本日の聖書 マタイによる福音書18章15節
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」
宣教題「それぞれがキリストの体」 牧師 新保雅雄
今朝の聖書の御言葉には「教会」という言葉が出てきます。つまり、「教会」の中で起きる出来事を言われています。そして教会の中でも「罪を犯す」ということが起きてくるのです。
なぜならば、教会は主イエスによって「罪を赦された人」の集まりであって、「罪を犯さなくなった人」の集まりではありません。完全な人の集まりではなく「赦された罪人」の集まりです。
ですから教会の中でも問題が起こることがあります。私たちは肉の体を持つ以上、罪を犯さなくなったのではありません。だから、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という事が起きるのです。
そんなわたし達に主イエスは、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と言われる。世では普通そんなことをしません。しかし主イエスは、そのように言われるのです。これはいったいなぜでしょうか?
人は自分の立場というものがある。どんなに自分が間違っていると思っても、見栄や体裁のために素直に、謝れないときがある。更に、皆の前で罪を指摘されたら、誰だって意固地になるでしょう。
だから主イエスは、「行って二人だけの所で忠告しなさい」と教えられるのです。教会員みんなの前で裁くのではなく、相手を切り捨てるのではなく得るためです。心を開き過ちに気がつくように。
主イエスが続けて「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言われる。すなわち、本当の兄弟姉妹になるということです。つまり1人1人がキリストの体である。だからなのです。
本日の聖書 マタイによる福音書18章11〜14節
人の子は、失われたものを救うために来た。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
宣教題「主は、あなたを探し出す」 牧師 新保雅雄
今日の聖書箇所を読んだ時に、「自分は、この100匹の羊の中の、どちら側にいるのか?」と考えてみて下さい。つまり、「自分は迷わずにいた99匹の羊の側なのか、それとも迷い出た1匹の羊の側なのか」ということです。
自分をどちら側に置いているかで、この御言葉は、まったく違ったものに聞こえてきます。高いところから主イエスの言葉を聞くのか、それとも自分を低くして、迷えるところから主イエスの御言葉を聞くのかで、まったく違った御言葉に聞こえてきます。
以前わたしは、「自分が信じた。自分で教会にきた。自分の信仰が自分を救った」「自分が、自分が」と思っていました。しかし信仰とは、「自分」が主人公ではなく、神様が主人公なのです。神さまは、迷い出た1匹の羊を探し求める羊飼いのように、わたし達を心配しておられるのです。
信仰の主人公は自分ではなく、主なる神とキリストのものである「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ 15:16)。自分が主イエスを選び、自分が信じたと思っていた。しかし、そうではなかった。主イエスが、迷い出たわたし達を信仰へと導いてくださったのです。
わたしたちは、主の御言葉を忘れ、主のもとを離れ去ってしまった迷いでた羊かもしれません。そんな私たちを、主は捜し求め、とらえてくださったのです。
本日の聖書 マタイによる福音書18章6〜7節
しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
宣教題「暖かく迎え入れる」 牧師 新保雅雄
主は言われる。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである。」
「大きな石臼」とは、人の手ではなく馬やロバ、牛に引かせて回すほど重い石の臼のことです。そんなものを首につけられて海に沈められたら、二度と地上に浮き上がってくることはありません。
それほどまでに、「イエスさまを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」ということが、犯してはならない大罪なのです。
では「これらの小さな者の一人」とは誰のことでしょうか。5節までは「子供」と言われていますが、6節からは「これらの小さな者」と言われています。「小さな者」とは、もちろん子供のことですが、単に子供だけのことを言っているのではありません。
4節の「自分を低くして、この子供のようになる人」も指しています。すなわち年齢的には子供ではないけれど、子供のように低くなって神を求めてきた人、神を父のように信頼してきた人も含みます
「つまずく」というのは、石ころなどにつまずいて倒れることです。神を求めてやってきたのに、つまずかせて倒してしまい、先へ行けないことです。つまり教会の門をたたいてくる人を温かく迎え入れるということが何よりも優先され、神の最も望まれることなのです
いかかがでしょうか?私達は先輩のクリスチャンとして、新しい兄弟の見本になっていますか。御国へ続く道の、つまづきの石になっていないでしょうか。よいお手本になりたいものです。
本日の聖書 ヨハネによる福音書20章1節
「天使たちは、墓の外にいるマリアに向かって、「なぜ泣いているのか」と尋ねました。すると、マリアは、こう答えたのです。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
宣教題「死から生へ」 牧師 新保雅雄
イースターは、日曜日の朝早くに始まりました。この日、まだ夜が明け切っていない暗いうちに、マグダラのマリアは、主イエスが葬られた墓へと向かったのです。この墓には、入り口を塞ぐための石が置かれている筈でした。ところが、ある筈の石が、動かされていました。そして、墓の中に主イエスの遺体はありませんでした。
マリアは主イエスを捜しました。何と主イエスは墓の外で、マリアの後ろに立っていました。しかしマリアは、それが主イエスだとは分かりません。マリアは、既に主イエスは死んでいて、もはや生きてはいないと思い込んでいたからです。それで、マリアは、後ろに立っておられるのが、主イエスだとは分からなかったのです。
そんなマリアに、主イエスは、声をかけられました。 「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 既に、主イエスは死から復活して、マリアの後ろに立っておられます。しかし、マリアは、死の世界の中に、主イエスを捜していたのです。過去の中に、主イエスを捜そうとしているのです。
その時、主イエスが、「マリア」と呼び掛けられました。この時、この声にマリアは、生きておられる主イエスを見つけたのです。
ともすると、私たちは、マリアが墓の方向ばかりを見ていたように、過ぎ去った時にばかり、自分の思いを向けがちになることがあります。特に歳を重ねるにつれ、未来が見えなくなる。
しかし、主イエスは、私たちを、過去から未来、死から生へと招いてくださるのです。人が死で終わることなく、天の国へと続く道を、主イエスと共に歩むようにと、復活の中から、私たちを招いてくださるのです。今日イースターに私たちに声をかけられています。
本日の聖書 マタイによる福音書18章1,4節
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。(イエスは言われた)「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
宣教題「誰が一番偉いのか」 牧師 新保雅雄
この世には、絶えず順位というものがあります。例えば学校では成績による順位がある。会社では売上が競われ順位がつく。そして出世につながる。勝ち組である。弟子たちが主イエスに尋ねました。「だれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」弟子たちは、弟子の中での自分の順位が気になったのでしょう。彼らは世の中の勝ち負けが、天の国でもあると思ったのでしょう。自分の順位は?
誰が偉いのか。この「偉い」という言葉は、人と人を比べたときに使う言葉です。つまり、「偉い」人がいて、「偉くない」人がいる。そして人は自分の位置を知るために他人と比べる。「あの人よりは、自分の方が上だ」そして安心する。世は正に競走社会である。
主イエスの時代、ファリサイ派、サドカイ派という宗教指導者が、偉いとされました。律法を厳格に守る。更に事細かく宗教規則を作り、それを守ってみせる。週に2度断食し、神に献げものをする。貧しい人々への施しも忘れない。「あの先生は、なんと立派な人なんだろう」と世の人から称賛を浴びることになる。
まさにこの世は、人間を順位付けし、高い低いと評価する。善し悪しを問う。そして少しでも自分を高いところに置きたいと競い合う。世での競争に勝利したものは勝ち組として「世から賞賛」される。では落ちこぼれた者は、どうするのか? 自分の弱さを神様に心から祈るだろう。そこに「神からの恵である信仰」が生まれる。
弟子たちも、まさにそういうこの世の価値観、競走にとらわれていたということが分かります。すなわち教会も同じく、誰が偉いとか偉くないとか、そのように人を比べてしまう過ちに、おちいる危険があるということです。主イエスは言われます、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」