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板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2016-08-14 07:56:04 (998 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書11章20節

「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。」

宣教題「悔い改めない町を叱る」   牧師 新保雅雄

今朝の聖書個所は、主イエスが悔い改めを求めて、たいへん厳しく町々を叱り付けています。叱り付けている町は、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムというガリラヤの町々です。

これらの町は、度々聖書に出てくる町です。ここで主イエスは、沢山の奇跡を行い、悪霊を追い出し、病気の人々を癒されました。 

ところが、これらの町々に住む人々は、奇跡を目の当たりにしても、主イエスをキリストとして、悔い改めて神に立ち帰ることがありませんでした。そこで主イエスは、強く叱り付けたのです。

「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」。この「不幸だ」という言葉は、ユダヤ教の会堂への出入り禁止を宣告する時にも用いられる、大変厳しい言葉です。

これらのガリラヤの町々を批判するために、悪名高きティルスやシドン、それにソドムを喩えに出された程、これらの町々は、不道徳に満ちた町なのです。不道徳な町ソドムを、神は滅ぼそうとしました。そこでアブラハムは、神に滅ぼさないように繰り返し願いました。しかしそんな願いも空しくソドムは滅ぼされました(創18)

主イエスは、ソドムを始めとする、不道徳で罪深い町々の方が、「まだ軽い罰で済む」と言われています。つまり神の奇跡が行われても、悔い改め神に立ち帰ろうとしない、ガリラヤの町々の人よりも、ソドムの方がまだましだと、厳しく警告しています。

果たして私達は、どうでしょうか。主イエスが私たちの罪のために十字架で死んで、三日目に復活し、そして赦し愛される。これほどの愛が、神から示されているにも拘わらず、悔い改めることも無く、神に立ち帰ることも無いならば、一体どんな言葉が、主イエスから語られるでしょうか。 


投稿者 : church 投稿日時: 2016-08-07 07:23:28 (1015 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書10章40節

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」

宣教題「主よ、御言葉をください」   牧師 新保雅雄

バプテスマのヨハネは、今、牢に囚われています。牢の中で主イエスの噂を聞きました。そこで自分の弟子を主イエスに尋ねさせました「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」「来るべき方」とは、キリストのことです

これに対して主イエスは、ヨハネの弟子たちの質問には、直接的には、お答えにならずに、こう言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」でした。

それではヨハネの弟子たちは、何を見聞きしたのでしょうか。主イエスは貧しい者たち、人に見下されている者たち、無価値な者たち、迫害されているもの、に語っておられた福音の言葉なのです。

ヨハネは、その主イエスの福音の言葉、救いの奇跡を一度も見聞きできなかったのです。自分が捕らえられるまで、主イエスは福音伝道を行われなかったからです。だから今、牢の中で苦しみ、叫んでいるのです。救い主イエスが語る、神の言葉を求めているのです。

そして主イエスは、ご自身が行った奇跡、癒し、語られた福音の数々を語られました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」この祝福の福音を、今、死に直面しているヨハネに送られたのです。

私たちの人生にも、苦難が押し寄せるときがあります。そんな時に心から主を信頼できているでしょうか。信仰が揺らぐ時がないでしょうか。時として自身の信仰の弱さを思いやられる時があります。そのようなときこそ、キリスト・イエスの御言葉が必要なのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-07-31 07:10:26 (870 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書10章40節

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」

宣教題「喜びも痛みも主と共に」   牧師 新保雅雄

12弟子は、福音伝道へと遣わされようとしています。そんな弟子たちに、主イエスは、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言われました。

果たして世の人々が、12弟子を受け入れるのか、それとも拒むのか。12弟子を受け入れることは、12弟子を遣わした主イエスを受け入れることであり、神を受け入れることになるのです。

つまり12弟子たちが、世の人に受け入れられた時の喜びは、主イエスの喜びであり、神の喜びなのです。その逆に12弟子たちが拒否された時の痛みは、主イエスの痛みであり、神の痛みであるのです。この派遣においては、主イエスと神が、喜びも、痛みも、弟子たちと共に味わってくださるのです。

続けて主イエスは、こう言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

ここで「この小さな者の一人」というのは、主イエスから遣わされる弟子たちのことです。その弟子たちに対して、主イエスの弟子だという理由だけで、冷たい水を一杯でも飲ませてくれるならば、その人は、必ずその報いを受けるというのです。

荒野の多いパレスチナでの水は貴重なものです。しかし水一杯とは、それほど大袈裟なもてなし親切ではありません。誰にでも行えることです。しかし、その小さな親切、それをするかしないかで、その人の人生は、神の祝福の人生になるのです。今日の小さなちょっとした優しさで、人生が大きく違ってくるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-07-24 07:19:17 (941 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書10章32節

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」

宣教題「信仰を言い現す」   牧師 新保雅雄

主イエスは、12弟子を福音伝道に遣わすに当たり、改めて弟子たちに覚悟して行くように語りました。

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」

これは、主イエスの弟子だということで、歓迎されるのではなく、むしろ社会では、嫌がられることの方が多いとうことなのです。

たとえ厳しい状況が待っていたとしても、自分は主イエスの仲間だと言い表すならば、主イエスもまた、天の父の前で、その人のことを、ご自分の仲間である、と言い表してくださるというのです。

どうでしょうか? 私たちは、どんな状況にあっても、「わたしはクリスチャンです」と、はっきりと信仰を表すこと事が、出来ているでしょうか。自分の都合のいい時、悪い時で使い分けしていないでしょうか。

続いて主イエスは、こう言われます。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

この現世ですべてが終わる、その後は何も無い、と考える人にとっては、主イエスの言われることは、理解出来ないでしょう。その人にとっては、終わりの日のことよりも、今この現世で、いかに要領良く生きるか、正義よりも利益を優先することに何の疑いも持たない。利益のためなら、ばれなければ許される。

しかし、天の国があり、終わりの日の裁きがあるならば、主イエスのこの言葉は、私たちのこの世でのクリスチャン人生に、大きな勇気を与えてくれるでしょう。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-07-17 07:00:13 (906 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書10章28節

「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」

宣教題「恐れの秩序」   牧師 新保雅雄

主イエスは、12弟子を福音伝道へ送り出すに当たり、「人々を恐れてはならない」(26節)、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)、「だから、恐れるな」(31節)と何回も「恐れるな」と繰り返し言われました。

親しい人や教会に来会する人に、神様のお話をすることは、そう難しいことではありません。しかし、こちらから出かけて行って、理解のない人や、初めての人に、神様のお話をすることって、大変勇気のいることです。主イエスに派遣される弟子たちも、おそらく心の中は、大変不安であり「恐れ」があったろうと思います。

それでは一体、私たちは、何を「恐れて」不安になるのでしょうか。世間体でしょうか、自分の評判でしょうか、人から文句を言われることでしょうか。あるいは批判を浴びること、恥ずかしさでしょうか。確かに宗教というだけで、嫌な目で見られることがあります。

心では愛する父なる神のお話をしたい。本当の心の安らぎ癒しを、多くの人にも味わってほしい。一緒に祈ろう。心ではそう願うのです。しかし肉体的な思い、社会的な思いが、不安や恐れを覚える。

そんな不安でいっぱいな弟子たちに、主イエスは「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」と言われるのです。

神との関係においては、愛することと、恐れることの両面が大切です。神への恐れの無い愛は、かえって神との関係を歪めてしまいます。神を恐れる者は、他の何者をも恐れる必要がありません。ですから、体しか殺すことの出来ない者に、魂までも売り渡しては、ならないと言われているのです。これが「恐れの秩序」です。


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