本日の聖書 コリントの信徒への手紙第一 6:19〜20
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」
宣教題「あなたは神が宿る神殿」 牧師 新保雅雄
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」ここで、代価と言われているのは、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことを現しています。実に、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことは、私たちを罪から救い出し、神の赦しを得るために、神ご自身が支払ってくださった代価(神の愛)なのです。
私たちは、買い物をします。買い物の際に、代価として、それぞれに付いている値段のお金を支払います。わたし達が買い取られた代価の値段は、なんと御子の命ということなのです。つまり神は、わたし達を、それほどまでに愛されている事がわかります。
しかし私たちは、こんなにも愛されていると言うことを忘れてしまって、自分勝手に生きてしまいます。それは買い取られたということを忘れてしまうことです。神から離れてしまうことなのです。私たちが、自分勝手に生きるならば、そこには愛がありません。
ここでパウロは「わたしには、すべてのことが許されている」と2回も繰り返されています。おそらくコリント教会の中のクリスチャンでしょう。主イエスの十字架によって救われたこと、罪が赦されたことが、いつの間にか自分自身の信仰によると自負してしまう。
信仰生活が長いと、自分自身が正義である、愛ある人である、罪を犯さない善人である。私は優れたクリスチャンであると、勘違いしてしまい、傲慢になり自分を誇る。そして弱い求道者を見下してしまう。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」私たちが素晴らしいのではなく、神が聖霊として宿るから、その器も光輝くのです。誇るべきは父なる神である。
宣教題「あなたの宝の箱を開けなさい」 牧師 新保雅雄
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者達が東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
東方の占星術の学者達が、遠くの国から星に導かれてエルサレムにやってきました。そしてベツレヘムの幼子を見つけ出しました。そこには、幼子が母マリアと共にいました。学者たちは、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げたのです。
わたし達も今日クリスマスに、この場所に導かれました。それぞれがいろいろな思いを抱えてこの場所にいます。私たちは今日何を携えて、この場に導かれたのでしょうか。あなたの宝の箱には、何が入っていますか?
私がクリスマスの意味を理解できたのは、教会へ行く様になった30歳の頃です。それまでクリスマスとは、イエス・キリストの生まれた日を祝う日ぐらいの理解でした。私にとってクリスマスは、行きつけの飲み屋で、気に入った女の子と大酒を飲み、朝までドンチャン騒ぎをする日でした。
教会で初めてのクリスマスを迎えるときに、私はバプテスマを受けました。前の年までのクリスマスとは、まったく違うクリスマスでした。それはまさに昨年までの古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分に生まれ変わるときでした。静かな讃美歌の中で本当の新年を迎えたのです。それ以来、バプテスマ記念日である新年は、私にとってクリスマスなのです。
もし、教会の門をくぐっていなければ、いまだに私は、本当の新年を迎えられなかったでしょう。相変わらず朝まで、歌舞伎町で飲んだくれて、大騒ぎをしていたと思います。
クリスマス、主の誕生日、その日、教会でバプテスマを受けて救われました。十字架とは、世のたどり着く姿であり、復活とは信仰の人生である。このことを理解できるのに、そう時間はかかりませんでした。
今年も新年を迎えられ感謝いたします。ア-メン 牧師 新保雅雄
本日の聖書 ルカによる福音1章26〜35節
宣教題「おめでとう、恵まれた方」 黒瀬 博 牧師
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
本日の聖書 ルカによる福音1章38節
「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで天使は去って行った。
宣教題「お言葉どおり、成りますように」 牧師 新保雅雄
マリアはガリラヤのナザレにいる時に、天使ガブリエルから、神の子を自分が産むことになると告げられました。突然のことなのでマリアは驚き戸惑いました。人間の思いからすると、ありえないことです。
そのマリアの心を見抜いたように天使は、「神にできないことは何一つない」(37節)と告げました。天使のお言葉を聞いたマリアは「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。
マリアが、自分のことを指して言っている「はしため」とは、「女性奴隷、僕」という意味です。神を自分の主人として信じ、従う決意をした者が、神との関係の中で自分を指して「僕」と言うのです。主人が言われることには、全てを受け入れるということなのです。それは絶対的な信頼なしではありえないのです。
マリアは、自分がどのようにして、神の子を産むことになるのか。そして何故、自分なのか。具体的なことは、何も分からなかったのです。それでも「神にできないことは何一つない」という言葉によってマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。
マリアは神に選ばれるような、特別な功績、飛びぬけた信仰心があったのでしょうか。彼女が自身を「はしため」と語るように、そこにはないのです。あの三度も主イエスを裏切るペテロも同じく選ばれたのです。
このことを見るとき、私のようなものでも、神の愛を持ち運ぶ器になれるかもしれない。欠けの多い私でも選ばれるのです。この世の身分は、この世では通用しても、神の前では一切通用しないことが分かります。
私達に出来ることは、信じて全てを神にゆだねることです。
本日の聖書 マタイによる福音3章11節
「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がしする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」
宣教題「愛は人を生かす」 牧師 新保雅雄
洗礼者ヨハネは、人々に神の怒りと裁きを告げ、悔い改めを迫っていました。人々は、続々とヨルダン川でヨハネから水の洗礼を受けたのです。
洗礼者ヨハネは、神の怒りと裁きによって人を従わせました。「今すぐ、悔い改めて、ふさわしい実を結べ、しなければ木の根元に既に置かれた斧によって切り倒されてしまうぞ」と決断を迫っていました。
これに対して主イエスは、神に切り倒されてしまわないように、人を罪から救う為に、この世に来られたのです。主イエスは、恐怖心で人々を従わせようとはしませんでした。神の裁きを、主イエス自身が身代わりの犠牲として、十字架で死なれ人々を救おうとさたのです。
命をかけて、罪から救おうとされるほど、私たちを愛しておられる。このことを知る時、私たちの心は、揺れ動かされるのです。(信仰です)
洗礼者ヨハネと主イエスとの関係は、律法と福音との関係として理解出来ます。律法無しには、何が罪であるかを知ることは出来ない。また福音無しには、心から悔い改めて、救いを得ることは出来ない。
「お前は罪人だ、切り倒すぞ」と言い続けられるだけでは、決して心から素直に、自分の罪を悔い改めることは出来ない。たとえ、自身の中に悪があると知っていても、人は素直に悔い改めることが難しいのです。
麻薬中毒で刑務所に何回入れられても、心から悔い改めて麻薬を絶つことは出来ない。何回も過ちを行って、たとい全世界がみはなしても、涙を流して愛してくれる人が、たった一人でもいるとき、人は心を動かされ、悪から抜け出す力が湧きあがってくるのです。
人は愛がなければ生きる気力を失います。愛には人を生かす力があります。命をかけてあなたを愛された、主イエスを思い出してください。どんなにあなたがダメ人間でも、決してあなたを見捨てることはない。