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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2016-12-04 08:02:47 (890 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章54〜58節

「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」

宣教題「こんな私を助けて下さい」   牧師 新保雅雄

「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」主イエスの奇跡と私達の信仰には関わりがある。私たちが主イエスを信じるかどうかによって、違ってくるというのです。

「信じる」という私達側からの行為と、「奇跡」という主イエスの御業が関係あると言われる。私たちの信仰によって、主イエスの御業が行われ、癒しや救いがある。これはたいへん重大なことです。

私たちは、神を信じていると思っているが、ささいなことで腹が立ち、友人を憎んでしまう。収入が少なければ不安になりイライラする。そもそも私たちの信仰は、あやふやで足りないのです。どんなにがんばってみても、「信じ切る」ということは、自分の力ではできないのです。では、救いはない絶望しかないのでしょうか?

私たちは、何も満足にできない。信仰すら無い。しかしただ一つ、神様に対してできることがあります。「信仰のない私を助けて下さい」と言って、そのままの自分を主イエスに投げ出し、すがりつくことです。あの病気の息子の救いを必死に主イエスに願う父親のように(マルコ9:14〜)そんな私たちでも受け入れてくださるのです。

何故なら主イエスはご自身の命をかけて、あなたを救いだし、愛してくださったからです。「信仰」とは、主イエスに弱い自分を正直に告白し願うことなのです。しかしナザレの人々は、先入観が邪魔をして、主イエスに願うことができなかったのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-11-27 07:05:21 (884 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章51〜52節

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

宣教題「天国の学者」   牧師 新保雅雄

「天の国のことを学んだ学者」とは、「天国の弟子となった人」と言う意味です。では「天国の弟子となる」とはどういうことでしょうか? 「天国」とは、「神のおられる国」という意味です。つまり主イエスのいる所が天国です。主イエスの御言葉を学んで、主イエスの弟子となる人のことを主イエスは、「学者」と言っています。

私達は、「学者」というのは、学問を修めた人のことを言います。現代で言えば、大学を出て、さらに大学院へ行き、専門分野を探求し、研究、探求して、博士論文を書き、学会で認められて、大学の教授になっていく。そういう人のことを、私たちは「学者」と呼びます。

また当時であれば「律法学者」のことを学者と呼びました。聖書とユダヤ教、律法について、有名な先生について深く学んだ人が「学者」です。

しかし、この世の学問をどんなにおさめても、人々から「学者」と呼ばれても、主イエスの十字架を理解することができなかったら、自分の中に潜む深い罪の心を知らなければ、天国が何か分からないのです。

神様のことを深く学び聖書に精通していた、あの律法学者やパリサイ人が神から遠かったのです。彼らは古い倉しか持っていなかったのです・

逆に神から遠いと思われていた、徴税人や漁師の方が神に近かったのです。なぜなら主イエスを子供のように、素直に信じて受け入れたからです。新しいものも古いものも受け入れたのです。

主イエスは、律法学者たちを退けました。しかし、主イエスから天国のたとえ話を聞いて、それを受け入れた弟子たちを、主イエスは「天国の学者」と呼ぶのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-11-20 08:07:25 (806 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章47節

「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」

宣教題「神は、全ての魚を集められる」  牧師 新保雅雄

きょうのたとえ話は、「天の国は次のようにたとえられる」ということで始まり、海に網が打たれるたとえになっています。

47節「いろいろな魚を集める」、ここは原文では「いろいろな魚」ではなくて、「すべての種類の魚」となっています。そこに天の国、神様の世界、神様の救いの世界のすばらしさが、あらわれているのです。

海に網が投げられる。その網の中に入っていた魚とは、神の網によってとらえられ、教会へと導かれた人々のことを指しています。そして、その神の網の中には、すべての種類の人々が入っていたのです。

教会にもいろいろな人が導かれます。世間の人から見れば、「教会とは、聖人君主のような、真面目で善人な、心の清らかな人の集まりだ。」と思っている人がいます。そう思う人が教会に来て、がっかりする場合が多々あります。「なんだ教会も世間と同じですね。」というのです。

主イエスが言われるように、この網は、「あらゆる種類の魚」が捕らえられているのです。伝道とは神の行う業です。ですから、神様がいろいろな人々をとらえてくるのです。神様は、「この人は教会にとって大切だから捕まえて網の中に入れよう。」「この人は教会にふさわしくないから、網の中に入れない。」などと人を選んだのではなく、何の差別もしないのです。すべての人に網をかけ、教会へ導こうとされているのです。

ですから教会にも、この世と同じように、様々な人がいます。当然全ての人が導かれたのです。だから、教会は清廉潔白、聖人君主の集まりではありません。そういう意味では、世間と同じです。だから「こんな不純な私でも救われる」ことが出来るのです。

今日あなたは神の網によって教会に導かれました。是非、神の愛のすばらしさを信仰によって体験してください。必ず救われます。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-11-13 07:40:11 (852 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章44〜46節

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。" 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

宣教題「全てを献げる」    牧師 新保雅雄

ここには二つの天の国の例えが語られている。最初の天の国は「畑に隠された宝のようなものだ」です。畑で宝を発見した最初の人は、それを全部自分のものとしようとする。それで、宝を再び土の中に埋め戻し、何食わぬ顔して一旦帰る。その後、自分の財産をすべて処分して、その畑ごとそっくり買ってしまう。

次の天の国は「良い真珠を捜している商人のようなものだ」です。この真珠の商人は、良い真珠を探し歩いていました。そしてついに最高の真珠を見つけたのです。そこで彼は、持ち物を全て売り払って、その最高の真珠を買ったのです。

両方に共通しているのは、「全財産を売り払って買う」ということです。「天の国」とは、そのようなものであると主イエスは言われています。天の国とは、イエス・キリストのことを言われています。

イエス・キリストの愛を知るとき。この社会という大きな畑のような所で、宝物を見つけた時のように。あの商人が最高の真珠を見つけた時のように。今あるものを全て捨て去っても手に入れたい。そんな何ものにも代え難い天の国、イエス・キリストの愛。

私たちは、信仰というのは「差し出す」ことではなく、「いただく」ことであると思っていないでしょうか。私たちが主イエスを信じるとき、私というものを神様にお献げすることから信仰は始まる。

つまり「自己を捨てる」ことなのです。私を献げること、信頼して委ねること、天の国とは、この信頼関係で出来上がっているのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-11-06 07:14:49 (916 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章29節

主人は言った「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」

宣教題「あなたは大切な一本の麦」  牧師 新保雅雄

畑に良い種が蒔かれました。その夜、闇に紛れて悪魔がやってきて、毒麦の種を蒔いていきました。時が立ち、両方とも成長する。やがて穂がつき始める。そこで初めて、毒麦が混ざって生えていたことに気がつく。農夫達は、大変だ、すぐ抜かなくてはならない。世の常識で考えれば、毒麦が生えている、と分かった時点で一気に刈り取るでしょう。

「毒麦」、これを食べると食中毒をおこす恐ろしいものです。当時は、死ぬ者もいたことでしょう。農夫は、主人に言います。「今すぐに毒麦を抜きに行きましょうか」。ところが、この主人は、「毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜くかもしれない。だから毒麦を抜かないで、そのままにしておきなさい。」こう言うのです。

この「主人」とは、神様のことです。なぜこの主人は、毒麦だと分かった時点で、毒麦を抜かないのでしょうか? 早く抜かなければ、他の良い麦の生長にも悪い影響を与えます。それに毒のある麦ですから、わかった時点で、早く引き抜かなければなりません。しかし神様は、抜かないで、刈り入れのときまで、そのままにしておけと言うのです。

ここに「神様の愛」があります。毒麦を抜くときに、間違って良い麦も一緒に抜かれてしまうかもしれない。たった1本の麦さえも、誤って抜かれてしまうことがあってはならない。私たち一人一人は、神さまにとって、大切な1本の良い麦なのです。しかし農夫は、良い麦を守るには、多少の犠牲があっても、今のうちに抜いてしまおう。そう思ったのです。

1本でも間違って抜くことがないように。待ってくださる神の愛。今私たちには、困難や試練もあるかもしれない。あるいは毒麦に毒されているかもしれない。しかし、愛されているのです。神さまは、確かに愛する良い種を蒔かれたのです。そのことを信じてください。その時が来れば、あなたは必ず神の御国へと救われます。


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