本日の聖書 マタイによる福音書4章16節
「暗闇に住む民は 大きな光を見、
死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ」
宣教題「暗闇に光が射し込んだ」 牧師 新保雅雄
主イエスは、私たちを罪から救うために、十字架で犠牲になってくださいました。何の罪も犯さなかったにも拘らず、暗闇と無縁であったにも拘らず、敢えて暗闇の中に飛び込んで来てくださいました。私たちの罪を身代わりとして、十字架で死んでくださったのです。ここに、神の愛があります。
この世には、様々な光があります。ギラギラ脂ぎった光、金と欲にまみれた光もあります。また人を貫く心を閉ざさせる冷たい光、人を監視する批判する光もあります。
しかし主イエスのもたらす光は、神の愛に溢れた、柔らかな光です。この光の方に、向き直り、体と心に、主イエスの光を浴びるときこそ救いの始まりの時です。主イエスのもたらす光に向き直ることこそが、文字通り「悔い改める」ことなのです。
せっかく主イエスによって、救いの光が射し込んでいるのに、この光に背を向けてしまえば、その人は、光を受け取ることが出来ません。相変わらず、闇の中であえぐ生活を続けることになるのです
確かに、この世には、暗闇を思わせる事件や出来事が、あちこちで起こります。でも、そんな中にも主イエスの光は射し込んでいます。
この光の方に向き直り、心を開いて、主イエスを受け入れることで、私たちは、心を温められ、励まされ支えられるのです。
悔い改めて主イエスの光を浴びるとき、今まで隠されていた自分の罪を明らかにされることで、痛みや葛藤を伴うことになるかも知れません。しかし、この悔い改めの痛みこそが、あなたを新しく変えていく産みの痛みであり救いの始まりです。全てを委ねて下さい。
本日の聖書 マタイによる福音書27章39,40節
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」
宣教題「十字架に向かい合う」 牧師 新保雅雄
主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入られました。十字架に付けられる5日前のことです。その時、人々は、「なつめやし」を切って道に敷き(21章8節)、主イエスをメシア、キリストとして、たたえ喜んで迎え入れたのです。
ところが、数日の間に状況は一変してしまいます。ユダヤ教指導者、祭司長たちのたくらみによって、主イエスは、神を冒涜したとして、十字架に付けられることになったのです。
通りがかりの人々も、祭司長たちも、さらに一緒に十字架に付けられた強盗たちさえも、寄ってたかって、主イエスを小馬鹿にし、「神の子なら自分を救ってみろ」と挑発したのです。あの荒野での悪魔の誘惑の時の悪魔の言葉を思い出します。
主イエスの十字架は、全ての人の罪を露わにしました。その罪は、主イエスの身に全てを負わせることになりました。そして、主イエスは、十字架での死を迎えられました。それは、全ての人の罪を身に負った身代わりとしての犠牲の死でした。
人は、自分の罪を明らかにされ、自ら、その罪と向かい合い、これを認めること無しには、救いに至ることは出来ません。主イエスの十字架を自分の罪の結果だと悔い改め、受け入れるならば、私たちは罪を清められ、赦され、救われるのです。十字架に大胆に近づく者には、主イエスを通して、神の救いが与えられるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書27章21節
「そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。」
宣教題「身代わりになられた主」 牧師 新保雅雄
主イエスは、夜中に捕らえられ、大祭司カイアファの屋敷でユダヤ側の裁判を受け、夜明けになると、祭司長たちによって、総督ピラトの前に連れて来られました。祭司長たちは、神を冒涜したという理由で、主イエスを死刑にしようと決めていました。
当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたので、実際に死刑を執行する権限は、ローマ帝国から派遣されていた総督が持っていました。そこで祭司長たちは、総督ピラトに訴え出たのです。
ピラトは、人々が主イエスを自分に引き渡したのが、ねたみのためであると知っていました(18節)そこでピラトは、祭りの時に、民衆の希望する囚人に恩赦を与えて、釈放する慣習を利用して、主イエスを釈放しようと考えたのです。
悪名高き囚人バラバ・イエスと、主イエスのどちらを釈放して欲しいのかと、群集に尋ねたのです。通常であれば、誰が考えても、罪の無い主イエスが釈放されることを選ぶ筈です。そうすれば、人々の願い通りに主イエスを釈放したのだとユダヤ側に言えるのです。
しかし、扇動された群衆は、バラバの代わりに主イエスが十字架に付けられることを願ったのです。このことによって、主イエスの十字架の意味が明らかになったのです。正しい方である主イエスが、罪ある者、死刑にされても致し方ない者の身代わりとして、十字架に付けられたことを現すのです。
罪ある私たちを救うために、十字架で犠牲となってくださったのです。ここに、神の愛があります。人を罪から救い出すためには、ご自分の大切な独り子である主イエスを犠牲にすることも厭わない、大きな神の愛があるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書26章75節
ペトロは「鶏がなく前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
宣教題「ペテロが流した涙」 牧師 新保雅雄
一番弟子のペトロは、主イエスが捕らえられた時、一旦は、他の弟子たちと同じく、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。しかし、思い直し主イエスを追い掛け、大祭司の屋敷の中庭にまで入り込みました。屋敷では、主イエスを死刑にする為の裁判が始まっていました。
ペトロは、大祭司の配下にある人と共に、屋敷の中庭に座っていました。そこへ一人の女中がやって来て、こう言ったのです。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」 ペトロは、「私は、主イエスの弟子のペトロだ」と名乗ることも出来たのです。しかし、名乗る勇気がありませんでした。自分の身を守るための言葉でしかなかったのです。
ここに自分の身を守ろうとする醜いペトロの姿があります。一番弟子としての意地も誇りもなく、ただただ、その場しのぎの行動を繰り返す、悲しい姿が浮き彫りになっているのです。
「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(26;34-35)ペトロは、どんな時にも、主イエスに従います、と言っていたのです。主イエスに誓ったことを、簡単に破ってしまった自らの罪と身勝手さを、ペトロは、嫌と言うほど突き付けられたのです。
しかし、幸いなことに、主イエスは十字架で死んだままにはなりませんでした。神が、死をも乗り越える力によって、十字架で死んだ主イエスを、三日目に、復活させられたからです。そして、復活した主イエスは、ペトロを始めとする弟子たちと再びお会いくださり、弟子たちの罪を咎めることなく、罪の赦しを宣言してくださったのです。
こうして、ペトロには、道が開かれました。悔い改めて、神に立ち帰り、再び、主イエスに従う道が開かれたのです。復活によって永遠の命を信じた時、彼は大きな勇気を身に着けたのです。
本日の聖書 マタイによる福音書26章50節
イエスは「友よ、しようとしていることをするがよい」といわれた。
宣教題「人の思いを超える御心」 牧師 新保雅雄
主イエスが、12弟子たちと「最後の晩餐」をされ、夜中にゲツセマネでの祈りを終えられた時のことです。さっきまで最後の晩餐を共にしていた12弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスの所にやって来ました。そして、「先生、こんばんは」と言って、主イエスに接吻したのです。
ユダの言葉「先生、こんばんは」そして「接吻」とは、相手への敬意、親愛の情を示すものであるはずです。しかし、ユダは、これを悪意あるものに変えてしまいました。
神に背き、自分を正当化する者は、主イエスの存在が邪魔になるのです。主イエスは、何が神の御心であるのかを明らかにするからです。そのため、頑なになって、悔い改めて神に立ち帰ることを拒む者は、自分が正しいことを主張し続けるために、目障りな主イエスを、抹殺しようとするのです。
しかし、こうした試みは、決して成功致しません。たとえ、主イエスを十字架に付けて殺すことに成功しても、神は、死人の中から復活させることが出来る力を持っておられるからです。人間は、神の相手になれるほど強くはありません。相手にならないのです。
時に、神は、私たちの思い、願い、予想、判断、常識を超えた形、すなわち、全く思ってもいなかった形で、ご自身の救いの計画を成し遂げられます。神の子イエスが十字架で殺されることで人の救いを達成することは、正に、人の思いに反しています。
こうして神の救いの御業が成し遂げられたことを知る私たちは、時に、我が身を襲う思いがけない苦難、辛い出来事の中にも、神の御心があることを信じたいものです。