本日の聖書 マタイによる福音書8章8
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕は癒されます。」
宣教題「信じたとおりになる」 牧師 新保雅雄
ガリラヤ湖の北岸カファルナウムに、主イエスが入られると、百人隊長が主イエスに近付いて来て熱心に願いました。
「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」
主イエスは、言われました。「わたしが行って、癒してあげよう。」
ところが、百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と答えたのです。百人隊長は、自分自身が異邦人であることを意識して、主イエスに家に来ていただくことを断ったのです。
百人隊長は、自らの百人隊長としての経験を引き合いに出しました。兵士に向かって、「行け」と言えば行き、「来い」と言えば来るのです。また、部下に、「これをしろ」と言えば、そのとおりにするのです。権威が、百人隊長に託されているからです。
百人隊長は、主イエスの言葉には権威があり、その言葉が、言葉どおりに実現することを、百人隊長は知っていたのでしょう。主イエスは、この百人隊長に感心して言われました。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
これは私たちへの警笛でもあります。私たちは、救われている恵みに無頓着になり、恵みを感謝する素直な心を失っていないでしょうか。主イエスは、再び百人隊長に向かって言われました。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
ちょうどその時、百人隊長の僕の病気は癒されました。百人隊長が信じたとおりに僕は癒されたのです。
本日の聖書 マタイによる福音書8章3
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、皮膚病は清くなった。」
宣教題「愛に触れる」 牧師 新保雅雄
主イエスが、「山上の説教」を終えて山を下りると、一人の重い皮膚病の人が近寄って来ました。そして、こう言いました。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」
これは、何とも遠慮がちな奥ゆかしい、願い事です。もっとストレートに、「主よ、今すぐ、憐れんでください。助けてください。清めてください。苦しいのです。お願いです。」と言って、すがりついても良かったのにと思ってしまいます。
しかし、この言い方にこそ、この人が長年味わって来た苦しみの深さを見ることが出来るのです。この病の苦しみが深過ぎて、この人は、ちょっと遠まわしな言い方になってしまったのです。
当時、重い皮膚病は、病気の苦しみと社会的に阻害される苦しみとの、二重の苦しみを負わされる病だったのです。是が非でも、清めて欲しいと、この人は、強く願っていたことでしょう。「助けて欲しい」と叫びたくなる気持ちだったことでしょう。この病さえ癒されたならば、社会に復帰することが出来る。また、人の温かいぬくもりにも、触れることが出来るからです。
それにも拘らず、この人は、切実な思いを、真っ直ぐに伝えることが出来ませんでした。人から受け入れてもらえなかった経験というのは、積み重なると、その人から言葉さえも奪うものです。しかし、主イエスに、この人の深い苦しみが痛いほど伝わったのです。
主イエスは、この人に手を差し伸べ、この人に触れ、言いました。「よろしい。清くなれ」すると、たちまち、重い皮膚病は癒され、この人は清くなったのです。愛が形となって触れた瞬間です。
本日の聖書 マタイによる福音書7章25節
「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」
宣教題「あなたの人生の土台は?」 牧師 新保雅雄
主イエスの教えを熱心に聞くことは、たいへん重要なことです。「耳のある者は聞きなさい」(13:9)しかし、聞くだけで終わることなく、それを実践することがあって初めて硬い信仰になるのです。
主イエスは、このことを教える為に、家を建てた二人の人のたとえを語られました。家を何処に建てるかということは、その人の生活の基盤を、何処に何の上に定めるかということなのです。
ここに登場する二人の人は、対照的な場所に家を建てました。一人は、岩の上に自分の家を建てました。がっしりした、堅固な土台の上に家を建てたのです。ところが、もう一人の人は、砂の上に家を建てました。
しばらくして二つの家を、嵐が襲いました。雨が降り、川があふれ、風が、家を目掛けて吹き付けて来たのです。岩の上に建てられた家の方は、岩を土台としておりましたので、激しい雨風に襲われても、倒れることは、ありませんでした。一方、砂の上に建てられた家は、当然のように倒れて、その倒れ方はひどかったのです。
人生の荒波や嵐に襲われた試練の時にこそ、何を人生の土台として歩んでいるのかが問われます。それは、普段、意識していないことであるかも知れません。しかし試練の時、何に人生の基礎を置き、何を支えに生きているのかが露わになるのです。
私たちは、何に基礎を置き、何を支えに生きているのでしょうか。イザという時に、私たちは、何に頼るのでしょうか。聖書の言葉でしょうか。それとも、この世の知恵や知識や経験、自分の能力でしょうか。艱難にあうとき、土台があらわにされます。
本日の聖書 マタイによる福音書7章21節
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
宣教題「御心に生きる」 牧師 新保雅雄
主イエスを救い主として信じ教えを守ったとしても、必ずしも全員が天の国に入ることが出来るのでは無い、「神の御心を行う者だけが天の国に入るのだ。」と主イエスは言われています。
「かの日」(22節)すなわち終わりの日、裁きの時です。主イエスによって一人一人が、天の国に入ることが出来るかどうか、最終的に選別されるのです。
この時、大勢の者が、主イエスに向かって「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」こうして、彼らは、自分たちの信仰生活における実績を持ち出して、天の国へ入る権利を訴えます。
しかし主イエスは、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われるのです。
何故、彼らは、これほどまでに厳しく言われなければ、ならないのでしょうか? それは、彼らが天の父の「御心を行わなかった」からです。いくら実績を積み上げても、神の御心とは、異なることをしていたのです。自分の思いに従って行動していたのです。
残念ながら、クリスチャンとはこうあるべきだ。という、愛よりも出来るか出来ないかを問うクリスチャンが多い。
では天の父の御心とは何でしょうか?それは、「隣人への愛」です。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(7:12)これは、「自分自身のように隣人を愛しなさい」ということです。
本日の聖書 マタイによる福音書28章5,6節
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」
宣教題「おはよう!マリア」 牧師 新保雅雄
週の初めの日(日曜日)の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアは、悲しみの中、主イエスが葬られた墓を見に行きました。
主イエスの墓は、この二人にとって十字架で死んでしまった、主イエスとの思い出に、悲しみ、寂しさ、無念さを誘うものでした。
ところが、墓にいた天使は、この場所が悲しみと絶望に満ちた、命の行き止まりの最終地点では無いことを告げたのです。
「あの方は、ここにはおられない」という天使の言葉と共に、主イエスの納められていた墓は、マリアたちにとって、そこから新たな命へ続く、折り返し地点へと変えられたのです。
このマリアたちの経験は、この世に生きる私たちにとって、実に大きな希望を与えてくれます。主イエスが、十字架の死から復活されたことは、この世の命に行き止まりがあり、命が終わる。行き止まりがあるものではなく、天の御国への通過点に過ぎないことを、明らかにしているからです。
もはや、死は、私たちの人生の最終地点ではありません。通過する地点なのです。勿論、私たちは、まずは、そこへ向けて、この世の人生を進めます。でも、そこがゴールではなく、天の御国への通過点であり、それは、主イエスの十字架によって開かれたのです。
新たな歩みへと向かい始めた時に、二人の歩みの先に、立っておられる方が見えました。何と主イエスが、二人のマリアの行く手に、彼女を導くように立っておられたのです。
そして主イエスは、マリアたちに「おはよう」と声を掛けられました。 この朝の挨拶は、復活の命の始まりを告げておられるのです。