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新住所
板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-22 17:29:04 (856 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章29〜31節

「イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」

  宣教題「わたしだ。恐れることはない。」  牧師 新保雅雄

  弟子たちは、主イエスの指示によって。日が沈んだガリラヤ湖を向こう岸に、渡ることになりました。主イエスは、一人山へ登られたので、船に主イエスはいません。その夜、ガリラヤ湖では、嵐のような逆風が吹き、舟は木の葉のように揺れ、進まず、転覆しそうになりました。

  ここでは「舟」は、「教会」「キリスト者」のことを指しています。嵐のような逆風が吹き荒れるこの世という湖、そしてそこに浮かぶキリスト者が乗る舟。弟子たちの乗った舟はまさに、教会の姿を現しています。

  舟をこぎ出すように命じたのは主イエスです。しかしその船には、目に見える主イエスはいません。嵐の海、彼らは、命の危険を感じました。

  この時弟子たちの乗った舟が逆風に悩まされたように、キリスト者も、世の中で試練という逆風に悩まされることがあります。波が高まり、沈没してしまいそうな試練に出会うのです。苦しみの中に置かれるのです。そういうとき、もはやダメかと思われる。そこは湖の真ん中です。助けてくれる人は誰もいない。その時ペテロは叫びます「主よ、助けてください」。

  まさにその時そこに、主イエスが近づいて来られるのです。それも湖の上を歩いて弟子たちの乗る舟に、近づいてこられたのです。それを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言って叫び恐れました。それほどに弟子たちは、嵐の中、恐怖の中にいたのです。

  海の真ん中や、誰も近づくことができない場所でも、「主よ、助けてください」その叫びに、主イエスは、救いに来られます。そこがどんなに困難な中であっても、主イエスは、来られる。そして言われる「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」


投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-15 04:44:16 (886 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章19〜20節

「群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」

宣教題「主の御手から希望」    牧師 新保雅雄

  主イエスは弟子に言いました。「彼らに食べるものを与えなさい。」弟子は答えました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」男性だけでも5千人もいるのです。とてもこの量では無理です。

  主イエスは「それをここに持ってきなさい」と言われました。いったい何をしようとするのか? 群衆の注目が集まります。

  主イエスは、そのわずかなパンと魚を手に取り、天の父なる神を仰いで讃美の祈りを唱えられました。主イエスは、役に立たないような、わずかなものであっても、天を仰いで父なる神様に感謝し祈るのです。

  そしてパンをちぎっては弟子たちに渡し、群衆におあたえになりました。主イエスは、パンを裂いて弟子に渡す。弟子たちは、またそれを群衆に配る。主イエスが、またパンを裂いて弟子たちに渡す。弟子たちは、そのパンをまた配る‥‥。そして魚も同じように、延々と続きます。

  すると不思議なことが起こったのです。パンと魚がいくら配っても、なくならないのです。配っても配っても、パンも魚もなくならない。延々と群衆に配られる。なんと群衆の目の前で、奇跡が起きているのです!

  こうして1万人以上の群衆が満腹するまで食べました。さらに驚くことに、残ったパンくずを集めると、12の籠にいっぱいになったのです。

  5つのパンと2匹の魚が、もし主イエスの手に渡らなかったら、それはただの5つのパンと2匹の魚のまま何も変わらない。しかし、主イエスの手に渡されたとき、主イエスの手の中で豊かに増え広がるのです。そしてついてきた群衆全員の人々を満たしていくのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-08 08:02:09 (879 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書24章36.42節

  その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

宣教題「それでもあなたを愛する」 牧師 新保雅雄

  いつ終わりが来るのか、いつ主イエスが再臨されるか分からない。「だから目を覚ましていなさい」42節と言われるのです。いつお迎えが来てもいいように、目を覚ましていなさいと言われる。

  では「目を覚ましている」とは、どういうことでしょうか?

  43節、家の主人は泥棒がいつ来るのか知っていたら、みすみす家に入らせないだろう。45節、悪いしもべは、主人はまだ帰ってこないと思って、仲間を殴り、飲み食いして大騒ぎをしていた。ところが主人は思いがけないときに帰ってきて、その悪い僕を罰する。だから目を覚ましていなさいと言われる。

  そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも立派な行いをしている」ということになるのでしょうか?

  主イエスは、ゲツセマネの園で、弟子たちに言われました。「わたしが向こうへいっている間、ここに座っていなさい」(マタイ26:36)。そうして少し離れた場所に行って、主イエスは神さまに祈りました。そして弟子たちのところに戻ってみると、弟子たちはみな眠っていました。そして3度同じことがあり、主イエスは言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。」まさに時が来たのです。そして弟子たちは神の裁きを受けたのでしょうか?

  決してそうではない。弟子たちは裁きを受けませんでした。では誰が裁きを受けたのでしょうか? それは主イエス御自身でした。主イエスは、私たちの肉の弱さをご存知です。

  主イエスは十字架で死んで三日目に復活されたとき、見捨てて逃げた弟子たちを赦し、再び招かれたのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-25 07:24:57 (884 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書2章9〜11節

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

宣教題「あなたを導く星」     牧師 新保雅雄

メリークリスマス!

クリスマス、おめでとうございます。全世界でキリストのお祝いがされています。私たちもその中にいること感謝です。

イエス様がお生まれになぅた所は、家畜小屋でした。そこは門も鍵もありません。誰でも、入ることのできる場所でした。そんなところにイエス様は、キリストとしてお生まれになったのです。

救い主、イエス・キリストが、誰でも会うことのできる家畜小屋でお生まれになったのに、実際に会いに来たのは、東の国からやって来た博士たちと、野宿をしていた羊飼いたちだけでした。キリストに会うことができた人と、会えなかった人がいたのです。

聖霊によって、主イエスが今も生きておられるならば、その主イエスにお会いするには、どうしたらいいのでしょうか。つまり救われるにはどうしたらよいのでしょうか。

その一つは「求める」ということです。この学者たちを見てください。彼らは、ユダヤ人から見たら異邦人です。ですから、聖書のこともよく知らないし、本当の神さまが、どんな方なのかもよく知りませんでした。少なくともユダヤ人よりは知らなかったのです。

しかし、彼らには、神さまへの救いを求める熱い心がありました。本当の神さま、そして自分たちが救われることを真剣に求めていました。その証は荒野を何百キロも旅することがてきたことです。

この時の博士たちのように、キリストに会うことを心から願うならば、キリストは私たちを導き共にいてくださるのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-18 07:31:53 (899 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書1章18〜21節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

宣教題「恐れず受け入れる」    牧師 新保雅雄

「神様が共にいて下さる」ということは、天使がヨセフに告げたように、恐れなくて良いということなのです。目の前に大きな困難があっても、恐れず一歩を踏み出しなさいということです。

この時ヨセフは恐れていました。マリアとヨセフは、婚約の身であり、子供を身ごもるということが、当時の社会では大きな罪を背負っていくことになります。ヨセフは迷いました。自分はマリアと関係していないことを表ざたにして、マリアを石打ちの刑にするのか。それとも表ざたにしないで密かに離縁してしまうか。

身ごもるマリアを受け入れて、本当にマリアとそのお腹の子を愛していけるのだろうか。それは無理なことです。ヨセフは世間の目を恐れていたのです。やはり、このまま静かに離縁しょう。

そう思いめぐらしているとき「ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」その恐れの中でヨセフは、天使からお告げを聞いたのです。そしてこれからの困難であろう人生を選んでいくのです。

私たちは、明日に対して、あまり明るい見通しを持っていないかもしれません。しかし天使は告げるのです。「神は我らと共におられる」私共の明日は、神様の御手の中にあり、今日も明日も、私たちと共にいて下さる。だから「恐れることはない」のです。

 あなたは一人ではないのだから、クリスマス感謝、感謝・・・


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