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投稿者 : church 投稿日時: 2020-02-08 23:28:31 (654 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書6章19節

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」

宣教題「富のあるところに心もある」 牧師 新保雅雄

本日のメッセージ テーマは、富についてです。富に対する思いを見るとき、その人の人間性が、露骨に現れます。お金や財産など、興味が無いように見える人でも、お金や財産が舞い込むと、清廉潔白であり続けることが出来ないのではないでしょうか。

それまで経済的に苦しい生活をしていた人でも、大切なお金や財産が「飲む、打つ、買う」に散財されてしまう。そんな人を何人も見て来ました。それがクリスチャンならば、なおさら残念なことです。

富について、主イエスは、二つのことをお教えになりました。一つ目は、富を地上ではなく、天に積むようにということです。

 なぜなら地上に積んだ富は、虫が食ったり、さび付いたりして、価値が失われる、また泥棒に盗まれる危険もあるというのです。

現代社会においては、富、財産を守ろうとしても、思わぬ出来事、想定外の事件に巻き込まれて、あっけ無く、富、財産を失うことも有り得るのです。また欲望に襲われ食べられてしまうこともあります。

これに対して、天に積んだ富は、虫が食うことも、さび付くことも、盗まれることも無いと言うのです。天に積んだ富とは、既に、神の御手の中にあるからです。この天にこそ、富を積むようにと主イエスは言われます。天にこそ、心を向け、ここに富を積むようにと言われるのです。

今日の糧は、天よりの恵みである。生かされていることに感謝。これこそ天に富を積むことになるではないでしょうか。富が感謝になる。

大切なことは、心を天に、神に向けて生きることです。富とは、何も金銀財宝だけではありません。あなたが大切に汗水たらして手に入れたものです。主イエスは「私たちの富のあるところに、私たちの心もある」と言われました。あなたの富は、何ですか、そしてどこにありますか?


投稿者 : church 投稿日時: 2020-02-01 22:46:11 (728 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書6章16節

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」

宣教題「断食」      牧師 新保雅雄

主イエスの時代、断食は、施し、祈りと共に、信仰生活において欠かすことのできない、大切なものでした。断食は、食事を断つことによって、神に思いを集中することです。

このように本来、断食とは、「何を食べようか」、と思い煩うことなく、神に心を向けるために行なわれてきました。ところが、いかにも、「自分は断食しています」、「苦しいけれども頑張っています」と、自分の信仰を誇らしげに見せるような、わざとらしい断食がされました。

実際は、それほど苦しくも無いのに、人の注目を集めようと、わざと、大げさに見せかける断食です。 主イエスは、こうした見せかけの、「断食」に、「彼らは既に報いを受けている」と言われます。

既に、主イエスは、人に見せびらかす施しや、人に見せびらかす祈りを戒められました。そして、ここでは、人に見せびらかす断食を戒められたのです。神に対してされる信仰が、人に対してされてしまうのです。

主イエスは、断食する時には、頭に油をつけ、顔を洗いなさいと言われました。つまり、たとえ断食する時にも、普段どおりの、さり気ない格好で行いなさいと言われるのです。

そして本当に苦しい時、本当に辛い時には、顔つきや格好を気にする必要はありません。沈んだ顔つきのままで、見苦しい顔のままで、髪振り乱したままでも、着の身着のままで神に助けを求めて良いのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」9:12と主イエスは言われています。救急車で病院に運ばれる時に、着替えたり、化粧する必要はありません。神に助けを求める時にも同じです。信仰は人に見せ人が評価するのではなく。信仰とは、神の恵みなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-01-25 22:27:14 (642 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書6章9節

「天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように」

宣教題「父よ」 牧師 新保雅雄

主の祈りは、主イエスが弟子たちに教えられた祈りです。主イエスご自身が祈り、また、弟子たちにもこように祈りなさいと教えてくださった祈りです。以来、約2千年に渡りキリスト教会は、繰り返しこの主の祈りを祈り続けてきました。時代を超え、場所を超え、宗派を超え、同じ祈りを祈り続けて来ました。

この主の祈りは、神への呼び掛けと、それに続く6つの祈りから成っています。まず、神に対して「天におられる、わたしたちの父よ」と呼び掛けています。神に向かって、親しく「父よ」と呼び掛けることから始まるのです。つまり祈りは父と子の対話なのです。

そして「私たちの父よ」と呼び掛けるのです。つまり神は、自分一人の神でなく、「わたしたちの神」として呼び掛け祈るのです。つまり自分だけではなく、人のことを人と共に祈ることの大切さを言われています。 教会は常に兄弟姉妹の群れであるということです。

この呼び掛けに続いて、始めの3つの祈りは、神ご自身に対しての祈りです。そして、後の3つの祈りは、「わたしたち」に対しての祈りです。この順番が大切です。

ともすると私たちは、自分の祈り願いにばかり、思いが向きがちになります。自分のことばかり、神に言い立てたくなるのです。まず祈りにおいて大切なことは、祈られるべきは神であり、神に思いを向けることで、祈りが神との会話となるのです。

後半の3つの祈りは、「わたしたち」についての祈りです。「わたしたち」と祈る時に、どの範囲の「わたしたち」を思い浮かべることが出来るかが問われます。主の祈りが、私たちの親しい者だけなのか、あるいは世界のすべての人たちについてなのか?


投稿者 : church 投稿日時: 2020-01-19 07:09:39 (664 ヒット)

 


本日の聖書 マタイによる福音書6章1節

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」

宣教題「神の目、人の目」 牧師 新保雅雄

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」主イエスは「善い行い」をすることについて、このように言われました。

「善い行い」と言うと、人に親切にするとか、世の中のためになることを行う、ということが思い浮かぶかも知れません。あるいはボランティア活動をすること、人助けだと考えます。

確かに、こうしたことも、「善い行い」だと言えるでしょう。ただ、主イエスの時代のユダヤでは、善行と言えば、「施しと祈りと断食」のことを意味しました。 つまり、善行とは、神を信じる人が、その信仰に基づいて実行すべきこと、信仰の実践を意味したのです。信仰を目で見える形で現すこと、これが善い行い「善行」なのです。

こうした善行は、自分の信仰を人の前で証明する機会なのです。ですから、自分はこんな立派な信仰を持っていると、人に主張し見せること、人目を気にしながら、善い行いを行うということが起こったのです。せっかくの善い行いが自分を誇る為に使われてしまうのです。

そこで、主イエスは、見てもらおうとして、人の前で善行をしないようにと言われたのでした。善い行いは、人に向けてではなく、神に向けて、行われるべきものである。つまり見える人ではなく、見えない神にと言われています。人は誰でも善い人に見られたい願望があります。

本日は、三つの善行の中の「施し」についてです。偽善者たちは、人からほめられることを望んで、会堂や街角で施しをするのです。 偽善者は、本来、目を向けるべき、施しを必要としている、貧しい人から離れ、自分をとりまく回りの人の目に向けられます。そこには、「隣人を愛する」姿は、ありません。施しという行為は、本来、隣人愛から生じる優しい愛の行為である筈です。残念ながら、人は、外面で人を判断します。しかし神は、その人の見えない心の中の思いで判断します。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-01-11 22:58:49 (729 ヒット)

 本日の聖書 マルコによる福音書1章9〜11節

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

宣教題「神と人を結ぶ」 牧師 新保雅雄

「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」とあります。何故、神の子である主イエスが、ヨハネからバプテスマを受けたのでしょうか。ヨハネの行っていた洗礼とは、罪の赦しを得させるための、悔い改めのバプテスマであったからです。

それでは主イエスは、神の子でありながら、罪を犯し、その罪を赦してもらう必要があったのでしょうか。マルコ福音書1:5に、「ユダヤの全地方から、人々が押し寄せて来て、ヨハネから洗礼を受けた」と記されています。主イエスは、この大勢の人々の中の一人にしか過ぎないかの様な印象を受けます。

確かにそうなのです、主イエスは、大勢の人々の中の一人として洗礼を受けられたのです。

しかし、洗礼を受けられた主イエスが、水の中から上がると、主イエスの上に「天が裂けて、聖霊が鳩の様に降って来た」のです。

これは、今まで罪によって遮られていた天が開き地とつながったことを意味します。主イエスによって天と地がつながったことを意味します。あなたの救いの為に主イエスのバプテスマがあるのです。

罪なき神の子イエスキリストが、罪人と同じくなる為に洗礼を受けられたのです。キリストが洗礼を受けられ、あなたと同じ所に来られ、あなたの受ける十字架の身代わりになって、救うためであったということを知って下さい


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