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新住所
板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2018-01-14 06:58:46 (805 ヒット)

本日の聖書  コリントの信徒への手紙第二 6:19〜20

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」

宣教題「御子をあなたの代価とされた」 牧師 新保雅雄

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」

  ここで、代価と言われているのは、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことを現しています。実に、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことは、私たちを罪から救い出し、神の赦しを得るために、神ご自身が支払ってくださった代価なのです。

  私たちは、毎日のように、買い物をします。買い物の際に、代価として、それぞれ付いている値段のお金を支払うのです。わたし達も買い取られた代価の値段は、なんと御子の命ということなのです。つまり、神は、わたし達を、それほどまでに愛されている事になります。

  しかし私たちは、こんなにも愛されていると言うことを忘れてしまって、自分勝手に生きるならば、それは神から離れてしまうということです。もし、私たちが、自分勝手に生きるならば、そこには愛がありません。

「わたしには、すべてのことが許されている。」と2回も繰り返されています。おそらく、コリント教会の中にいた方の発言でしょう。主イエスの十字架によって、自分の罪が赦されたことが、いつの間にか、当たり前のことになってしまう。

  さらに彼らは、自分たちだけが、霊的に優れた才能を持っているからこそ、こうした経験を特別に与えられたのだと、勘違いしてしまったのです。ますます、自分を誇り、傲慢になり、その結果、人を見下す経験に成り下がってしまったのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2018-01-07 06:47:20 (779 ヒット)

本日の聖書   エフェソの信徒への手紙 1:13

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」

宣教題「神の子の刻印」 牧師 新保雅雄

新年あけまして、おめでとうございます。2018年皆様の信仰生活の上に、主の祝福と平安が豊かにありますように、お祈り申し上げます。

神は、御子イエスを、この世に救い主として送り込まれました。しかし、人々は、御子イエスを十字架に付けて殺してしまいました。ユダヤの宗教指導者の煽動に乗っかって、群衆は、主イエスを十字架に付けることを要求したのです。

当時のユダヤの総督ポンテオ・ピラトは、群衆の暴動を恐れて御子イエスが十字架で処刑されることを認めてしまいました。

ここに、神の秘密計画があるのです。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」「秘められた計画」

神は、私たちを神の子にしようと計画しておられたのですが、私たちは、神の子に相応しく無かったのです。しかし、神は、私たちを裁いて、滅ぼしてしまうのでなく、私たちの罪を、御子イエスに全て負わせ、罪の償いのために、主イエスを十字架で身代わりの犠牲にしたのです。こうして、私たちは、神の子となる道が開かれました。

しかし、私たちは、自分で罪の償いをして、晴れて自由の身になった訳ではありません。自分では、何も罪の償いをしないままに、一方的に、神によって罪を赦されたのです。ここに、「神の愛」があります。

それは御子イエスを十字架で犠牲にしてまでも、私たちを救い、神の子として永遠の命を与えて下さる愛です。どんな人間でも、どんな罪にまみれても、ただ信仰を告白し、洗礼を受けるならば、誰にでも神は、刻印を押して「私の子だ」と守られるのです。 

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-12-10 06:25:10 (787 ヒット)

本日の聖書   ルカによる福音書1章38節

「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで天使は去って行った。

宣教題「お言葉どおり、成りますように」 牧師 新保雅雄

マリアがガリラヤのナザレにいる時に、天使ガブリエルから、神の子を自分が産むことになると告げられました。突然のことなのでマリアは驚き戸惑いました。人間の思いからすると、ありえないことです。

そのマリアの心を見抜いたように天使は、「神にできないことは何一つない」(37節)と告げました。天使のお言葉を聞いたマリアは「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。

マリアが、自分のことを指して言っている「はしため」とは、「女性奴隷、僕」という意味です。神を自分の主人として信じ、従う決意をした者が、神との関係の中で自分を指して「僕」と言うのです。主人が言われることには、全てを受け入れるということなのです。それは絶対的な信頼なしではありえないことです。

マリアは、自分がどのようにして、神の子を産むことになるのか。そして何故、自分なのか。具体的なことは、何も分からなかったのです。それでも「神にできないことは何一つない」という言葉によってマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

マリアは神に選ばれるような、特別な功績、飛びぬけた信仰心があったのでしょうか。彼女が自身を「はしため」と語るように、そこにはないのです。あの三度も主イエスを裏切るペテロも同じく選ばれた者です。

このことを見るとき、私のようなものでも、神の愛を持ち運ぶ器になれるかもしれない。欠けの多い私でも選ばれるのです。この世の身分は、この世では通用しても、神の前では一切通用しないことが分かります。

私達に出来ることは、選ばれた者として、信じて全てを神にゆだねることです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-12-03 07:19:40 (873 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書1章14節

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

宣教題「神が人となられた」  牧師 新保雅雄

私の中学の同級生が、同じ中学の後輩の会社で働いています。他の同級生は言いました。「後輩の会社で働くなんて、俺はプライドが赦さないよ。貧乏でもいいから俺はよそで働くよ。恥ずかしくないのか。情けないね。」そう言う彼は、年商数億の会社の社長になっています。中学生当時は貧しい家庭でした。高校へも進学できませんでした。その貧しさをばねにして下から上に成り上がりました。今は毎晩高いクラブで豪遊しています。頑張ってつかんだ成功は、いつしか下の人や貧しい者を見下げるようになりました。

二百年続いた江戸幕府の創始者である徳川家康は、死んで人間から神になり日光東照宮に祭られています。この社会では下から上になることは、偉大な事であり喜ぶべき事であり神とまで崇められる。しかし上から下へ行く事は、恥ずべき事、情けないこととされる。

神が人となる。神は霊であり目に見えないお方です。ところが私たちと同じ肉体になられ、この世界に来られました。ご自分の立場や地位を放棄され、悩みや悲しみ痛みを背負った人間と同じ姿になって下さった。それがクリスマス。主イエスの誕生の時です。

クリスマスの喜びは、神が人間になられる、というとんでもない出来事によって訪れました。神が人となる。まさに驚くべきことでした。当時のユダヤ人にも考えられない、思いもよらないことでした。ですからユダヤ人は神を冒涜することだと考え、死刑にしました。

神が人となられたことによって、私たちの生きることの意味も、私たちの信仰も、私たちの愛も、そして救いもこの奇跡の中の奇跡の上になりたっています。聖書には数多くの奇跡が記されています。しかし、聖書のどの奇跡物語よりも神が人となられたということ以上の奇跡はありません。神が人となられた。ここに私たちが神によって造られた本来の人間の姿を取り戻す救いの原点があります。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-11-26 07:50:11 (827 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書3章11節

「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がしする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」

宣教題「愛は人を生かす」  牧師 新保雅雄

洗礼者ヨハネは、人々に神の怒りと裁きを告げ、悔い改めを迫っていました。人々は、続々とヨルダン川で水の洗礼を受けたのです。

洗礼者ヨハネは、神の怒りと裁きによって人を従わせました。「今すぐ、悔い改めて、ふさわしい実を結べ、しなければ木の根元に既に置かれた斧によって切り倒されてしまうぞ」と決断を迫っていました。

これに対して主イエスは、神に切り倒されてしまわないように、人を罪から救う為に、この世に来られたのです。主イエスは、恐怖心で人々を従わせようとはしませんでした。神の裁きを主イエス自身が、身代わりの犠牲として十字架で死なれ、人々を救おうとさたのです。

命をかけて、罪から救おうとされるほど、私たちを愛しておられる。このことを知る時、私たちの心は、揺れ動かされるのです。(信仰です)

洗礼者ヨハネと主イエスとの関係は、律法と福音との関係として理解出来ます。律法無しには、何が罪であるかを知ることは出来ない。また福音無しには、心から悔い改めて、救いを得ることは出来ない。

「お前は罪人だ、切り倒すぞ」と言い続けられるだけでは、決して心から素直に、自分の罪を悔い改めることは出来ない。たとえ、自身の中に悪があると知っていても、人は悔い改めることが難しいのです。

麻薬中毒で刑務所に何回入れられても、心から悔い改めて麻薬を絶つことは出来ない。何回過ちを行っても、涙を流して愛してくれる人がいるとき、人は心を動かされ、悪から抜け出す力が湧いてくるのです。

人は愛がなければ生きる気力を失います。愛は人を生かす力があります。命をかけてあなたを愛された、主イエスを思い出してください。どんなにあなたがダメ人間でも、決してあなたを見捨てることはない。


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