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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2017-09-10 06:49:44 (858 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章14節

「あなたがたは世の光である。

山の上にある町は、隠れることが出来ない。」

宣教題「地の塩、世の光」  牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われています。

主イエスは、何か条件を付けて、「もし、○○ができるならば、地の塩、世の光になれる」だからなれるように、しっかり頑張りなさい、と言われたのではないのです。

また、特に選ばれた人、才能をもった人にだけ言われた訳でもないのです。今のままの、ありのままに「あなたが、地の塩であり、世の光なのだ」と言われているのです。

ここに、神の恵みによる幸いがあります。「神が、一方的に、恵みによって、私たちを選んでくださり、地の塩、世の光としてくださった。だから、相応しく生きよう」これが、選ばれた者に期待された生き方なのです。

救いも同じです。「何かが出来たから救われたのでは、ありません。」「救われたから神の言われるような人生を生きよう。」なのです。(出エジプト)先に神の救い恵みがあり、感謝の人生があるのです。

光は自分を照らすのではありません。 世の光としての私たちは、自分自身に光が当たることを望んではいけません。世の光としての私たちは、あくまでも、人々を照らすことや社会を照らすことが大切なのです。 ですから、世の光としての私たちは、この世に仕えることが求められています。その時、光が光らしく輝くのです。また塩も自分自身のためにあるのではなく、周りの腐敗を防ぐために清めに使われるのです。

地の塩も世の光も、自分のためにではなく、人のためにこそ存在します。だからこそ、私たちは、礼拝の場から、地の塩として、また、世の光として、それぞれの働きの場へと派遣されるのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-09-03 06:49:28 (874 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

宣教題「平和の主」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、山上の説教の冒頭、「幸い」の七番目で、こう言われました。実に、平和は、神の愛と導きに促された人々の、具体的な働きによってこそ、実現し作り出されるのです。そして、神は、こうした平和への働きに仕える人々を、ご自身の子、神の子と呼んでくださるのです。

  ここで大切なことは、平和を実現する者となるのか、あるいは、平和を乱す者となるのか。それは、言い換えれば、神の子と呼ばれることを望むのか、あるいは、闇の子、悪魔の子と呼ばれることを望むのかということです。

  平和を実現する方法については、注意が必要です。ただ闇雲に力任せに武力をもって、平和を作り出そうとすることは、神の望まれる所では無いからです。握り拳を突き上げて、恐ろしい形相で、「平和を勝ち取ろう」と叫ぶことによっては、必ずしも、神の望まれる平和を実現することは、出来ないのです。何か現在の朝鮮半島の状況に似ている。

  あの最後の晩餐の後の、ゲッセマネでの出来事、主イエスと一緒にいた者の一人が、剣を抜いて、大祭司の手下に打ちかかり、その片方の耳を切り落としてしまった。何とか、主イエスを守ろうという思いが、伝わってきます。しかし主イエスは、この者を制して、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた。

  ここに、主イエスを通して、神が実現なさろうとする真の平和の意味が現れています。神は、力任せに人々を押さえ付け、圧倒することによって、平和をもたらす神ではありません。むしろ敵を赦し祈る愛によって、平和を実現することを望んでおられます。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-27 08:38:52 (909 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章3節

「心の貧しい人々は、幸いである。

天の国はその人たちのものである。」

宣教題「天国は心の貧しい人のもの」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、山上で、「幸い」についてお教えになられました。

  ここで、「もし○○出来るならば、幸いになれます」などと言っておられるのでは、ありません。既に今ある状態に対して、「あなたは幸いだ」と、主イエスは断言しておられるのです。

  3節、4節にある最初の二つの「幸い」は、貧しい人、悲しむ人、この世的な判断からすれば、決して「幸い」とは言えない状態にある人々を指して言われています。この世の常識や価値観に、対抗するかのように主イエスは、「幸いだ」と繰り返していきます。

  まず、最初に「心の貧しい人々」が挙げられています。主イエスが言われている「心の貧しい人々」というのは、直訳すれば、「霊において貧しい人々」のことです。つまり、信仰的に飢え渇いている人のことです。言い換えれば、それは、神の助けを求めている人、神の助け無しには、もう生きて行くことが出来ないほどに、深い苦しみの中に疲れを覚えている人のことです。

  こうした人に向かって主イエスは、「天の国はあなたがたのものだ」と言われています。つまり「心の貧しい人々」こそが、天の国では、最も中心的な存在であり、あなたたちのためにこそ、天の国はあるのだと、主イエスは、言っておられるのです。

  病院が、病気に苦しむ人のためにあるように、天の国は、神の助けを求めている人のためにこそあるのです。病気の人は自力で努力で修行で、何かが出来ることで、癒されるのではありません。

  自分ではどうにも出来ずに、神の助けを祈り願う。私たちは、神の助けを切実に求め、思わず「ああ、神様」と祈らずにはおられない状態に置かれることがある、それこそが、「心の貧しい」状態です。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-20 07:16:25 (839 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書4章18〜20節

イエスは、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

宣教題「神の御声を聞き分ける」  牧師 新保雅雄

  主イエスの弟子となった最初の4人は、皆ガリラヤ湖の漁師でした。彼らは、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時に、声を掛けられ、弟子となりました。自分の方から、主イエスに向かって、「私を弟子にしてください」と弟子入りを申し出たのではありません。皆主イエスの方から声を掛けられて、弟子になったのです。全ては、この主イエスの導きの声から始まったのです。

  こうして主イエスの招きに応えて、最初の4人の弟子が誕生しました。この4人に共通することは、漁師という仕事中に主イエスから声を掛けられたこと、祈って求めたのではないにも拘らず、誰一人として、躊躇することなく、すぐに主イエスに従ったことです

  網も舟も父親も残して、彼らは主イエスに従いました。これは、神の働き無しには起こりえない出来事です。何故なら主イエスは、まだ何一つ、実績を上げておられないからです。病気の人を癒すこと、神のみ国を教えることも、まだ行ってない、無名の時なのです。

  ですから主イエスが何者であるのか、まだ誰にも分からない段階で、シモンたちは主イエスに従って行くのです。神が彼らの心を動かしてくださったからこそ、主イエスに従うことが出来たのです。

  神は、主イエスを通して、私たち一人一人に呼び掛けられます。たとえ私たちに、主イエスの声が聞こえなくても、ここに集められているということが、既に主イエスの呼び掛けを受けているのです。

  私たちは、すぐに主イエスに従うことが、出来ないでいるかも知れません。でも、それはそれでいいんです。今日も主イエスは、繰り返し私たちに呼び掛けてくださるからです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-13 06:44:27 (873 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書4章16節

「暗闇に住む民は 大きな光を見、

死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ」

宣教題「暗闇に光が射し込んだ」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、私たちを罪から救うために、十字架で犠牲になってくださいました。何の罪も犯さなかったにも拘らず、暗闇と無縁であったにも拘らず、敢えて暗闇の中に飛び込んで来てくださいました。私たちの罪を身代わりとして、十字架で死んでくださったのです。ここに、神の愛があります。

  この世には、様々な光があります。ギラギラ脂ぎった光、金と欲にまみれた光もあります。また人を貫く心を閉ざさせる冷たい光、人を監視する批判する光もあります。

  しかし主イエスのもたらす光は、神の愛に溢れた、柔らかな光です。この光の方に、向き直り、体と心に、主イエスの光を浴びるときこそ救いの始まりの時です。主イエスのもたらす光に向き直ることこそが、文字通り「悔い改める」ことなのです。

  せっかく主イエスによって、救いの光が射し込んでいるのに、この光に背を向けてしまえば、その人は、光を受け取ることが出来ません。相変わらず、闇の中であえぐ生活を続けることになるのです

  確かに、この世には、暗闇を思わせる事件や出来事が、あちこちで起こります。でも、そんな中にも主イエスの光は射し込んでいます。

  この光の方に向き直り、心を開いて、主イエスを受け入れることで、私たちは、心を温められ、励まされ支えられるのです。

  悔い改めて主イエスの光を浴びるとき、今まで隠されていた自分の罪を明らかにされることで、痛みや葛藤を伴うことになるかも知れません。しかし、この悔い改めの痛みこそが、あなたを新しく変えていく産みの痛みであり救いの始まりです。全てを委ねて下さい。


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