本日の聖書 マタイによる福音書16章1〜4節
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
宣教題「天からのしるし」 牧師 新保雅雄
ファリサイ派とサドカイ派は、ユダヤ教を代表する宗教指導者たちです。お互いに聖書の解釈に違いがあり、普段は仲が悪く対立していました。しかし、ここではお互い協力しあって、主イエスを試そうとして「天からのしるしを見せてほしい」と問いかけています。
天からのしるしとは、主イエスが神から遣わされた証拠のことです
ここに来るまで主イエスは、5千人の人の空腹を満たし、また体の不自由な人や病気で苦しむ人、悪霊に憑かれた人を癒してきました。この奇跡が主イエスが天から遣わされた「しるし」なのです。
しかし彼らからすれば、どんな奇跡を見せられても、それは天からのしるしとは認めたくないでしょう。それどころか益々、主イエスを落とし込める口実を探すでしょう。そして彼らは言うでしょう。何々をしたら、しるし、証拠を見せたら神の子と認めてやろう。
私たちも彼らと同じようなことを、主イエスに対して思っていないでしょうか。私の願い事を叶えて欲しい。叶えられたら神と心から信じられる。すなわち神かどうかは、私が判断する。どこかで私たちも「天からのしるし」を求める人になっていないでしょうか。
そんな人たちに主イエスは言われました。あなた達は、明日の天気が見分けられるのに、どうして私が神から遣わされたしるしであることが見分けられないのか。私自身が神から遣わされた。わたしが行う奇跡、私の語る言葉の中にこそ、神のしるしがあるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書15章32〜33節
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
宣教題「恵みを忘れる弟子達」 牧師 新保雅雄
今朝の聖書個所、少し前に宣教を聞いたように思います。14章13節「5千人に食べ物を与える」という同じような出来事がありました。そしてまた同じような出来事が起きる。何故でしょうか。
主イエスは言われました「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」相談を受けた弟子は、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と答えました。
その時、気がつくのです。少し前に五千人の人々の空腹を満たしたことを弟子は忘れてしまったんでしょうか? 五つのパンと二匹の魚しかなかった時(14章)、主イエスの御手を通る時に奇跡がおこり、大勢の群衆の空腹を満たしたのです。
私たちも、この時の弟子たちのように、主イエスによって祝福をいただき、恵と救いを経験したのに、大きな奇跡も経験したのに、御言葉に感動し涙を流したこともある。しかし、また同じような困難に出会ったとき、その恵の経験を忘れてしまう。そして悩みの中に落ち込んでいく。
私たちは、主イエスに頼り、信頼することを、何度も何度も忘れてしまうのです。しかし主イエスは、弟子たちを非難しませんでした。
神様の恵みを忘れてしまう、不信仰な弟子たちであるが、主イエスは決して見捨てませんでした。そして、前回と同じように、感謝の祈りをして、人々を再び満たしたのです。ここに神様の大きな愛があります。
本日の聖書 マタイによる福音書15章29〜30節
イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
宣教題「主のもとに一緒に行こう」 牧師 新保雅雄
主イエスは山に登って、「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人」 が山を登って来るのを待っておられた。病気の人にとって山を登るというのは大変な作業です。何で山に主イエスは登られたのか。
30節「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て」
すなわち人々は、自分のことだけを考えて、我先にと主イエスのところに来たのではなく、体の弱い人、ハンデを持った人を一緒に連れてきたのです。そして、「イエスの足もとに横たえた」のです。
人々は、そのように、自分の力では山を登ることが困難な人を助け、あるいは背中におぶり、あるいは手を取って道案内をし、あるいは板に載せて皆で「一緒に」連れてきたのです。わざわざ山に登ったのは、病気を癒すだけではなく、愛を学ばせるためだったのです。
ここに、この世の常識と神の御国との考え方の違いがあります。この世では、自分が幸福になるためには、人を押しのけ、踏み台にしてでも前に出なければならない。時には抜け駆けや騙してでも我先にと、それが社会です。そこから脱落した者、登れない者は、落ちこぼれと呼ばれ「負け組み」とされるのです。
しかし主イエスの考え方は違います。幸福なのは、主イエスのもとに愛を持って来る者であり、しかしそれは押しのけるのではなく、助け合い、弱い所をかばい合って、神様のもとに共に行くということです。そこに主イエスは大きな祝福を与えられるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書15章26〜27節
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
宣教題「神のご計画」 牧師 新保雅雄
主イエスは、異邦人の地、ティルスとシドンへ行かれた。そこに突然女性が現われ、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください、娘が悪霊にひどく苦しめられています!」と娘の癒しを願った。
しかし、主イエスは、「わたしはイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われ願いを断りました。子供とはイスラエル人であり、小犬とは異邦人のことです。
つまり主イエスは、神の選ばれた民、イスラエル人の救いのために遣わされている。あなたがた異邦人のためではない。というのです。
私たちは「こんなに一生懸命祈っているのだから、こんなに困っているのだから。神様は弱い者の神である。だから私の願いを聞いてくれて当然だ」と思っていないでしょうか。そして願いが聞かれない時「何も応えられない」と言う。私達の願いは、「自己中心」になってしまっているのではないでしょうか。
そこには、「神様の、お考えは、ご計画はどうなのか。なぜここ異邦人の地、ティルスとシドンへ来られたのか?」 そのように神のお考え、ご計画を第一にするということが、なくなってしまっている。私の願い事を第一にしている。そこに御言葉のヒントがある。
女性は言う、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。あなたのご計画があるのは、分かっています。それを第一になさってください。しかし、あなたのご計画を変えなくとも、娘を助けることがおできになると信じます。まさに、小犬が、主人の子供の食卓から落ちるパンくずでも生きるように」その時、娘の病気はいやされたのです。神が救い主であり救いの計画は、神のお考えである。私達はそのしもべなのです。
本日の聖書 マタイによる福音書15章10〜11節
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
宣教題「汚れは自分の心から出る」 牧師 新保雅雄
ユダヤ人の政治・宗教の指導者であるファリサイ派は、「罪人」と呼ばれる人と食事をしなかった。徴税人と食事をしなかった。娼婦とも食事をしませんでした。そんな罪人達と食事をすると、自分も汚れると思ったのです。そしてそのような人と触れたと思った時には、汚れた身を洗い清めたのでした。
私がまだ中学生の時、同級生の女の子がイジメにあっていました。彼女は「きたない」と言われていたのです。彼女の持ち物が「きたない」と言う。その持ち物にわざと触れて「あー汚い」と言って、その触れた手を他の子に触れて移す。
彼女は友達がいなくひとりぼっちでした。誰と話をすることもなく、暗く寂しそうな顔をして、いつもぽつんとひとりでいました。
今そのことを思い出すと、非常に心が痛みます。その子はどんなにつらかっただろうか、どんなに寂しかったことだろうか‥‥。どんなに苦しかったことだろうか。どんなに泣いたことだろうか。そして自分はなぜ、味方になってやれなかったのだろうか‥‥。
汚れていたのは、彼女なのでしょうか? 汚れていたのは、「汚れが移るから」と言って、からかい触れるのをいやがっていた人の方ではないだろうか。彼女をいじめ、からかい、「汚い」と呼んでいた人の心。その心こそが、汚れているのです。
主イエスが言われるように、「汚れ」というものは、外から移ってくるものではありません。まさに主イエスのいわれるとおり、「汚れ」とは、私達の心の中から出てくるものです。