本日の聖書 ルカによる福音書18章15〜17節
「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。弟子達は、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」
宣教題「子供の様に」 牧師 新保雅雄
神の国とはなんでしょうか? 死んだ後に行く世界だけではありません。神の国とは「神が治める国、神と共にいる国」ということです。神を信じる信仰の人生がすでに神の国に入っていると言う事なんです。
あそこにあるここにあるというものではなく、神を信じたときが神の国なのです。
ここでは、つまりイエス様は「子供のようでなければ、神様を信じることはできない」と言われておられるのです。
では「子供のように」とはどういうことでしょうか?
純真、素直、無垢、このように思われがちですが、ホントにそうでしょうか? 公園で子供同士のおもちゃの取り合いがよくあります。親がヒヤヒヤしながら「人のものは取っちゃダメ」と言っているのをよく聞きます。
お菓子が食べたくなると食事の時間まで我慢できなくて食べてしまいます。遊びたくなると学校の宿題をほっぽりだして一日中遊びます。おもちゃ売り場を通りかかると今日はお金がないからダメと言っても大きな声でぐずります。
イエス様は、子供のように純真で聞き分けが合って素直であると言われているのではありません。この子供のように欲しいものには、何を差し置いてでも貪欲に求めていく子供を言われているのです。
大人になると世間体や社会的なこと人の目、現実的なことから神を見ようとします。
「イエス様が好き、だから着いて行く。」子供のようでありたい。
「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠を持って使徒たちに示し40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事をされていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた。父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」」
宣教題「準備の時」 牧師 新保雅雄
4月から5月にかけて新緑の頃といわれます。秋に樹木の葉が枯れて抜け落ちていきます。長く寒い冬の間、枯れていたように見える樹木から、若葉、青葉が美しく新芽を出す。自然界に一時目を留めて見て下さい。人の目にうつる樹木は、一見休まれているように見えます。しかし、静かに春の為の命の準備がされているのです。
神の働きも、この自然界における命の準備に例える事が出来ます。神の国は主イエスの十字架の死後、木の葉が枯れ落ちてなくなるように見えます。弟子達は、全てが終わってしまったように思いました。しかし、そこには次の時代へ続く準備がされていたのでした。
主イエスは、十字架の後、復活され40日間にわたって弟子達にその姿を確かな証拠を持って現されました。確かな証拠とは、手や足やわき腹の傷の跡を見せられ、神の国を宣教をされました。
そして言われた「エルサレムを離れず前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使1:4)
主イエスの復活の後の40日間は、弟子達に神の国のことについて教える事でした。では神の国とはどういう国でしょうか?
「神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20)
あなたの間とは、あなたの心の中にあるということです。復活の後、主イエスは聖霊となられ、あなたの心の中に神の国として宿られるのです。祈りつつ準備の時を過ごして下さい。
本日の聖書 ヨハネによる福音書6章51節
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
宣教題「生きておられる神」 牧師 新保雅雄
主イエスは仰せられます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(11:25)
私達の神は、死んで人の手で石や木に刻まれたり、紙に書かれた神ではありません。それらは、人間の思いによって造られた作品です。
ましてや太陽や星、山河といったようなものでもありません。それらは神ではなく、神によって創造された被造物、作品なのです。被造物や人の欲望の産物を信じて何の益があるでしょうか。
神の作品を信じるのではなく、神そのものを信じるとき人知では計り知れない益があるのです。それが奇跡といわれるものです。私達の神は、死んだ神ではなく、死んで甦られた生きた神なのです!
八百万の神といわれるように、世には、その数だけの沢山の苦しみや悩みがあるのです。しかし、まことの神を知らない人間は、様々な偶像を作り出し益々悩みの中に入り込んでいくのです。そして救いが欲望の満たしのようになっていくのです。まことの救いとは、人の努力では手に入らない、あなた自身の命なのです。
主イエスは仰せられます「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マタイ16:26)神は、天上高くから「こうしろあうしろ、わたしを信じなさい。」とは言われません。神自ずからが天から世に降られて人となられ、自らが「神を信じる生き方とは、こういう生き方だよ。」とわたし達に真の神を示されたのです。ここに神の愛があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)生きるとは、何か?それはキリストが示されました。
本日の聖書 ローマの信徒への手紙5章8節
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
教題「私は愛されている」 牧師 新保雅雄
人はあるとき反抗期を迎える。誰しも経験があるのではないでしょうか。生まれて幼いとき、親のもとにあるとき、人生は親の考えに基づく。何事にも疑問をもたず、親を信頼している。
しかし、あるときから「俺はこうだ。」自己を主張したくなる。自我の目覚めである。親の言葉に生きることから、自分の言葉によって生きようとする。そして親への反抗、自分の世界にあこがれ、自由を求めて社会へ出る。人が知恵の実を食べたときである。
神が人を造り、生かし、養い、愛してくださる。何の不自由もない世界。しかし自己を出したくなる。ダメと言われるものは、非常に魅力的に見えてくる。
そして少年は青年になり大人になっていく。社会の厳しさを知る。こんなはずじゃなかった。そんな時、親の愛を思い出す。病気をして、うなされていた時、親は一晩中、寝ないでさすってくれた。その時は知らなかった、いま気がつく、愛されていたのである。
変われるものなら変わってやりたい、祈っていてくれた人がいる。でもその時は気がつかなかった。大人になった今、その事がわかる。わたしは、愛されていたのである。愛されていた時、愛を知ることが出来なかった。愛がない世界で愛を思い出す。
神から離れ旅をする時、そこにあるものは、孤独、挫折、騙し、裏切り、自己中心的な社会。その中に同化してしまう自分を悲しむ。
そしてたどり着いたのは、キリストの十字架の愛であった。神に敵対していた時でさえ、愛してくれていた。神の愛を知るとき、「わたしは一人で生きて来たのではない。多くの人々に支えられて生かされていたんだ。」このことを知る。ああ感謝、感謝!!
本日の聖書 使徒言行録1:44〜47
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
教題「群れの共有」 牧師 新保雅雄
主イエスが、私たちの罪のために十字架によって死なれ、黄泉に降り、三日目に蘇られました。この神の子イエスによる罪の赦し、死から永遠の命への救いによって、多くのキリスト者が誕生しました。しかしまだまだキリスト者には、大きな迫害がありました。
ペテロ達使徒は、ユダヤ人に何度も捕らえられては牢に入れられ鞭打たれました。しかし、困難に合えば合うほど彼らの信仰は、固くなっていきます。
「世があなた方を憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしが世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:18〜19)
使徒たちは、この困難によって、主イエスが共におられる、という確信が増々強くなっていくのです。選ばれ集められた主の群れが、キリストの体なる教会になっていく時なのです。
「財産や持ち物を分け合う」それぞれに与えられた財や才能、知恵、力が、自分一人の為ではなく群れのために使われていく。
「毎日ひたすら心を一つにして祈る」主なる神は一人である。真理は一つである。そして祈りも一つになり群れも一つになる。
「一緒に食事をし神を讃美していた」教会の中だけではなく、人生の営みすべてを共有していく。共に泣き共に喜ぶ。
そして集められた「信者たちは皆一つになって」いくのである。
艱難辛苦にあるときこそ、一つになれる時である。