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投稿者 : church 投稿日時: 2017-03-26 07:30:57 (834 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書17章20節

イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

宣教題「からし種一粒のような信仰でも」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、言われた。「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

  わたしは以前、「信仰が強くなれば、何でも自分の願い通りになる」と思った。しかし後になって間違いに気づいた。

  「信仰」とは、「主イエスは、わたしの主である」と認めることです。「わたしが主」ではないのです。「イエスさまが主」なのです。

  山を動かすのは、主イエス、神様にしかできないことだからです。

  「信仰」とは、「信頼」することです。主イエスを信頼するのです。

  私たちは、私たちの前に立ちはだかる問題がとても大きいものに見えることがあります。解決困難に見えることがあります。絶対にダメだ、と思われることがあります。「主イエスを信じてるが、何も変わらない。昨日と同じ。」と思われることがあります。

  まさに、信仰が「からし種一粒」ように小さく無力に思われることがあります。主イエスを信頼すると言うことが、虚しく意味のないものに思われたりする。信仰とは、まさに空しく、からし種一粒のような、ちっぽけなものであるように思われることがある。

  しかしそのからし種一粒のような、風が吹けば何処かへなくなってしまうような、弱く、迷う、無力に思われるような信仰が、主イエスによって山のように大きな問題を動かしていくのです。私の信仰に力があるのではない。主イエスがあなたのからし種のような信仰を山をも動かす力に変えられる。信仰とは信頼から始まる。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-03-19 07:35:32 (832 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書16章15〜19節

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

宣教題「あなたに天の国の鍵を授ける」   牧師 新保雅雄

  主イエスは、ペトロに言われました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」。私たちも天の国へ入りたいものですが、ではどうしたら、その天の国への鍵は頂けるのでしょうか? 

  主イエスは、なぜペトロに天の国の鍵を授けると言われたのでしょうか? ペトロが弟子の中のリーダーで立派な人だったからでしょうか。主イエスがペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われたのは、ペトロの受け応えの中にあります。

  主イエスは15節で弟子たちに、「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と問いました。ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えています。

  それに対して主イエスが、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われました。

  ペトロが主イエスのことを、キリスト、神の子であると証したことに対して、主イエスが天の国の鍵を授けたのです。つまり主イエスを神の子キリストと信じた時に、そこが天の国の入口を開けた時なのです。主イエスを信じる信仰が天の国へ入るための鍵なのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-03-12 05:23:29 (875 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書16章11節

パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」

宣教題「パン種に注意しなさい」   牧師 新保雅雄

  主イエスは弟子たちに言いました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」。弟子たちは、パンを持ってこなかったことについて、主イエスが怒っているのだと誤解したのです。

  弟子たちは、パンのことにばかり気を取られていました。そんな弟子たちに、再度主イエスは、「パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。」と言われました。

  人は、何度も主イエスによって助けられ、守られてきたのに、また同じ心配をし、同じ不安に心を騒がしてしまうのです。

  「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」とは、神の御子であり救い主である主イエスが来たのに、それが神から遣わされたキリストだとは認めない、という意味があります。

  「パン種」とは、現代のようにイースト菌というような便利なものがなかった時代に、パンを発酵させるためのものです。パンを作ったときに生地の一部を取っておき、次にパンを造るときに混ぜて発酵させたそうです。

  パン粉にわずかなパン種を混ぜると、それが発酵してパン生地が大きくふくらみます。今わずかな違った教えが混ぜられても、その後大きく全く違ったものになってしまうのです。

  ファリサイ派とサドカイ派の人々は、主イエスをキリスト、救い主として認めない。あるいは信じられない。これは今は小さなことかもしれない。しかしそれが人生を大きく変えてしまうのです。まったくつまらない人生になってしまうのです。主イエスの教えは、自分流に勝手に解釈してはいけない。だから礼拝で牧師より宣教を受けることは、大変大切なことなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-03-05 06:09:19 (977 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書16章1〜4節

ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

宣教題「天からのしるし」   牧師 新保雅雄

  ファリサイ派とサドカイ派は、ユダヤ教を代表する宗教指導者たちです。お互いに聖書の解釈に違いがあり、普段は仲が悪く対立していました。しかし、ここではお互い協力しあって、主イエスを試そうとして「天からのしるしを見せてほしい」と問いかけています。

  天からのしるしとは、主イエスが神から遣わされた証拠のことです

  ここに来るまで主イエスは、5千人の人の空腹を満たし、また体の不自由な人や病気で苦しむ人、悪霊に憑かれた人を癒してきました。この奇跡が主イエスが天から遣わされた「しるし」なのです。

  しかし彼らからすれば、どんな奇跡を見せられても、それは天からのしるしとは認めたくないでしょう。それどころか益々、主イエスを落とし込める口実を探すでしょう。そして彼らは言うでしょう。何々をしたら、しるし、証拠を見せたら神の子と認めてやろう。

  私たちも彼らと同じようなことを、主イエスに対して思っていないでしょうか。私の願い事を叶えて欲しい。叶えられたら神と心から信じられる。すなわち神かどうかは、私が判断する。どこかで私たちも「天からのしるし」を求める人になっていないでしょうか。

  そんな人たちに主イエスは言われました。あなた達は、明日の天気が見分けられるのに、どうして私が神から遣わされたしるしであることが見分けられないのか。私自身が神から遣わされた。わたしが行う奇跡、私の語る言葉の中にこそ、神のしるしがあるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-02-26 07:13:35 (825 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書15章32〜33節

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」

宣教題「恵みを忘れる弟子達」   牧師 新保雅雄

  今朝の聖書個所、少し前に宣教を聞いたように思います。14章13節「5千人に食べ物を与える」という同じような出来事がありました。そしてまた同じような出来事が起きる。何故でしょうか。

  主イエスは言われました「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」相談を受けた弟子は、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と答えました。

  その時、気がつくのです。少し前に五千人の人々の空腹を満たしたことを弟子は忘れてしまったんでしょうか? 五つのパンと二匹の魚しかなかった時(14章)、主イエスの御手を通る時に奇跡がおこり、大勢の群衆の空腹を満たしたのです。

  私たちも、この時の弟子たちのように、主イエスによって祝福をいただき、恵と救いを経験したのに、大きな奇跡も経験したのに、御言葉に感動し涙を流したこともある。しかし、また同じような困難に出会ったとき、その恵の経験を忘れてしまう。そして悩みの中に落ち込んでいく。

  私たちは、主イエスに頼り、信頼することを、何度も何度も忘れてしまうのです。しかし主イエスは、弟子たちを非難しませんでした。

  神様の恵みを忘れてしまう、不信仰な弟子たちであるが、主イエスは決して見捨てませんでした。そして、前回と同じように、感謝の祈りをして、人々を再び満たしたのです。ここに神様の大きな愛があります。

 


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