本日の聖書 マタイによる福音書5章22節
「わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」
宣教題「尊い命」 牧師 新保雅雄
主イエスは言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」 これは、十戒の第6戒「殺してはならない」(出エジプト記、申命記に記されています。)
この「殺してはならない」という戒め自体、連日のように異常な殺人事件が報道される昨今に、警笛を鳴らしているように思えてくる。私たちもしっかりと受け止めなければならない。しかし主イエスは、この戒めの前に、もっと必要なことを言われている。
それは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と続けて言われています。
人を殺さなければ、後は何でも良いという訳でないというのです。腹を立てて、「ばか」と言っても、「愚か者」と言っても、駄目だというのです。はたして「ばか」、「愚か者」と言ったことのない人はいるだろうか。
この主イエスの言葉は、私たちの心の奥底に、問いかけてくる。何故なら、「ばか」、「愚か者」といった、相手を否定することが殺意の温床となるからです。相手の人格や思いを踏みにじっておきながら、何も痛みを感じない。しかし逆に自分が言われると切れてしまう。
「殺すな」という戒めの根本にあるのは、相手を尊重する思いがあるのです。「私は、誰も殺していないから、自分には罪はない。」と居直って、自分を正当化してしまう。
神は、ご自身が造られた私たち一人一人を罪から救い出し「生かすために」身代わりの犠牲として、主イエスを十字架に付けられたのです。私達は、尊い犠牲の上に生かされている大切な存在なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章17節
「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
宣教題「愛の完成」 牧師 新保雅雄
主イエスは、「山上の説教」の中で、律法の掟を6個所取り上げられました。(5章21〜48節)。こうした一連の具体的かつ個別の教えに入る前に、主イエスは、弟子たちに対して、律法をどう受け止めるべきか語られています。
これは私たち教会に対しても、律法の役割、そして律法をどう受け止めるかということを教えられています。
主イエスはこう言われています。
「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
ここで言われている律法とは、旧約聖書の創世記から申命記までの五つの書(モーセ五書)を指しています。そして「律法と預言者」と言う場合の預言者とは、エリヤやイザヤという預言者たちだけではなく、イザヤ書やエゼキエル書といった預言書のことも指しています。
主イエスは、これらの「律法と預言者(預言書)を廃止するためでなく、完成するために来られました。」とは、すなわち主イエスは、律法や預言者の語る本来の意味、そこに示された本来の神の御心を回復し、完成するために来られたのです。
律法や預言者の語る本来の意味とは、「山上の説教」の7章12節に記されている、主イエスの言葉から解かります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言われている主イエスの言葉です。
この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という言葉は、単純でありながらも非常に深みのある大切な言葉です。すなわち律法の完成とは、愛の完成なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章14節
「あなたがたは世の光である。
山の上にある町は、隠れることが出来ない。」
宣教題「地の塩、世の光」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われています。
主イエスは、何か条件を付けて、「もし、○○ができるならば、地の塩、世の光になれる」だからなれるように、しっかり頑張りなさい、と言われたのではないのです。
また、特に選ばれた人、才能をもった人にだけ言われた訳でもないのです。今のままの、ありのままに「あなたが、地の塩であり、世の光なのだ」と言われているのです。
ここに、神の恵みによる幸いがあります。「神が、一方的に、恵みによって、私たちを選んでくださり、地の塩、世の光としてくださった。だから、相応しく生きよう」これが、選ばれた者に期待された生き方なのです。
救いも同じです。「何かが出来たから救われたのでは、ありません。」「救われたから神の言われるような人生を生きよう。」なのです。(出エジプト)先に神の救い恵みがあり、感謝の人生があるのです。
光は自分を照らすのではありません。 世の光としての私たちは、自分自身に光が当たることを望んではいけません。世の光としての私たちは、あくまでも、人々を照らすことや社会を照らすことが大切なのです。 ですから、世の光としての私たちは、この世に仕えることが求められています。その時、光が光らしく輝くのです。また塩も自分自身のためにあるのではなく、周りの腐敗を防ぐために清めに使われるのです。
地の塩も世の光も、自分のためにではなく、人のためにこそ存在します。だからこそ、私たちは、礼拝の場から、地の塩として、また、世の光として、それぞれの働きの場へと派遣されるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章9節
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
宣教題「平和の主」 牧師 新保雅雄
主イエスは、山上の説教の冒頭、「幸い」の七番目で、こう言われました。実に、平和は、神の愛と導きに促された人々の、具体的な働きによってこそ、実現し作り出されるのです。そして、神は、こうした平和への働きに仕える人々を、ご自身の子、神の子と呼んでくださるのです。
ここで大切なことは、平和を実現する者となるのか、あるいは、平和を乱す者となるのか。それは、言い換えれば、神の子と呼ばれることを望むのか、あるいは、闇の子、悪魔の子と呼ばれることを望むのかということです。
平和を実現する方法については、注意が必要です。ただ闇雲に力任せに武力をもって、平和を作り出そうとすることは、神の望まれる所では無いからです。握り拳を突き上げて、恐ろしい形相で、「平和を勝ち取ろう」と叫ぶことによっては、必ずしも、神の望まれる平和を実現することは、出来ないのです。何か現在の朝鮮半島の状況に似ている。
あの最後の晩餐の後の、ゲッセマネでの出来事、主イエスと一緒にいた者の一人が、剣を抜いて、大祭司の手下に打ちかかり、その片方の耳を切り落としてしまった。何とか、主イエスを守ろうという思いが、伝わってきます。しかし主イエスは、この者を制して、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた。
ここに、主イエスを通して、神が実現なさろうとする真の平和の意味が現れています。神は、力任せに人々を押さえ付け、圧倒することによって、平和をもたらす神ではありません。むしろ敵を赦し祈る愛によって、平和を実現することを望んでおられます。
本日の聖書 マタイによる福音書5章3節
「心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。」
宣教題「天国は心の貧しい人のもの」 牧師 新保雅雄
主イエスは、山上で、「幸い」についてお教えになられました。
ここで、「もし○○出来るならば、幸いになれます」などと言っておられるのでは、ありません。既に今ある状態に対して、「あなたは幸いだ」と、主イエスは断言しておられるのです。
3節、4節にある最初の二つの「幸い」は、貧しい人、悲しむ人、この世的な判断からすれば、決して「幸い」とは言えない状態にある人々を指して言われています。この世の常識や価値観に、対抗するかのように主イエスは、「幸いだ」と繰り返していきます。
まず、最初に「心の貧しい人々」が挙げられています。主イエスが言われている「心の貧しい人々」というのは、直訳すれば、「霊において貧しい人々」のことです。つまり、信仰的に飢え渇いている人のことです。言い換えれば、それは、神の助けを求めている人、神の助け無しには、もう生きて行くことが出来ないほどに、深い苦しみの中に疲れを覚えている人のことです。
こうした人に向かって主イエスは、「天の国はあなたがたのものだ」と言われています。つまり「心の貧しい人々」こそが、天の国では、最も中心的な存在であり、あなたたちのためにこそ、天の国はあるのだと、主イエスは、言っておられるのです。
病院が、病気に苦しむ人のためにあるように、天の国は、神の助けを求めている人のためにこそあるのです。病気の人は自力で努力で修行で、何かが出来ることで、癒されるのではありません。
自分ではどうにも出来ずに、神の助けを祈り願う。私たちは、神の助けを切実に求め、思わず「ああ、神様」と祈らずにはおられない状態に置かれることがある、それこそが、「心の貧しい」状態です。