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投稿者 : church 投稿日時: 2017-09-03 06:49:28 (836 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

宣教題「平和の主」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、山上の説教の冒頭、「幸い」の七番目で、こう言われました。実に、平和は、神の愛と導きに促された人々の、具体的な働きによってこそ、実現し作り出されるのです。そして、神は、こうした平和への働きに仕える人々を、ご自身の子、神の子と呼んでくださるのです。

  ここで大切なことは、平和を実現する者となるのか、あるいは、平和を乱す者となるのか。それは、言い換えれば、神の子と呼ばれることを望むのか、あるいは、闇の子、悪魔の子と呼ばれることを望むのかということです。

  平和を実現する方法については、注意が必要です。ただ闇雲に力任せに武力をもって、平和を作り出そうとすることは、神の望まれる所では無いからです。握り拳を突き上げて、恐ろしい形相で、「平和を勝ち取ろう」と叫ぶことによっては、必ずしも、神の望まれる平和を実現することは、出来ないのです。何か現在の朝鮮半島の状況に似ている。

  あの最後の晩餐の後の、ゲッセマネでの出来事、主イエスと一緒にいた者の一人が、剣を抜いて、大祭司の手下に打ちかかり、その片方の耳を切り落としてしまった。何とか、主イエスを守ろうという思いが、伝わってきます。しかし主イエスは、この者を制して、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた。

  ここに、主イエスを通して、神が実現なさろうとする真の平和の意味が現れています。神は、力任せに人々を押さえ付け、圧倒することによって、平和をもたらす神ではありません。むしろ敵を赦し祈る愛によって、平和を実現することを望んでおられます。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-27 08:38:52 (880 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章3節

「心の貧しい人々は、幸いである。

天の国はその人たちのものである。」

宣教題「天国は心の貧しい人のもの」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、山上で、「幸い」についてお教えになられました。

  ここで、「もし○○出来るならば、幸いになれます」などと言っておられるのでは、ありません。既に今ある状態に対して、「あなたは幸いだ」と、主イエスは断言しておられるのです。

  3節、4節にある最初の二つの「幸い」は、貧しい人、悲しむ人、この世的な判断からすれば、決して「幸い」とは言えない状態にある人々を指して言われています。この世の常識や価値観に、対抗するかのように主イエスは、「幸いだ」と繰り返していきます。

  まず、最初に「心の貧しい人々」が挙げられています。主イエスが言われている「心の貧しい人々」というのは、直訳すれば、「霊において貧しい人々」のことです。つまり、信仰的に飢え渇いている人のことです。言い換えれば、それは、神の助けを求めている人、神の助け無しには、もう生きて行くことが出来ないほどに、深い苦しみの中に疲れを覚えている人のことです。

  こうした人に向かって主イエスは、「天の国はあなたがたのものだ」と言われています。つまり「心の貧しい人々」こそが、天の国では、最も中心的な存在であり、あなたたちのためにこそ、天の国はあるのだと、主イエスは、言っておられるのです。

  病院が、病気に苦しむ人のためにあるように、天の国は、神の助けを求めている人のためにこそあるのです。病気の人は自力で努力で修行で、何かが出来ることで、癒されるのではありません。

  自分ではどうにも出来ずに、神の助けを祈り願う。私たちは、神の助けを切実に求め、思わず「ああ、神様」と祈らずにはおられない状態に置かれることがある、それこそが、「心の貧しい」状態です。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-20 07:16:25 (805 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書4章18〜20節

イエスは、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

宣教題「神の御声を聞き分ける」  牧師 新保雅雄

  主イエスの弟子となった最初の4人は、皆ガリラヤ湖の漁師でした。彼らは、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時に、声を掛けられ、弟子となりました。自分の方から、主イエスに向かって、「私を弟子にしてください」と弟子入りを申し出たのではありません。皆主イエスの方から声を掛けられて、弟子になったのです。全ては、この主イエスの導きの声から始まったのです。

  こうして主イエスの招きに応えて、最初の4人の弟子が誕生しました。この4人に共通することは、漁師という仕事中に主イエスから声を掛けられたこと、祈って求めたのではないにも拘らず、誰一人として、躊躇することなく、すぐに主イエスに従ったことです

  網も舟も父親も残して、彼らは主イエスに従いました。これは、神の働き無しには起こりえない出来事です。何故なら主イエスは、まだ何一つ、実績を上げておられないからです。病気の人を癒すこと、神のみ国を教えることも、まだ行ってない、無名の時なのです。

  ですから主イエスが何者であるのか、まだ誰にも分からない段階で、シモンたちは主イエスに従って行くのです。神が彼らの心を動かしてくださったからこそ、主イエスに従うことが出来たのです。

  神は、主イエスを通して、私たち一人一人に呼び掛けられます。たとえ私たちに、主イエスの声が聞こえなくても、ここに集められているということが、既に主イエスの呼び掛けを受けているのです。

  私たちは、すぐに主イエスに従うことが、出来ないでいるかも知れません。でも、それはそれでいいんです。今日も主イエスは、繰り返し私たちに呼び掛けてくださるからです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-13 06:44:27 (844 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書4章16節

「暗闇に住む民は 大きな光を見、

死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ」

宣教題「暗闇に光が射し込んだ」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、私たちを罪から救うために、十字架で犠牲になってくださいました。何の罪も犯さなかったにも拘らず、暗闇と無縁であったにも拘らず、敢えて暗闇の中に飛び込んで来てくださいました。私たちの罪を身代わりとして、十字架で死んでくださったのです。ここに、神の愛があります。

  この世には、様々な光があります。ギラギラ脂ぎった光、金と欲にまみれた光もあります。また人を貫く心を閉ざさせる冷たい光、人を監視する批判する光もあります。

  しかし主イエスのもたらす光は、神の愛に溢れた、柔らかな光です。この光の方に、向き直り、体と心に、主イエスの光を浴びるときこそ救いの始まりの時です。主イエスのもたらす光に向き直ることこそが、文字通り「悔い改める」ことなのです。

  せっかく主イエスによって、救いの光が射し込んでいるのに、この光に背を向けてしまえば、その人は、光を受け取ることが出来ません。相変わらず、闇の中であえぐ生活を続けることになるのです

  確かに、この世には、暗闇を思わせる事件や出来事が、あちこちで起こります。でも、そんな中にも主イエスの光は射し込んでいます。

  この光の方に向き直り、心を開いて、主イエスを受け入れることで、私たちは、心を温められ、励まされ支えられるのです。

  悔い改めて主イエスの光を浴びるとき、今まで隠されていた自分の罪を明らかにされることで、痛みや葛藤を伴うことになるかも知れません。しかし、この悔い改めの痛みこそが、あなたを新しく変えていく産みの痛みであり救いの始まりです。全てを委ねて下さい。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-07-23 06:52:11 (815 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書27章39,40節

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」

宣教題「十字架に向かい合う」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入られました。十字架に付けられる5日前のことです。その時、人々は、「なつめやし」を切って道に敷き(21章8節)、主イエスをメシア、キリストとして、たたえ喜んで迎え入れたのです。

  ところが、数日の間に状況は一変してしまいます。ユダヤ教指導者、祭司長たちのたくらみによって、主イエスは、神を冒涜したとして、十字架に付けられることになったのです。

  通りがかりの人々も、祭司長たちも、さらに一緒に十字架に付けられた強盗たちさえも、寄ってたかって、主イエスを小馬鹿にし、「神の子なら自分を救ってみろ」と挑発したのです。あの荒野での悪魔の誘惑の時の悪魔の言葉を思い出します。

  主イエスの十字架は、全ての人の罪を露わにしました。その罪は、主イエスの身に全てを負わせることになりました。そして、主イエスは、十字架での死を迎えられました。それは、全ての人の罪を身に負った身代わりとしての犠牲の死でした。

  人は、自分の罪を明らかにされ、自ら、その罪と向かい合い、これを認めること無しには、救いに至ることは出来ません。主イエスの十字架を自分の罪の結果だと悔い改め、受け入れるならば、私たちは罪を清められ、赦され、救われるのです。十字架に大胆に近づく者には、主イエスを通して、神の救いが与えられるのです。


 


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