと、この幸福感を体と心で手に入れてください。愚痴りたくなったら、まず祈ってみて下さい。必ず、答えが得られるはずです。神は、神のために働く者を、決して飢えさせず捨ててはおかれません。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-08-16 07:46:38 (631 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書9章20節


「十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである」

宣教題「御手の中にある命」   牧師 新保雅雄

指導者が、主イエスにの前にひれ伏し、「私の娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。」と願い出ました。主イエスは、この父親の思いに動かされ、父親に付いて行きました。

そこへ行く途中、12年間、出血が続いている女性が近寄って来ました。当時、出血が続くことは、宗教的に汚れたことと見なされていました。そのため、この女性は、病気自体の苦しみに加え、宗教的、社会的に疎外される二重の苦しみを受けていたのです。

そのため、この女性は、正面から主イエスに願い出ることを避け、後ろからそっと、主イエスの服の房に触れました。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからです。

その事を知った主イエスは、この女性に言われました。

「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

この女性の切実な思いを、主イエスは、これこそ信仰だ、この信仰によって、あなたは救われたと言われたのです。

この瞬間、この女性を長年苦しめた病が癒されました。そして、再び社会に、戻ることが出来たのです。

その後、主イエスは、指導者の家に着かれました。そして「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。すると少女は、まるで眠りから覚めたように、起き上がったのです。こうして、主イエスの御手を通して、少女に再び命が与えられました。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-08-09 07:19:22 (578 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書9章17節


「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

宣教題「日々新しく」   牧師 新保雅雄

主イエスは、福音を、どう受け止めるべきか、二つの例を語られました。いずれも新しいものと、古いものとの関係を言われています。

一つは、古い服が破れてしまったために、継ぎを当てる時のことです。この場合、わざわざ織りたての新しい布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てますと、新しい布切れがちじみ、服を引き裂き、破れがいっそうひどくなると主イエスは言われます。

一度、洗濯して服が濡れ、乾き始める時に、織りたての布切れは収縮が大きいため、せっかく継ぎを当てても、回りの古い生地が引っ張られ、破れてしまうのです。

二つ目として、新しいぶどう酒を革袋に入れる時のことを語られました。この場合にも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れますと、革袋が破れ、せっかく中に入れたぶどう酒も、流れ出てしまうのです。 

結果として革袋もぶどう酒も、両方とも失われてしまうのです。新しいぶどう酒は、発酵力が強く膨張する為、割れてしまうのです

神の愛を信じる者は、古い生き方から解放され、新しい歩みへと導びかれているのです。主イエスという新しいぶどう酒を受け入れることで、私たち自身が、新しい革袋に作り変えられるのです。

しかし、気が付かない内に、古い革袋は、弾力を失い、新しいぶどう酒を中に納められなくなるのです。無理に入れようとすると、袋が破けてしまうのです。ですから、主イエスの恵みと神の愛を、日々新たな思いで受け止めるためには、私たち自身も、日々新しく作り変えられることが必要なのです。

古い自身のままで主イエスの新しい教えを入れても、葛藤や迷いで自分自身が破けてしまうのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-08-02 07:44:10 (602 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書9章12節


「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」

宣教題「あなたは招かれている」   牧師 新保雅雄

主イエスが、収税所の前を通り掛った時、マタイという人が収税所に座っていました。当時、徴税人は、人々から嫌われた存在でした。 

徴税人が徴税する金額は、徴税人に任せられていました。徴税人が、自分の考えで、多く集めることも、少なく集めることも出来たのです。そのため税金を水増しして徴収し、私腹を肥やしていました。徴税人は、人の弱みにつけ込んで儲けている様に思われました。

また、徴税人が嫌われる第二の理由としては、集めた税金はローマ帝国へ納められました。従って、ローマ帝国の手先であると見なされました。これらの点から、徴税人は、ユダヤ社会において、忌み嫌われ、神の救いに最も遠い存在と見なされていました。

そんな徴税人であるマタイに、主イエスは声を掛けてくださいました。そして「わたしに従いなさい」と言われたのです。

徴税人自身も、忌み嫌われ、救いに最も遠い存在であることを自覚していたことでしょう。金儲けはできるが、そのかわり神からさらに遠ざかっていくように思えた。同朋の友もいなかった。

「どうせ俺なんか神に愛されていない、」という思いを抱いていたマタイに、「わたしに従いなさい」と主イエスが声を掛けてくださった。するとマタイは、立ち上がり主イエスに従ったのです

主イエスの一言は、金に執着する自分を解き放ってくれたのです。

「こんな自分でも受け入れられている」 人は、自分を受け止め、受け入れ、話かけてくれる、また、話を聞いてくれる相手を必要としているのです。孤独からの救い。

マタイは、主イエスこそ、そういう方であると信じて、従ったのです。罪人や徴税人こそ、神の助けを必要としているではないかと、主イエスは言われているのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」


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