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投稿者 : church 投稿日時: 2017-07-16 08:06:22 (955 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書27章21節

「そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。」

宣教題「身代わりになられた主」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、夜中に捕らえられ、大祭司カイアファの屋敷でユダヤ側の裁判を受け、夜明けになると、祭司長たちによって、総督ピラトの前に連れて来られました。祭司長たちは、神を冒涜したという理由で、主イエスを死刑にしようと決めていました。

  当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたので、実際に死刑を執行する権限は、ローマ帝国から派遣されていた総督が持っていました。そこで祭司長たちは、総督ピラトに訴え出たのです。

  ピラトは、人々が主イエスを自分に引き渡したのが、ねたみのためであると知っていました(18節)そこでピラトは、祭りの時に、民衆の希望する囚人に恩赦を与えて、釈放する慣習を利用して、主イエスを釈放しようと考えたのです。

  悪名高き囚人バラバ・イエスと、主イエスのどちらを釈放して欲しいのかと、群集に尋ねたのです。通常であれば、誰が考えても、罪の無い主イエスが釈放されることを選ぶ筈です。そうすれば、人々の願い通りに主イエスを釈放したのだとユダヤ側に言えるのです。

  しかし、扇動された群衆は、バラバの代わりに主イエスが十字架に付けられることを願ったのです。このことによって、主イエスの十字架の意味が明らかになったのです。正しい方である主イエスが、罪ある者、死刑にされても致し方ない者の身代わりとして、十字架に付けられたことを現すのです。

  罪ある私たちを救うために、十字架で犠牲となってくださったのです。ここに、神の愛があります。人を罪から救い出すためには、ご自分の大切な独り子である主イエスを犠牲にすることも厭わない、大きな神の愛があるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-07-09 06:35:40 (764 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書26章75節

ペトロは「鶏がなく前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

宣教題「ペテロが流した涙」  牧師 新保雅雄

  一番弟子のペトロは、主イエスが捕らえられた時、一旦は、他の弟子たちと同じく、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。しかし、思い直し主イエスを追い掛け、大祭司の屋敷の中庭にまで入り込みました。屋敷では、主イエスを死刑にする為の裁判が始まっていました。

  ペトロは、大祭司の配下にある人と共に、屋敷の中庭に座っていました。そこへ一人の女中がやって来て、こう言ったのです。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」 ペトロは、「私は、主イエスの弟子のペトロだ」と名乗ることも出来たのです。しかし、名乗る勇気がありませんでした。自分の身を守るための言葉でしかなかったのです。

  ここに自分の身を守ろうとする醜いペトロの姿があります。一番弟子としての意地も誇りもなく、ただただ、その場しのぎの行動を繰り返す、悲しい姿が浮き彫りになっているのです。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(26;34-35)ペトロは、どんな時にも、主イエスに従います、と言っていたのです。主イエスに誓ったことを、簡単に破ってしまった自らの罪と身勝手さを、ペトロは、嫌と言うほど突き付けられたのです。

  しかし、幸いなことに、主イエスは十字架で死んだままにはなりませんでした。神が、死をも乗り越える力によって、十字架で死んだ主イエスを、三日目に、復活させられたからです。そして、復活した主イエスは、ペトロを始めとする弟子たちと再びお会いくださり、弟子たちの罪を咎めることなく、罪の赦しを宣言してくださったのです。

  こうして、ペトロには、道が開かれました。悔い改めて、神に立ち帰り、再び、主イエスに従う道が開かれたのです。復活によって永遠の命を信じた時、彼は大きな勇気を身に着けたのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-07-02 07:30:37 (789 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書26章50節

イエスは「友よ、しようとしていることをするがよい」といわれた。

宣教題「人の思いを超える御心」  牧師 新保雅雄

  主イエスが、12弟子たちと「最後の晩餐」をされ、夜中にゲツセマネでの祈りを終えられた時のことです。さっきまで最後の晩餐を共にしていた12弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスの所にやって来ました。そして、「先生、こんばんは」と言って、主イエスに接吻したのです。

  ユダの言葉「先生、こんばんは」そして「接吻」とは、相手への敬意、親愛の情を示すものであるはずです。しかし、ユダは、これを悪意あるものに変えてしまいました。

  神に背き、自分を正当化する者は、主イエスの存在が邪魔になるのです。主イエスは、何が神の御心であるのかを明らかにするからです。そのため、頑なになって、悔い改めて神に立ち帰ることを拒む者は、自分が正しいことを主張し続けるために、目障りな主イエスを、抹殺しようとするのです。

  しかし、こうした試みは、決して成功致しません。たとえ、主イエスを十字架に付けて殺すことに成功しても、神は、死人の中から復活させることが出来る力を持っておられるからです。人間は、神の相手になれるほど強くはありません。相手にならないのです。

  時に、神は、私たちの思い、願い、予想、判断、常識を超えた形、すなわち、全く思ってもいなかった形で、ご自身の救いの計画を成し遂げられます。神の子イエスが十字架で殺されることで人の救いを達成することは、正に、人の思いに反しています。

  こうして神の救いの御業が成し遂げられたことを知る私たちは、時に、我が身を襲う思いがけない苦難、辛い出来事の中にも、神の御心があることを信じたいものです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-06-25 06:56:08 (971 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書19章20〜22節

「金持ちの青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」

  宣教題「私を憐れんで下さい」  牧師 新保雅雄

  彼は律法を熱心に守り、善い行いを心がけた。世においても一生懸命働いて沢山の財を残した。自分で出来うることは全て行った。成功者である。信仰者としての自信もあったのだろう。彼は胸を張って主イエスに尋ねる。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」彼は、確信がほしかったのです。

  主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われた。

  その言葉を聞いた青年は、悲しみながら立ち去った。なぜなら彼は「たくさんの財産を持っていたからである」そのとき彼は、初めて自分が不完全で欠けている人間であることを知ったのです。

  完全になるということは、何と難しいことだろうか。まさに「ラクダが針の穴をとおる方がまだやさしい」と思われてくる。つまり自分の善い行い修行では、永遠の命の国、天国へは入れないのです。

  彼は、律法を守り貧しい人々への施しもしてきたでしょう。しかしその施しはあくまでも、自分が救われるためであり、財産を売り払ってまで、貧しい人々に施しをするということではない、沢山の財産の中から余ったものであった。弱い者への愛する心がない。

  「わたしは、こんなに善いことをしてきました。だから天国に入れてください」何と傲慢な者なのだろうか。私たちが出来ることは、「主よ、罪人の私を憐れんで下さい」と心から祈ることだけである。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-06-18 07:01:05 (792 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書19章13〜15節

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた

宣教題「手を引かれた子供のように」  牧師 新保雅雄

  主イエスに子供を祝福していただくために、親たちが子供を連れて来ました。これを見て弟子たちは親たちを叱り帰そうとしました。

  しかし主イエスは、逆に弟子たちを叱りました。そして「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。

  主イエスのところに連れてこられた子供たちは、何かしたわけでもないのに、主イエスは「天の国はこのような者たちのものである」と言われる。いったいこれはどういうことなのでしょうか?

  ヒントは、子供たちはどうやって主イエスのところにやってきたのでしょうか?です。「人々が子供たちを連れてきた」と書いてある。つまり親に連れられて来たのです。それだけです。努力したどころではない。連れられてきただけです。それが天の国なのです。

  「私は自分で主イエスのもとにやってきました」と言うことのできる人がいるでしょうか。わたしは自分が選んで教会に行った、という思いが、いかにごう慢であったか。今朝の礼拝の初めに牧師、司会者が「教会へ来ようとしている兄姉があれば無事に」と祈ります

  自分の力で主イエスのもとに来ることができる人などいません。

  全ては聖霊の導きです。天の国は、主イエスが一方的にお与えになるものです。子供は自分で教会へ来たのではない。親たちに手を引かれてきたのです。これが聖霊の働きです。どうか心を一つにしてまだ見ぬ兄姉、お休みされている兄姉のために祈りましょう。


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