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板橋区仲町23−17
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投稿者 : church 投稿日時: 2017-02-19 07:32:36 (851 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書15章29〜30節

イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。

宣教題「主のもとに一緒に行こう」   牧師 新保雅雄

  主イエスは山に登って、「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人」 が山を登って来るのを待っておられた。病気の人にとって山を登るというのは大変な作業です。何で山に主イエスは登られたのか。

  30節「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て」

  すなわち人々は、自分のことだけを考えて、我先にと主イエスのところに来たのではなく、体の弱い人、ハンデを持った人を一緒に連れてきたのです。そして、「イエスの足もとに横たえた」のです。

  人々は、そのように、自分の力では山を登ることが困難な人を助け、あるいは背中におぶり、あるいは手を取って道案内をし、あるいは板に載せて皆で「一緒に」連れてきたのです。わざわざ山に登ったのは、病気を癒すだけではなく、愛を学ばせるためだったのです。

  ここに、この世の常識と神の御国との考え方の違いがあります。この世では、自分が幸福になるためには、人を押しのけ、踏み台にしてでも前に出なければならない。時には抜け駆けや騙してでも我先にと、それが社会です。そこから脱落した者、登れない者は、落ちこぼれと呼ばれ「負け組み」とされるのです。

  しかし主イエスの考え方は違います。幸福なのは、主イエスのもとに愛を持って来る者であり、しかしそれは押しのけるのではなく、助け合い、弱い所をかばい合って、神様のもとに共に行くということです。そこに主イエスは大きな祝福を与えられるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-02-12 07:23:55 (865 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書15章26〜27節

イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

宣教題「神のご計画」   牧師 新保雅雄

 主イエスは、異邦人の地、ティルスとシドンへ行かれた。そこに突然女性が現われ、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください、娘が悪霊にひどく苦しめられています!」と娘の癒しを願った。

 しかし、主イエスは、「わたしはイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われ願いを断りました。子供とはイスラエル人であり、小犬とは異邦人のことです。

 つまり主イエスは、神の選ばれた民、イスラエル人の救いのために遣わされている。あなたがた異邦人のためではない。というのです。

 私たちは「こんなに一生懸命祈っているのだから、こんなに困っているのだから。神様は弱い者の神である。だから私の願いを聞いてくれて当然だ」と思っていないでしょうか。そして願いが聞かれない時「何も応えられない」と言う。私達の願いは、「自己中心」になってしまっているのではないでしょうか。

 そこには、「神様の、お考えは、ご計画はどうなのか。なぜここ異邦人の地、ティルスとシドンへ来られたのか?」 そのように神のお考え、ご計画を第一にするということが、なくなってしまっている。私の願い事を第一にしている。そこに御言葉のヒントがある。

 女性は言う、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。あなたのご計画があるのは、分かっています。それを第一になさってください。しかし、あなたのご計画を変えなくとも、娘を助けることがおできになると信じます。まさに、小犬が、主人の子供の食卓から落ちるパンくずでも生きるように」その時、娘の病気はいやされたのです。神が救い主であり救いの計画は、神のお考えである。私達はそのしもべなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-02-05 07:14:58 (798 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書15章10〜11節

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

宣教題「汚れは自分の心から出る」   牧師 新保雅雄

  ユダヤ人の政治・宗教の指導者であるファリサイ派は、「罪人」と呼ばれる人と食事をしなかった。徴税人と食事をしなかった。娼婦とも食事をしませんでした。そんな罪人達と食事をすると、自分も汚れると思ったのです。そしてそのような人と触れたと思った時には、汚れた身を洗い清めたのでした。

  私がまだ中学生の時、同級生の女の子がイジメにあっていました。彼女は「きたない」と言われていたのです。彼女の持ち物が「きたない」と言う。その持ち物にわざと触れて「あー汚い」と言って、その触れた手を他の子に触れて移す。

  彼女は友達がいなくひとりぼっちでした。誰と話をすることもなく、暗く寂しそうな顔をして、いつもぽつんとひとりでいました。

  今そのことを思い出すと、非常に心が痛みます。その子はどんなにつらかっただろうか、どんなに寂しかったことだろうか‥‥。どんなに苦しかったことだろうか。どんなに泣いたことだろうか。そして自分はなぜ、味方になってやれなかったのだろうか‥‥。

  汚れていたのは、彼女なのでしょうか? 汚れていたのは、「汚れが移るから」と言って、からかい触れるのをいやがっていた人の方ではないだろうか。彼女をいじめ、からかい、「汚い」と呼んでいた人の心。その心こそが、汚れているのです。

  主イエスが言われるように、「汚れ」というものは、外から移ってくるものではありません。まさに主イエスのいわれるとおり、「汚れ」とは、私達の心の中から出てくるものです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-29 15:40:25 (877 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書15章1〜4節

そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。

宣教題「生かす神」    牧師 新保雅雄

  ファリサイ派と律法学者は、「エルサレムから」来たとあります。エルサレムはユダヤ人の都です。つまりこの人たちはユダヤ教当局から主イエスを調査をするために派遣されて来たのです。律法に違反している証拠を見つけて、主イエスを裁判にかけるためでした。

  彼らが指摘したのは、弟子たちが食事の前に手を洗っていないことでした。これは、手が汚れているから食前に手を洗うということではなく、宗教上の行為です。出先で宗教的な汚れを受けたかもしれない。その汚れを清めるための行為が水による手洗いなのです。

  主イエスは、ファリサイ派に対して「あなたたちこそ、神の掟を破っている」「偽善者たち」と反論しています。主イエスは、ファリサイ派の人々の、根本的な間違いについて指摘します。つまり、神の戒め律法は、何の為にあるのかということです。

  ファリサイ派の教えは、人の罪を見つけ出し指摘する。罪に定め裁くための教えです。○○をしてはいけない。○○をしなければいけない。○○をすれば救われる。私たちの周りにも沢山ある怪しげな宗教。主イエスはそのような、愛のない宗教に反論されたのです。

  神は、ファリサイ派の言うような人を裁き死刑台へ送る、お方ではない。私達の神は、生かすお方です。命を与えるお方です。希望を与えるお方です。救われる価値の無い者を救って下さるお方です。あわれみ深いお方です。人生の目的は良い点数を取ることではない、イエス・キリストを信じることが第一でありたい。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-01-22 17:29:04 (818 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書14章29〜31節

「イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」

  宣教題「わたしだ。恐れることはない。」  牧師 新保雅雄

  弟子たちは、主イエスの指示によって。日が沈んだガリラヤ湖を向こう岸に、渡ることになりました。主イエスは、一人山へ登られたので、船に主イエスはいません。その夜、ガリラヤ湖では、嵐のような逆風が吹き、舟は木の葉のように揺れ、進まず、転覆しそうになりました。

  ここでは「舟」は、「教会」「キリスト者」のことを指しています。嵐のような逆風が吹き荒れるこの世という湖、そしてそこに浮かぶキリスト者が乗る舟。弟子たちの乗った舟はまさに、教会の姿を現しています。

  舟をこぎ出すように命じたのは主イエスです。しかしその船には、目に見える主イエスはいません。嵐の海、彼らは、命の危険を感じました。

  この時弟子たちの乗った舟が逆風に悩まされたように、キリスト者も、世の中で試練という逆風に悩まされることがあります。波が高まり、沈没してしまいそうな試練に出会うのです。苦しみの中に置かれるのです。そういうとき、もはやダメかと思われる。そこは湖の真ん中です。助けてくれる人は誰もいない。その時ペテロは叫びます「主よ、助けてください」。

  まさにその時そこに、主イエスが近づいて来られるのです。それも湖の上を歩いて弟子たちの乗る舟に、近づいてこられたのです。それを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言って叫び恐れました。それほどに弟子たちは、嵐の中、恐怖の中にいたのです。

  海の真ん中や、誰も近づくことができない場所でも、「主よ、助けてください」その叫びに、主イエスは、救いに来られます。そこがどんなに困難な中であっても、主イエスは、来られる。そして言われる「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」


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