本日の聖書 ルカによる福音書4章18,19節
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
宣教題 「主よ、憐れんで下さい」 牧師 新保雅雄
主イエスは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた。その後荒野での40日間に渡る悪魔の誘惑を終えられ、ガリラヤ地方で神の御国について宣教された。そして故郷のナザレにおいても会堂で神の御国について教えられた。そこでの出来事である。
主イエスは、旧約聖書のイザヤ書を朗読され、このイザヤ書の預言が実現する。と言われた。その預言とは、「旧約聖書で約束されている救い主は私である。世からの解放、神への回復、欲望からの自由をもたらすために今日私はここに来たのだ。この預言の言葉は、私によって成就(実現)するのだ。」というものでした。
主イエスが使わされた人々は「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人、」などであり。
「社会的な成功者、地位を持った人、何も不自由を感じない恵まれた人」。世の「成功者」「満ち足りた人」たちに、主イエスの救いは、なかなか信じにくく、必要性を感じにくいものでした。
彼らには主イエスの教えは、不自由を感じるものであった。
皆さんは、「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」の問いかけに、うなずけるでしょうか?
「こんなどうしょうもない私です。主よ私を憐れんでください。」と言えた時、主イエスの救いは、あなたのすぐ近くにあります。
本日の聖書 ルカによる福音書13章33節
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」
宣教題 「ゴーイング マイウエイ」 牧師 新保雅雄
主イエスと弟子達のもとに、ファリサイ派の人々が近寄って来た。ファリサイ派とは、主イエスを心よく思っていないユダヤ教の一派で、主イエスを十字架刑へ送ったのはこの一派です。
しかし、一転して主イエスに危険が迫っていることを教えに来たのです。当時、ガリラヤを治めていたヘロデ王が、主イエスを殺そうと狙っている。早くここから逃げるように教えに来たのです
自分を殺そうとする人が、来るということを聞いたら、あわてふためいて、どこに逃げようかと、するのではないでしょうか。しかし主イエスは、逃げるどころか全く動じません。そして、ヘロデ王を狐とよんで、ご自分の進む道を、はっきりと示されました。
そしてファリサイ派の人々に向かって「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」と言われるのです。
悪霊に取り付かれた人から悪霊を追い出し、また病気に苦しむ人を癒し解放しました。そして全ての人の罪を赦す為、十字架の待つエルサレムへ向かう。これが主イエスの進む我が道なのです。
世のどんな権力者の脅しにも屈せず、今日も明日も、次の日もいつも通りに、人を救う道を歩き続ける主イエス。
どんなに強い権力を持つ、自分を付け狙う者にたいしても、全く動じない、今やるべき事を優先されました。それが主の道です。
自分の命よりも今最も愛を必要としている人、救いを待って苦しんでいる人、そこが主の道なのです。どうか私たちも世の目を恐れずに、主の歩かれた道に従いたい。勇気を下さいと祈りたい。
本日の聖書 ルカによる福音書13章23〜24節
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた「狭い戸口から入るように努めなさい。」
宣教題 「人生の荷物を減らす」 牧師 新保雅雄
ある人が主イエスに「救われる者は少ないのでしょうか」と訪ねました。それに対して「狭い戸口から入るように努めなさい」と主イエスは答えた。いつの世も人々の関心事は「どうしたら救われるのか」だ。
この後主イエスは、金持ちの議員に言われています「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(ルカ18:24,25)
さらに主イエスは、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と語られた。誰もが神の御国(救い)へ入りたいと願っている。しかし、実際には、入れない人が多い。 なぜでしょうか?
御国へ入るとは、この世の人生を終わるとき、その先の神の国への入り口、門を指している。その門へは、信仰という切符一枚あればいい。
しかし、私たちは、あまりに有り余るものを持ちすぎている。財物や、それを求める欲望という心が、大きすぎるから、狭い門からは入れない。御国へつながる門は、狭いからだ。
パウロは、人生は旅のようなものだと言われている。人は神から生まれ、また神の元に帰る。裸で生まれ裸で帰る。この世の人生は旅。旅の途中で沢山の荷物を持ちすぎるあまり、重たくて自分の家に帰ることが出来なくなる。世は、正に沢山持つ者を成功者と呼ぶからである。
ではどうしたら荷物を減らすことができるのだろうか。いままで蓄えてきた世への執着、神から離れ世にとらわれた心を悔い改め、主イエスの十字架によって軽くしていただくのだ。
そのことを「自分の十字架を背負って着いて来なさい」と言われる。十字架の先に、狭い神の国の門がある。旅慣れた人の荷物は少ない。
本日の聖書 ルカによる福音書13章1〜3節
「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」
宣教題 「誰が罪深いのか」 牧師 新保雅雄
主イエスのもとに来た人が「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言う。これはエルサレム神殿へ礼拝に来たガリラヤ人を、ポンテオ・ピラトが殺してしまったという意味です。
災難に合ったのは、ガリラヤ人が罪を犯したからではないだろうか。
「これはバチが当たったからだ」と考える人がいる。つまり結果を見て原因を探す、裁く人がいる。因果応報、悪いことが起きるのは、そこに悪い行いや原因があるに違いない、と考える。
私が若い時に入信していた新興宗教も、悪いことが起きると、その原因を探る。信心が足りないから事故に合った、あなたの先祖が犯した罪があなたに祟っている。印鑑が悪い、家の方角が悪い、名前の画数が悪い。運勢を上げる為と称して高額な金を払わせる。更に信仰心を追い立てていく。世間一般で、よく聞く話だ。
主イエスは、2節「そのガリラヤ人たちが、そのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語られた。
善いか悪いかを詮索する人に対して、まず「自分自身を悔い改めなさい」。誰が罪深いのか、誰を裁くのか、それを決めるのは、あなたではなく神だ。他人を詮索する前に、自分自身を顧みなさい
周りの人と比較して、自分は真面目だ、自分の方が勝っている。などと考えるべきではない。悔い改めるは自分自身からだ。
本日の聖書 ルカによる福音書24章11〜12節
「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」
宣教題 「もう一度会いたい」 牧師 新保雅雄
安息日(土曜日)が終わり、週の初めの日(日曜日)になると、女性たちは、朝早く、主イエスの遺体を清めるために、香料を携え墓に行く。墓に着いてみると、墓の穴を覆っていた石が、わきに転がされていて、主イエスの遺体が墓の中に見当たらなかった。主イエスは、日曜日の朝早く復活されたのです。
女性達は、そのことを弟子達に伝えた。ところが弟子たちは、女性達の話が信じられない。しかしペトロだけは、女性達の話を確かめる為、主イエスの墓に向かって一目散に走り出した。
逮捕された主イエスを三度も知らないと言ったペトロ、人一倍、主イエスのことが気になっていたのだ。もし主イエスが復活されたのなら、「そんな人は知らない」と裏切ってしまった自分を、やり直せるかも知れない。もう一度会いたい。望みを抱き走った。
主イエスは言われる「あなたの罪は赦された。悔い改めて、神に立ち帰りなさい。」主イエスの十字架によって、私たちは罪を赦されました。そして私たちは「主よ、私は罪深い者です。」と告白できる。ここに十字架と復活によって示された「神の愛」がある。
自分の罪と向き合う勇気がないと、主イエスの十字架によって、罪が赦される、恵みと喜びを、心から味わうことは出来ない。
主イエスの十字架を見上げ、自分の罪を正直に認める時に、主イエスご自身が、私たちに近付いて来てくださり、復活して、今も生きておられることを知らせてくださる。
ああ「主にもう一度会いたい」そして赦しを請いたい。そんなペテロに「あなたの罪は赦された」私は、いつもあなたと共にいる。