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投稿者 : church 投稿日時: 2016-10-30 07:30:00 (991 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章10〜13節

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。

イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」

宣教題「御国の秘密を知る者たち」   牧師 新保雅雄

先週は、主イエスが「種を蒔く人」のたとえ話しをされました。そして「種を蒔く人」のたとえ話の説明を、弟子たちだけにされています。

弟子たちには、たとえの説明をし、そのほかの群衆には、たとえを語ることだけで終わっているのです。主イエスは、弟子たちと他の人たち、群衆との間に、なぜ違いを設けているのでしょうか?

11節で、「天の国の秘密」という言葉を主イエスは、使っています。秘密というものは、みんなが知っていたら秘密になりません。一部の人だけが知っているから「秘密」なのです。主イエスの言われる「秘密」とは、神の御子イエス・キリストによって人類が救われるという、神さまの御計画のことです。

もっとストレートに、「わたしがキリストだ」「聖書が預言しているのはわたしのことだ」「わたしが神の子だ」と、言わないのでしょうか? それは、彼らが「理解できないから」だと、主イエスは言われています。では弟子たちと群衆の違いは、なんでしょうか? 

群衆は、目的を果たすと去っていきます。病気を癒してもらったら、主イエスのもとを去って帰っていきます。しかし弟子たちは、そうではありません。主イエスの周りにいつもいました。彼らは神を求めていたのです。御国を求めていたのです。癒しは通過点なのです

弟子たちは、癒された側から、癒す側になっていきます。そのためにはイエス・キリストは、神の御子である確信が必要なのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-10-23 06:44:50 (871 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章1〜9節

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

宣教題「私の心が良い土地になりますように」 牧師 新保雅雄

今朝のたとえ話は蒔かれた種のお話です。おそらく種とは、小麦のことでしょう。パレスチナでは畑に種を蒔くときに、乾燥しているので深く耕さないで、種を蒔いてあとから土をかけていくそうです

ここで言われる「種」とは御言葉のことです。「畑」とは、私たちのことです。つまり主イエスが私たちに聖書を通して御言葉を語るということです。そしてその種は、いずれ百倍、六十倍、三十倍の小麦の実を付けるのです。ですから、あなたの心にまかれた(語られた)御言葉にも大きな力があるのです。

しかし蒔かれた種が全て順調に育つわけではありません。あなたの心のあり方、信仰によって違うのです。「道端に落ちた種」のように、すぐに鳥が来て食べてしまう。聴くだけで留まらない人。

「石だらけで土の少ない所に落ちた種」のように、すぐ芽を出し受け入れるが、土が浅く根がないので、艱難があると直ぐやめてしまう。また「茨の間に落ちた種」のようにとは、種と一緒に茨も伸びていく、世の思いへの欲望が信仰の芽を妨げてしまう。

そして「良い地に落ちた種」は、御言葉を聞いて素直に受け入れる人である。その人は、一粒の種が百倍、六十倍、三十倍にもなる収穫を与えられるのです。主イエスの御言葉には、大きな力があります。私たちが、御言葉に聴き従い、それに従っていくならば、大きく豊かな実を結びます。今日あなたに種は蒔かれました。あとは種の力を信じてすべてを委ねて下さい。希望の人生が待っています。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-10-16 07:17:34 (874 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章48〜50節

「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

  宣教題「主イエスの家族」  牧師 新保雅雄

  弟子達は、主イエスの母マリアと兄弟たちが、会いに来ていると主イエスに告げました。すると主イエスは、「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か」と言われ、弟子たちのほうを指して言われました。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」

  最近の新興宗教の中にもある対応ですが、主イエスは、なぜこのようなことを言われたのでしょうか? たいへん冷たい言葉に聞こえてしまいます。これは主イエスの家族、肉親に向けて語られた言葉ではなく、弟子たちに向かって語られた言葉なのです。そこから見ていくと、この言葉の意味が分かってきます。

  ここにいる弟子たちは、主イエスにとって肉親と同じく大切であり、かけがえのない存在なのだ、ということになるのです。

  血のつながりも何もない、それぞれ異なる人生を歩み、お互いなんのつながりもなかった人々が、主イエスのもとに一つに集められている。この弟子たちを指して、主イエスは、あなたがたは「わたしの母、わたしの兄弟」わたしの家族だというのです。

  「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」それでは父の御心を行う人とは、何か立派な行いをした人なのでしょうか? 

  主イエスの弟子たちは、社会的に決して立派な人たちでもなかったし、優秀な学歴や高明な人でもなかった。ただ主イエスに従い、主イエスの語る御国の話に耳を傾けている。彼らの行いとは、ただそれだけのことなのです。それが父なる神様の御心なのです。信仰は聞くことから始まる。そして主イエスとの家族の始まりなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-10-09 06:45:48 (869 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章43節

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。」

  宣教題「愛の花を咲かせる」  牧師 新保雅雄

  私たちが家の掃除をするのは、お客さんを迎えるためであって、泥棒や空き巣を迎えるために、掃除をするのではありません。しかし、この家にやってきたのは、お客さんではなく悪霊だったのです。

  ここで言う「掃除をする」とは、一生懸命に律法を守ろうとすること、悪霊というゴミを外へ掃出し捨てることです。それは、自分の心を整えて、キリストを迎え入れるためです。つまり彼らは、キリストをお迎えするために、一生懸命、掃除をしていたのです。

  ところが、いざキリストが来られたとき、「おまえはキリストではない。おまえは救い主ではない。」と言って、家の中に入れようとはしなかった。だから空家のままになっていたのです。

  そこへ以前、掃除して追い出した悪霊が戻ってきた。そこは空き家になっていた。しかも掃除がしてあった。こんな都合の良いことはない。それで悪霊は仲間を呼んできて、掃除をした前よりも、多くの悪霊が住み着き、悪い状態となってしまったのです。

  「神様に対して罪を犯さないようにしよう」と一生懸命になり、罪という雑草を抜き続ける。しかし抜いても抜いても、罪の雑草は生えてくる。それでますます意地になって罪の雑草を抜く。

  いったい何のために、罪の雑草を一生懸命になって抜くのか?

  雑草を抜くのは、そこに色とりどりの花を咲かせるためなのです。

  教会に行くようになり、自身の心の中の罪を見つけ、悔い改めたのなら、そのあとに主イエスの愛の種を蒔いてください。掃除されたあなたの心に主イエスを迎えて、愛の花を咲かして下さい。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-10-02 06:53:30 (936 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章39節

「よこしまで神に背いた時代の者達はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

  宣教題「しるし以上のもの」  牧師 新保雅雄

  律法学者とファリサイ派の人々が、主イエスに向かって、こう言いました。「先生、しるしを見せてください。」つまり、律法学者やファリサイ派の人々は、自分がメシアであることを、納得させることが出来たならば、信じてあげようと持ち掛けているのです。

  しかし、律法学者やファリサイ派の人々の言葉を、そのまま額面どおり受け取ることは出来ません。彼らは、たとえ、どんな「しるし」を主イエスが示したとしても、なんだかんだとケチを付けては、主イエスを信じようとはしないからです。

  彼らは最初から主イエスを信じ、受け入れる気など、はなはだ無いのです。そんな 彼らの思いを知った主イエスは、彼らの「しるしを見せてほしい。」に対して言われました「預言者ヨナのしるしのほかには,しるしは与えられない。」

  ヨナは、神から預言するように指示されたにも拘わらず、これを拒み船で逃亡した。途中、その船が嵐に遭い難破しそうになる。その原因がヨナにあるとして、海に放り投げ出されてしまう。そして海の中で巨大な魚に呑み込まれ三日三晩、その魚の腹の中にいた。

  その後ヨナは、神の命令によって大魚の腹から吐き出され、ニネベという町で神の言葉を語る。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」こんなことを語ったならば、ニネベの人々に襲われるかもしれない。しかしヨナの預言を素直に聞き入れ、神の裁きを逃れる。

  「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」これはヨナの身に起きたことを例に出して、これから起ころうとしている、ことを語っておられるのです。


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