本日の聖書 ルカによる福音書1章38節
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』 そこで天使は去って行った。」
宣教題「お言葉通り、この身に成りますように」牧師 新保雅雄
次週は待降節、今日は、クリスマスツリーの飾りつけ、いよいよ教会はクリスマスへ。そんな中のメッセージは、天使が、乙女マリアに御子の誕生を告げ知らせる「受胎告知」のところからです。
ここには「恵み」と言う言葉が2回語られています。「おめでとう恵まれた方」「あなたは、神から恵みをいただいた」(1:28,30) マリアに神の御子が宿るということは、人間と神の恵みが出会う接点、つまり人類に、「神の恵みが訪れた」、ということです。
しかし、マリア自身からすれば、子供を宿るということは、必ずしも喜べないことなのです。未婚のマリア(婚約中)にとって、子供を宿すということは、世間から見れば、不貞の女として身持ちの悪さを疑われることです。婚約者ヨセフも、ひそかに離縁しょうかと思い悩んでいました(マタイ1:19)、まさに夫婦にとっては試練です
人間的に(世的)見れば、それは悩み深い苦難です。しかし、信仰的(霊的)に見れば、それは恵みなのです。誰でも悩み苦難は、ないほうがいいと思っています。出来ることなら、苦難は取り除いて欲しい。しかし、その苦難は、時に人知を超えたところにあります。それが奇跡、神の恵み、私たちを悩ますでしょう。
しかし、神(恵み)との出会いは、苦難に合っても、その中から神を見ることが出来てくるのです。苦難を排除することだけではなく、苦難の中にあっても希望をもつことが出来るのです。
世は、悩みの連続です。そこから逃げ出すことだけを考えるより、悩みを悩みとして受け入れることが出来れば、必ず光が見えてきます。マリアが全てを受け入れられたのは「お言葉どおり、この身に成りますように」この一言の祈りが、苦難を恵みに転換させていきます。
本日の聖書 ルカによる福音書1章13、18節
宣教題「主を待つ準備」 牧師 新保雅雄
天使は、ザカリアの妻エリサベトが男の子を産むこと、その名をヨハネと名付けるようにと告げました。ザカリアとエリサベトの夫婦は、既に二人とも年をとっていましたから、もう、自分たちの間には、子どもが生まれないだろうと、考えていたのです。
天使の突然の知らせを聞いたザカリアは、あまりに唐突な内容に、信じることが出来ません。それで彼は、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」と、天使に尋ね返したのです。
世の常識では、子どもを設けることなど出来ない年齢なので、ザカリアは、天使に言葉を裏付ける証拠を求めたのです。
すると天使は、ザカリアの口を封じてしまいました。彼が天使の言葉を信じなかったことで、その口を利けなくしたのです。
私たちも、神に対して「あうでもない、こうでもない」と自分勝手なことを言う事があります。「姿をみれば信じる。奇跡が起きれば信じる」信じるための証拠を求める事はないでしょうか。
そのとき神の恵みは、このザカリヤのように封じられてしまうのです。自分の頭の理解や都合のみで、神の恵みを論じ考えることは、時として、神の計画を妨げることにも成りかねません。
しばしば、神の計画は、私たちの現実の社会での理解を超えることがあります。まずは、じっくりと、心を静め、へらず口を閉じて、神の救いの御業に、思いを集中することから、救い主イエス・キリストを待つ心の備えを始めたいものです。
本日の聖書 テサロニケの信徒への手紙第一5:18
「わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」
宣教題「愛を身に付ける」 牧師 新保雅雄
今年もアドベント(待降節)を迎えました。アドベントとは「来る」という意味のラテン語です。神の子イエスは、既にこの世に来てくださいました。それが2千年前のクリスマスの出来事です。しかし、この世は主イエスを拒み十字架に付けて殺してしまいました。
しかし 神は、三日目に主イエスを死から復活させられました。そして主イエスは、天に上って行かれました。その姿を見送った弟子たちに天使は、主イエスが再び来られることを告げたのでした。
その日から今日まで2千年間に渡って教会は、主イエスが再び来られる時を待ち続けています。
「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」9節
神は、私たちの行いが悪くても、私たちを救いにあずからせようとしてくださったのです。 だから神は、主イエスを救い主として、この世にお送りくださったのです。
私たちの罪の身代わりとして、主イエスが死んでくださり、私たちへの神の怒りを取り除かれたのです。
しかしわたし達は、すぐに誘惑に負けてしまいます。世にならってしまいます。だから今、誘惑や世に負けないように戦いの身支度を整えるように言われています。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで歩みなさい」
主イエスと共にあることが私たちを罪から守って下さるのです。
「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」
宣教題「待ち望む喜び」 牧師 新保雅雄
今月末からツリーに火がともり、 アドベント(待降節)を迎える季節になりました。主イエスが、この世にお生まれになったクリスマスの恵みを覚え感謝しつつ、イエス・キリストが来られる時を「ひたすら待ち望む」(4章8節)者でありたいと願います。
テモテへの手紙は、パウロが、自分の後輩の伝道者であるテモテに書き送った手紙です。4章6節以下では、「世を去る時」(6節)、すなわち、この世の死を迎える時を強く意識したパウロが、自分自身のクリスチャン人生の歩みを振り返りつつ、自分に続く伝道者たちを、励ましています。
パウロは、自分自身の歩みについて、こう言っています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」(7、8節)
この時のパウロは、マラソンを走り抜いた選手が表彰式で栄冠を受賞する時を待つような心境でしょう。
こんなパウロであっても、順風満帆にこの時を迎えたのではありません。信仰の道を外れて、神の御心に背くこともありました。ユダヤ教徒であった時には、クリスチャンは神を冒涜しているとし迫害し逮捕し十字架に送りました。
そんなパウロにも、主イエスは望んでくだされ、真の救い主であることを知らされ伝道者とされたのです。今パウロは言います「わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」 主を待つ喜びをあなたにも・・・
「すべての異邦人よ、主をたたえよ。
すべての民は主を賛美せよ」
宣教題「あなたのために」 牧師 新保雅雄
もうじきクリスマスです。私たちの救い主イエス・キリストの誕生を祝う時です。クリスマスは御子イエスが、私たちのために、お生まれくださったことを、改めて覚える時としたいものです。
せっかくの1年に1回のクリスマスですから、この日を、喜びと平安の中で、静かに迎えたいものです。しかしどうでしょうか。現実の私たちの生活は、救い主をお迎えする喜びと平安に満たされているでしょうか。年末の忙しさや世の煩いが多く、疲れていませんでしょうか。
世の何処に平安があるのでしょうか。国内に目を向けると、経済は、完全に不況を脱したとは、まだまだ言えない状況です。気候変動による異常気象、台風が大型化してあちこちに水害が発生して多数の死者を出す
また、弱い子どもが犠牲になる事件や、隣国との争い。お金をめぐる事件も後を絶ちません。本日のローマの信徒への手紙15章は、神こそ「忍耐と慰めの源」(5節)であり、「希望の源」(13節)であると語ります。
「かつて書かれた事柄」(4節)、すなわち旧約聖書には、イスラエルの人々に対して神がなさった救いの業が記されています。神は、今も生きて働いておられます。しかも、イスラエルの人々だけにでなく、「異邦人」の私たちにも、神は、救いの御手を伸ばしてくださっているのです。
「異邦人」に関する旧約聖書の箇所がいくつか引用されています。ダビデ、モーセ、そして詩編が、異邦人に対しても、「主を賛美し、共に喜べ」と招いています。主イエスは、イスラエル民族だけの救い主としてでなく、この世の全ての人の救い主として、お生まれくださいました。 あなたのために、クリスマスの恵みが、ここにあります。
